「……むー」
準備も終わったのに。
ちゃんとダンボールもまとめて、欲しい物リストも作り終えたのに。
……ちょっとぉー。どういうこと?
ソファに座ってテーブルに両肘を付きながら、ついつい、ぶーたれた顔になってしまう。
『ちょっと待ってろ』って言ったのは、どこのどいつよ。
だいたいねぇ、普通の人の『ちょっと』っていうのは長くても30分が限度でしょ?
なのに、あれから3時間は経とうとしていた。
最初はテレビでも見て気長に待ってればいいかなーなんて思ってたけど、とんでもない。
一向に綜がリビングに戻ってくる様子がないまま、再放送の3時間サスペンスが無事に終了。
……なんなのよ。
ひょっとしなくても、完璧に放置よね。これって。
お腹も空いた。
喉も渇いた。
って、『お預け』食らったままのワンコか、私はっ!
両腕をテーブルに置いてさらに顎を乗せ、姿勢の悪いままチャンネルを変える。
どれもこれも他愛のない番組ばかり。
肝心の綜はといえば、空いている部屋へこもったきり出てこないし。
とはいえ、何をしているのかは、もちろんわかる。
だって、彼がその部屋に消えてからずっとヴァイオリンの音が微かに聞こえてきているから。
……でもさぁ。これまでのたった数日からわかったんだけど、綜が練習始めちゃうと3時間は出てこないわけよ。
ヘタすると、5時間なんてこともある。
そりゃあ、プロのヴァイオリニストだからこそ、練習しなければいけないことはわかってるよ?
1日たりとも疎かにしたら、腕が落ちるっていうのもわかるよ?
でもさー。
何も、ご飯食べないでやらなくてもいいと思わない?
しかも、『買い物行こう』とまで言ったのよ? 私は。
それに対して『ちょっと待ってろ』って言ったのは、どこのどいつよ!
ああもうこれ、2回目!
……うー、もう限界。
ダメ。お腹空いたし。
空腹とイライラでおぼつかない足どりのまま部屋へ向かい、ヴァイオリンの音が止むのを待ってからノックをすることにした。
これって、かなーり譲歩してると思うんだけど、きっと綜には伝わってないんだろうなぁ。
「……なんだ?」
「なんだ、じゃないでしょ。お腹空いたっていうか、買い物はどうしたのよ……」
いたって平然とした顔で言われ、思わず怒る気が失せた。
……なんか、ひとりでカリカリしてるのが馬鹿みたいに思えてくる。
「だから、もう少し待て」
「いやちょっと待って。あれから3時間は待ってるんだけど」
「……そんなになったか」
呆れた。
時計があるのに時計を見ないって、どーなの?
いやいや、今さら見ても遅いから。
ため息をついてドアにもたれると、何も言わずに彼がヴァイオリンを下ろして弓を振った。
「……え?」
「出かけるんだろ?」
「それは……うん。え? でも、いいの?」
「何がだ?」
「いきなり、練習やめちゃって……」
「お前がやめろって言ったんだろ?」
「う。それはそうだけど……だってほら。マラソンとかって、いきなり走るのやめちゃうとよくないって言うじゃない?」
「……マラソンとこれと、なんの関係があるんだ? いきなりやめたら、身体に負担でもかかるのか?」
呆れたように正論を吐かれ、口を真一文字に結ぶ。
いや、でも、ね?
まさか、そんな急に練習やめてくれるなんて思わなかったから、逆に慌てちゃったのよ。
「…………」
丁寧にヴァイオリンをガーゼで拭く姿を見ていると、なんともまぁ不思議な感じだ。
それはそれは大事に扱っていて、丁寧だし。
……まるで、大事な彼女にでも触ってるみたい。
…………。
あれ、おかしいな。
私ってば、その大事な彼女とやらではなかったのかしら。
「……なんだ?」
「ん?」
まじまじと見ていたら、案の定怪訝な顔を向けられた。
「いやー、大事にしてるなぁーって」
「当然だろ。商売道具だぞ?」
「そうなんだけど。……でもなんか、重たそうだね」
「……どれだけ重いのを想像してるんだ、お前は」
見た目が濃い色だからか、ふと思ったことを口にしてみたら、案の定鼻で笑われた。
いや、でもね?
