「……いきなり何を言い出すのかと思えば……」
「だって、こんなことほかの人に相談できないよ!」
目の前で苦笑を浮かべた彼女に眉を寄せると、『まぁね』と小さく呟いてからコーヒーを含んだ。
くるくるとよく回る椅子だなぁと、ある意味感心する。
そう。
私が今いるのは、我が家のすぐ隣にある病院の診察室だった。
……といっても、昔からよく知ってる場所なんだけど。
「で? じゃあ、優菜はどうしたいの?」
「……いやいや。そもそもが、どうしたらいいかなぁと思って、ここに来たんだってば」
「あぁ……それもそうね」
「もー。彩ちゃん、相談乗ってくれるって言ったじゃない!」
「あはは。ごめんごめん」
それはそれはおかしそうに笑った彼女を見て、つい自分にも同じような笑みが浮かんだ。
彼女は、この病院で医師をしている芹沢 彩。
――そう。
れっきとした、綜と宗ちゃんのお姉さんだ。
「でも、綜が一緒に住もうって言ってくれたんでしょ? なら――」
ぶんぶん。
「……え? 違うの?」
こくこく。
コーヒーカップを持ちながら、彼女に首をあちこち動かす。
「一緒に住もう、なんて嬉しい言葉じゃなかった。なんか……召使いみたいな……」
「召使い?」
「うん」
ため息が出るのも、しょうがないと思う。
だって、あれは『同棲』なんていう甘い響きが感じられる言葉なんかじゃなかった。
「引っ越す」
「え?」
――あれは、綜の付き人として指名されて……そんでもって、初めてキスをした次の日だった。
着信があって何かと思えば、『ちょっと来い』という部屋への呼び出し。
昨日の今日ってこともあって、かなりどきどきして向かったものの、窓辺に立っていた綜が私に振り返りながら、唐突すぎる一言を突きつけた。
「え、ちょっと待って。どういうこと? 引っ越すって、え? 綜が?」
「それ以外にどう聞こえた」
「……ちょ……ちょっと待って。え? それと私とどういう関係が――」
「お前は付き人だろ? 一緒にいて俺の世話を焼くのが仕事じゃないのか?」
「………………はぁあ!?」
平然と言われた言葉を理解するまで、数秒はかかった。
え、だって“付き人”ってのは、あくまで仕事上のってことじゃないの? と思ったのはどうやら私だけらしく、ぽかんと口を開けたままでいたら、綜はそれこそ怖い顔をして眉を寄せた。
「でも、あの綜が同居を選んだんでしょ?」
「それはそうなんだけど……」
「アイツ、昔から部屋へ誰かに入られることすら嫌ってたの、優菜も知ってるじゃない? そんなアイツがよ? 四六時中一緒にいる同棲を選んだんだから、やっぱ愛されてると思うけど」
「……そうかなぁ……」
「そうだってば」
苦笑を向けられ、つい視線が落ちる。
だって正直、不安しかないんだもん。
それこそ、本当にこのまま一緒の生活をスタートしてしまっていいのか、という根本的なやつが。
「あのね、彩ちゃん」
「はい?」
「具体的なご相談をしてもよいかしら?」
「うん? どーぞ」
さらりと彼女の動きにあわせて動く、短い髪。
それが白衣によく映えて、相変わらず美人な女医さんだなぁと感心する。
「この1週間と3日の間、キスはおろか、抱きしめてもらってないんだけど、それでもおっけーだと思う?」
「そうなの?」
ほら。
やっぱり不安になるでしょ?
眉を寄せて向き直った彩ちゃんにうなずくと、小さく唸ってから腕と足を組んだ。
「……それは……ちょっと問題かしらね」
「でしょ!? それに私……綜の気持ち聞いてないんだよ?」
「え。……何よ、綜ってば優菜に好きとかなんとか、言ってないの?」
「言われてない」
「ほんとに? ……アイツ、どーしよーもないわね」
小さく舌打ちが聞こえた気もした。
でも、はたと止まった彩ちゃんは、慌てて手と首を振る。
「いやー、大丈夫よ。ね? ほらっ。綜って、昔っからこう……なんていうんだろ。感情表現が下手っていうか、なんていうか」
「……いいよ、そんな。ダイジョブ。わかってるつもり」
やっぱりだよね。
普通、そう思うよね。
ぬるくなってしまったコーヒーをひとくち飲みながら、ついため息が漏れた。
彩ちゃん今、めちゃめちゃ慌ててたもんなぁ。
やっぱり、こんな私たちの関係は変なんだと思う。
こんなこと……友達に相談したら、即『別れろ』とか言われそうよね。
……はぁ。
「でもほら! 優菜なら大丈夫よ。あんた、きれいになったし。それに、綜からキスしたんでしょ?」
「……でも、あれは――」
「だーいじょうぶだってば! ね? 姉の私が言うんだから、あんたたちふたりはうまくいくって!」
「だといいんだけど……」
「……もー。優菜ぁ」
ぐりぐりっと頭を撫でられ、しょげた顔にようやく笑みが戻る。
確かに、彩ちゃんの言う通りだといいなぁとは思う。
でもねぇ…………綜って私のことどう思ってるんだろ。
ついつい、考えはそればかりに向いてしまうけど……まあ、いくら考えてみたところで答えは出ないんだから、しょうがない。
「ん、がんばる。ごちそうさま」
「はーい。またおいでね」
「うんっ!」
ぐいっとコーヒーを飲み干してソーサーごと彼女に返し、礼を言ってからその場をあとにする。
今日はちょっとだけ忙しくなる予定なんだよね。
なんてったって、綜が見つけてきた物件への引越し当日なんだから。
「……なんか……広い」
綜が見つけてきた賃貸のマンションは、南向きで光のよく入る明るい部屋だった。
綜の家の部屋とは、大違い。
陽の当たっている部分がものすごく暖かくて、心底ほっとする。
結局は引越しといっても業者を介さずに、すべて自分たちでの搬入。
だって、綜ってば荷物少ないんだもん。
それに、このマンションには家具や家電が備え付けられているからというのもあったんだけど。
ベランダも広くて、窓も大きい。
……ああ、いいなぁこういう家って。
よくテレビとかで見かける、マンションと同じ。
12階というだけあって、眺めもいいし。
最近流行の、デザイナーズマンションってヤツ?
