うーん……家の鍵が開かない。
 あーれー? 何よ。
 ひょっとして綜ってば、私が勝手に出かけたからって怒ってるわけ?
「むむ……」
 なんてことを考えながら2、3度鍵を差し込んだら、今度はあっさりと回った。
 ……んんー? なんか変だなぁ。
 よろけそうになりつつ靴を脱ぎ、壁を伝うようにして向かうのは、まだ明りが点いているリビング。
 どーやら、さすがの綜もこの時間には寝ていないらしい。
 って、そりゃそうだ。まだ22時前だしね。
 閉じられているドアノブを強く握り締め、そのまま一気に開け放つと、定位置と呼べるソファへ綜が座っていた。
「ただいまーあ帰りましたぁ」
 相変わらずの格好でソファに座っている綜と目が合ったので、とりあえず無難にあいさつをする。
 ソファの手前へ脱いだ上着とバッグを落とし、そのまま綜の隣へ――。
「っ!」
「ありゃ? やー、ごめんごめん」
 勢いあまって、隣ではなく綜へのしかかる格好になった。
 珍しく、驚いた顔の綜がちょっと面白かった。
「あはは、やだ綜ってばーなにその顔。おっかしーんだ」
 けらけら笑いながら肩を叩くと、眉を寄せて心底嫌そうな顔を見せた。
「酒くさいぞ、お前」
「飲んだもん。ていうか、私はもう飲んでいい年頃なの」
「どれだけ飲んだのか知らないが、お前もともと弱いだろ?」
「失敬な! これでもお酒には自信があります!」
「……この酔っ払いが」
「酔ってませんよ」
「自覚なしか。最悪だな」
「ぬぁんですってー?」
 ぐいっと顔を近づけて目一杯睨みつけると、瞳を細めてからため息を漏らした。
 あらやだ、綜ってばお肌すべすべそうで……って、くそぅ。そんなとこまで負けてるのか私は。
 むぅ、と唇を尖らせると、目の前に手のひらが見えた。
「とりあえず、その酒臭い息をなんとかしてこい」
「何よぉ。仮にも彼女に向かっていう言葉じゃないでしょお?」
「……彼女?」
「そーよ、彼女。彼女でしょ? 私。そうよ! 私! 綜の彼女に決まってるじゃない!」
 眉を寄せてつぶやかれ、思わずむっとしてこっちも眉が寄る。
 なんなのよ、その口ぶりは。
 まるで、私のことだとはこれっぽっちも思ってもないような言い方じゃない!
「あーもぉ! 綜!!」
「なんだ」
 ぐいっと胸倉を掴み、引き寄せてから睨みつける。
 かくいう綜も、瞳を細めてすっごい怖い顔してるけどね。
 ああでも待って、これってある意味デフォルトかも。
 ああ、そうよそう。いつもこんな顔だったわ。
 私に対しては一度だって、にこりとしたスマイルなんて向けてくれてないんだから。