なんかこう……すごーく重そうなのよ。
色といい、質感といい……重厚感たっぷり、みたいな。
「ほら」
「うえ!?」
「……なんだよ」
「ちょ、ちょっと待って。いいの? そんな……私が持っても」
「落とすなよ」
「もちろん!!」
いきなり普通に手渡され、こっちがびっくり。
いいのかな? 私みたいな素人が触っちゃって。
「……あれ」
といいながら手を伸ばして、拍子抜け。
自分が思っていたよりもずっと……というよりは、かなり軽い。
しかも、妙に手に馴染む。
「……なんか、すごいねこれ」
「だろうな。270歳だ」
「何が?」
「それ」
「……ヴァイオリンの年?」
「ああ」
弓の毛を緩めてケースに戻した綜が、小さく笑う。
「……270歳ってことは……270年モノ?」
「ワインみたいな言い方だな」
「でも、そういうことでしょ?」
「まぁな」
「……っ……すごい」
改めてヴァイオリンを見ると、確かにこう……ご、後光が見えるような気がする。
すごいなぁ。
ヴァイオリンって、本当に長生きするのね。
「じゃあ、綜が弾く前にもたくさんの人がこれを大事にしてきたんだね」
「そうだな。……現に、それは俺の恩師から継いだものだ」
「お師匠さん?」
「ああ」
まさか、そんな経緯があったとは知らず、思わず目が丸くなった。
綜とは9年離れていたこともあって、彼が向こうでどんな暮らしをしていたかは、ほとんど知らない。
知っているのは、どれもこれもおばさまや宗ちゃんからの情報で、間接的なもの。
だから、綜のあっちでの生活がちょっとでもわかるのが、素直に嬉しい。
そっかぁ。
どうりで、綜が大事にするわけだよね。
「じゃあ、綜の次にこれを手にする人がいるかもしれないんだね」
「……まぁ、普通に考えたらいるだろうな。だから、次の人間のためにも手入れを欠かさないというのが、貰うときの条件だった」
「へぇ」
綜の恩師の人がどんな人かは知らない。
だけど、その人のことを話すときの綜の顔は、まるで小さい男の子みたいだった。
恩師っていうからには、きっと向こうで会った人なんだよね。
……どんな人なんだろう。
こう……人のよさそうなおじいさんが浮かぶのは、なんでかな?
それこそ、白いお髭をもじゃもじゃ生やした、サンタクロースみたいな。
「ありがとう」
「ああ」
窓にもたれてこちらを見ていた綜にヴァイオリンを返すと、再び布で拭いてからケースへ大事そうにしまった。
その横顔は、本当に優しげで。
ああ、大事なのね。本当に。
願わくば、その優しい顔を私にも1割くらい向けてくれると、とっても嬉しいんですけど。
「落とさなくてよかったな」
「当り前でしょっ。私、そんなにドジじゃないよ」
「お前じゃ、一生かかっても弁償できないぞ」
「え。何……そんなに高いの?」
「いくらだと思う?」
「…………ずばり1千万とか……」
「ケタが1個違う」
「え?」
ケタ。
ケタってことは、ゼロの桁?
「……お……億!?」
「簡単に手に入る億でもないけどな」
「……ってことは……!!」
「まぁ、そういうことだ」
「ひぇ……!」
さらりと言われた言葉に、がっつり鳥肌。
……うはぁ。
って、そ、そんな大事な物ひょいひょい渡さないでよ!!
「……どうした?」
「や、だってそんな、ちょお……今ごろになって震えが」
うーわぁー。落とさなくてよかった……シャレにならない。
「まあ、お前がどうやって責任取るのかも見てみたかったが」
「ひどっ!」
パチン、と音を立ててケースを閉めた綜の笑みは、半分以上が本気だったと思う。
うぅ、ほんとに笑えない冗談だから。
「……え?」
「出かけるんだろ」
「あ、うん」
とはいえ。
そんなにお高い物だとは知らなかったヴァイオリンを残したままで出かけるのって、結構勇気いるんだけど。
……ドロボーとか入ったら、どうしよう。
玄関に向かいながらそんなことを考えていると、綜が意地悪く笑った。
「お前、小心者だな」
「っ! ほっといて!!」
どーせ、綜とは違うわよ。
ていうかね、普通の人は値段聞いただけでビビるわよ?
うん。
おかしいのは、綜だからだ。
深呼吸をしてから靴を履き、やっぱりまだ心配ではあるけれど……とりあえず、買い物に出かけることにした。
……すっと行って、さっと買って、ぱっと帰ってこよう。
玄関の鍵をきっちりと閉めながらそんなことを考えたのは言うまでもない。
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