キッチンも広くて、きれいで。
ああもう、これはすごく嬉しい新生活の始まりの予感!
ーーと、普通の同棲だったら、まず間違いなくすてきで平穏無事な日々が送れると思うんだけど……。
「ねぇ、綜。これはどこに入れたらいい?」
「適当でいい」
「あのね。適当じゃ困るから聞いてるんでしょ。だいたい、一応は綜の仕事着でしょうが!」
「服ならクローゼットがあるだろ? どこへでもいいから、掛けておけ」
……またこれだ。
さっきから何を聞いても、大抵返ってくる返事は『適当』極まりないことばかり。
『どこでもいい』とか、『どれでもいい』とか。
もうちょっと気の利いたセリフは言えないわけ?
しかも、なんで私が綜の荷物まで整理してあげなきゃなんないのよ。
これじゃ、ホントに召使いじゃない!
「はー……」
スーツカバーに入ったままのタキシードを見ながら、本日何度目かのため息が漏れた。
私、これから先本当にやっていけるのかしら。
そんな心配が、消えてくれない。
……あーもぉ。
仕方なく綜の荷物を片付け終えてから、今度は自分のものに取りかかる。
といっても、まぁ、服とか小物とかだから、たかがしれてるけど。
でも、チェスト付きっていうのは嬉しい!
少し背の低いチェストの色が暖かくて、笑みが漏れた。
なんか、綜には不似合いな色だよね。
……まぁ、いっか。
「…………」
荷物をしまって、ダンボールを畳んで……ふと部屋を見回す。
入ったときにはなかった、ちょっとの違いなんだけど……生活感がちょっぴり湧いた気がして、なんだかほっとする。
物があるかないかで、随分と差が出るんだなぁ。
……これから、ここで一緒に暮らすんだ。
「…………」
ずっとずっと、忘れられなかった好きな人である、彼と。
几帳面に本を棚にしまっている綜を見て、つい含み笑いが漏れる。
えへへ。ちょっとどころか、やっぱりすごく嬉しい。
畳んだダンボールを玄関へまとめてからキッチンに戻り、管理人さんに貰ったゴミのカレンダーをチェック。
紙は来週かぁ……。
それまでこれだけのダンボール置いておくのって、結構邪魔だなぁ。
と思うけれど、まさか引っ越してきて早々に規則を破るわけにはいかない。
……あ。ここに貼ったら嫌がるかな。
でも、ゴミの収集日がわからないのは困るし。
マグネット欲しいなー。
綜がそんな物を持っているはずないし、100均にでも行って買ってこよう。
素朴な疑問なんだけど、そーいえば綜って100均のお店に行ったことあるのかな。
すごーく不釣り合いなお客さんだろうけど。
「綜、何か飲む?」
「ああ」
相変わらずこっちを振り返らないままで、彼が答えた。
……まぁいいんだけどさ、別に。
冷蔵庫を開け――。
「……って、あるわけないか」
そりゃそうだ。
冷蔵庫は備え付けだったけど、買い物してないし。
でも、つい開けちゃうんだよねー。
ホテルにある冷蔵庫と同じ感覚で……って、そういえば。
「ねぇ、綜。食器って持って来た?」
「俺がそんなものを準備してくると思うか?」
「いや、それは……え、じゃあ、何? お箸も、お茶碗も、グラスも……なんにもないの?」
「見ればわかるだろ」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょうが! だったら、買い物行こうよ!」
「……ちょっと待ってろ」
目を見たままため息をつかれ、思わず唇を尖らせる。
何よその怪訝そうな顔は。
だいたい、食器とかカトラリーなんていうのは、引っ越す前に準備しておくものでしょ? 普通。
当然だけど、棚を見てもグラスひとつない。
ダンボールも全部開け終えたし……まだどこかに眠っているような雰囲気もなし。
そうか。
じゃあまずは、買い物へ行かないとだめなんだ。
綜はまだ何やら本を弄ってるし、あの様子だとまだかかるかもしれない。
それに、必要最低限なもので生きていけそうなタイプだから、私にとって必要なものをリストアップしておいたら間違いないだろう。
そう考え、キッチンのカウンターに置いたメモ帳とペンを手に、私はあちこち回りながら生活用品を書き出し始めることにした。
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