「いい加減、私のモノになって」

「……は?」
「だから――ってぇい! まどろっこしいわ!!」
「ばっ……優菜!」
 どーん、とソファに彼を押し倒してから、シャツのボタンを外し始める。
 練習なんて当然したことなかったけど、あらやだ、私って案外器用だったのね。
 目に入った綜の胸元を見ながら、そんなことが浮かぶ。
 ……っていうか、綜の生肌とか……ちょっとやだ、大胆すぎる?
 普段見慣れない部位が目に入って急激に恥ずかしくなったけれど、バレないように平静を装いながら、すべてのボタンを外す。
 でも、外し切ったときにはさすがに、心臓がばくばくうるさかった。
「……はあ」
 どきどきして苦しい。
 押し倒したこともあって、身体の下に綜がいる。
 相変わらず睨みつけてはいるけれど、手を出すことも、文句を言うこともなく。
 ただただ迷惑そうではあるけどね。
「やめろ」
「ヤダ」
「……はっ倒すぞ」
「どーぞ」
 正直言って、綜がそんなことするとは思ってない。
 なんだかんだ言って、優しいんだよね。綜って。
 彩ちゃんにいろいろ綜のことを聞いてはいるし、知ってもいるけれど、彼女の言う綜と私が普段見ている綜とは違う人みたいな点が多い。
「はーやだ、すべすべー」
「…………お前、それセクハラだぞ」
「そう? まぁ、なんとでも言ってよ」
 頬を撫でてから、首筋ーーそして鎖骨をたどる。
 余計な肉のついてない、さらりとした肌の感触に、男の人ってこんなに自分と違うんだなと感心もする。
 ていうか、私……綜に触ってるんだ。
 好きと言われた気持ちを否定されて、生涯触れることの叶わないと思っていた人に、今、躊躇なくできている。
 ……そうなの。
 とても好きな人。
 小さいころからずっと、その背中を見続けてきて、離れてしまう事実に向き合えなくて精一杯の気持ちを伝えたのに、全力で拒否されて。
 ずっと優しくしてくれていたから、私のこと好きでいてくれてるんだと思ったのに、困ったように言われたあの日。
 そこから私の人生は変わってしまって、思えば、綜が日本を発つ日までの間も、まともに会話はおろか顔を見ることもできずに、さよならしてしまった。
 そんな人と数年ぶりに再会して、横柄な態度を取られて。
 でも、嘘みたいだって思いながら、すごくすごく嬉しかった。
 ずっと好きだった人が、自分に『来い』と言ってくれた。
 求めてくれた。
 だけじゃなくてーーキスすることが、できて。
 好きだと伝えたあの夜から、綜との関係が大きく変わったし……変わっていくんだと期待していた。
 だからこそ、一緒に暮らすなんて特別な今になったのに、何も変わらなかったことがただただ不安で、怖くて。
 もしかしたら本当に、綜にとって私はただの身の回りの世話をするだけの役割しか与えられないんじゃないかと思ったら、認められなくて逃げ出していた。
「……優菜?」
 黙ったままでいた私が変だと思ったのか、綜が名前を呼んだ。
 でも、何も言うことができず……あれ、おかしいな。
 なんで目の前がこんなぼんやりしてるんだろう。
 『何よ』って言おうと思ったのに、言葉が詰まって出てこない。
 ああ、そうだよね。変だよね。
 唇を開いて言葉をつむごうとしているのに、まったく何も言わない私はどうやらおかしいらしい。
 私へ手を伸ばした綜は、訝しげな表情をしながらも、どこか優しかった。
「……っ……なんで……よぉ」
 しゃくりが上がったことで、ああ、自分は泣いていたのかと気づいた。
 ぼたぼたと、綜のシャツを握りしめていた手の甲へ涙が落ちる。
 本当は、自分のこんな気持ちを伝えてコミュニケーションとればよかったのに。
 でも、怖くて怖くて確かめられなかった。
 『求められても困る』と言われたら、今度こそ自分の人生が閉ざされるとわかっていたから、怖くてできなかった。
「私、わたしっ……綜の彼女じゃないの?」
「……何?」
「綜のこと、わたし、こんなに好きなのに。ほんとは迷惑なの? だからキスしてくれないの?」
 ああ、情けないな私。駄々をこねる子どもみたい。
 伸ばしてくれた手が欲しくて、両手でつかんだまま頬をすり寄せる。
 あったかくて、大きくて、あんまり私に伸ばされたことのない手。
 だけど、今だけは私だけに触れてくれていて、すごく特別な気持ちになる。
「私、ただのお手伝いさんと同じじゃないよね? 彼女だから、一緒に住んでるんだよね?」
「お前……」
「私じゃなきゃダメだから、一緒にっ……ねえ言ってよぉ……! やだぁ、わたし、綜に好きになってほしいのに!」
 ふるふると首を振り、情けなくも本音が漏れた。
 私だけが綜を好きなだけじゃ、あのころと何も変わらない。
 そうじゃなくて、私を求めてくれたから今のこの生活があるんだと聞きたかった。
「優菜」
「ふぇ……」
 いつもと違って、すごく優しく名前を呼ばれた瞬間、涙がさらにあふれた。
 名前を呼ばれるのが、嬉しい。
 たったそれだけなのに、特別な魔法の言葉みたいですごく安心する。
「……優菜」
 まるでそれがわかっているかのように、身体を起こした綜は、もう片手で髪を撫でるとまた名前を呼んだ。
「お前、そんなこと考えてたのか」
「だって……綜のこと好きなの、私ばっかりなんだもん」
 ティッシュを取って、涙と一緒にハナをかむ。
 ええ、ええ、もはやムードもへったくれもないわよ。
 そんでもって、お酒のチカラも全部ゼロよ。
 アルコールって、涙と一緒に分解されるのね。
 家を出たときと違って、やけにすっきりした気持ち……だけど、顔面はもはやお化粧崩れて情けないことになってるけど、もう、知らないことにする。
「一緒に住んでるんだから、なんでも言えばいいだろ?」
「そうはいかないの! 綜が私のこと好きなんじゃなくて、単にお手伝いさん要員として私と暮らすって言ったんだとしたら、どん底へ突き落とされるじゃない」
 すん、と小さくはなをすすって眉を寄せると、綜は呆れたようにため息をついた。
 でも、その顔はちょっと優しい。
 ああなるほど。
 どうやら私、綜のほんっっっのささいな表情の違いを見極められるようにはなったらしいわ。
 そういう意味では、彼との時間を過ごす中で、大きな進化を遂げている。
「お前だから一緒に暮らしてるんだろ」
「っ……綜ぉ……」
「……なんでまた泣くんだよ」
「だってぇえ……うえーん嬉しいぃ」
 一度引っ込んだはずの涙がふたたびこみ上げ、抱きついたまましゃくりを上げる。
 呆れた声が聞こえたけれど、でも、今はまだいいとする。
 小さい子をあやすかのようなそぶりではあったけれど、綜が背中を撫でてくれて、その温かさがすごく嬉しかった。

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