『少しは自分で考えろ』

 今でも耳に残っているあの言葉は、思い出そうと努力しなくても鮮やかに蘇る。
 数年ぶりに聞かされた、同じ意味を持つ言葉。
 それは、年を経た今、少しだけ形を変えてまた私のところへ戻ってきた。

「お前には、がっかりした」

 今から9年前。
 夕暮れの公園で聞かされた言葉は、当時の私にとってつらすぎる現実だった。

「なんで……? だって綜、ずっと……ずっと私のこと……」
「俺はガキに興味ない。お前のことだって、これまで一度もそんなふうに思わなかったのに」

 あのとき初めて、『言わなければよかった』って後悔した。
 それまでは笑顔だったのに。
 優しい顔をして、私を見てくれていたのに。
 ……あれからじゃないかな。
 綜が、私に対して優しい……温かい笑顔というモノを見せてくれなくなったのは。
 あのときの綜の姿は、今でも忘れられない。
 夕暮れの公園で、キレイな夕日を背にして立つ彼に告げられた、景色とは正反対の冷たい言葉。
 ……だけど、素直にきれいだと思った。
 あのときの綜は、とってもきれいだった。
 カッコよかった。  …………だから。
 だからきっと、綜が単身渡欧したときも諦めきれずに、ずっとずっと――。
「……好きだったのに」
 膝を抱えたまま座り、目の前のテレビを見て唇が動いた。
 久しぶりに帰ってきた、我が家。
 ……そう。
 『我が家』というからには、綜と住むあの家じゃない。
 実家の、自分の部屋だ。
 ぴっちりと閉められたカーテンの向こうには、明かりが点くことのない綜の部屋がある。
 ……綜。
 彼のことを考えるたびに、苦しくて、怖くなる。
 あれから、今日で何日目だろう。
 外に出るようなこともほとんどなくて、ただただ家の中だけで過ごす日々。
 日にちの感覚は、あえて自分から捨てたようなものだ。
 カレンダーも見なければ、日付や時間が表示されるテレビ番組も目にはしない。
 ――ただ。
 そのどちらをも消すことなく刻々と知らせ続けるスマフォだけは、どうしても電源が切れなかった。

 もしかしたら、綜から連絡が来るんじゃないか。

 そんな薄い希望を未だに持ち続けているくせに、綜との共有を捨てたのは自分。
 あのとき。
 綜に電話をしたあのとき、彼は何かしら言ってくれるんじゃないかって期待してた。
 ……私、綜にとってなんなんだろう。
 ドラマとか漫画とかで、主人公とヒロインが揉めるシーンでは必ず口に出される、必然。
 それを私も、ついに口にした。
 別に、これまでそう思ったことがなかった訳じゃない。
 綜に対して、不満をぶつけなかったわけでもない。
 今までだって、ずっとそうだった。
 不安でたまらなくて、何度も綜にぶつけた。
 怒った。
 泣いた。
 だけど、どれもこれも今回とはまったく違ってたのかもしれない。
 ……だって、おかしいでしょ?
 自分の彼女が、別の男に交際申し込まれただけじゃなくて、半分軟禁状態であちこち連れまわされたんだよ?
 なのに、何も言わないなんておかしい。
 それはやっぱり、私を『彼女』だと思ってなかった証拠……なのかな。
 ……おかしいよ。
 ふたつの意味を込めて薄く笑うと、CMがあけて番組の続きが始まった。

「音が見えるって言ったら……おかしいと思われるかも知れませんが」

 落ち着いたトーンの静かな低い声。
 くすりと笑った彼が、足を組み替える。
「耳で聞き、口で歌い、そして目で見る。きっと私以外の演奏家の方もそうでしょうけれど、私は特に『目』で見ることが多いんですよ」
「……目で見る……ですか。これはまた、興味深いお話ですね。さすがはヴィルトゥーゾ(名技主義者)と呼ばれる方だけある」
「そんなに大したものでもありませんけれどね。でも、別に比喩とかってワケじゃないんですよ?」
「ほぅ。となると、ほかの演奏者の方とは舞台でも心持ちが違いますね」
「ええまぁ。たとえば……そう。どんな形のコンサートでもそうなんですが、私の場合は緊張することがまずないですね」
「っ……」
 淡々と続けられる、他愛ないトーク。
 だけど一瞬、話している彼の隣に座っていた男性が、ぴくりと反応を示した。
「それは初耳だな。……すごいですね。じゃあ、芹沢さんは私と違う、と?」
「いや、そういう意味で言ったわけでは。ただ私の場合は、観客のみなさんの顔を見ていられますからね。やはり、その分背中で圧倒的な視線を受けている東堂さんとは違うでしょう」
 笑顔を浮かべながらも、明らかに東堂さんの発言は『嫌味』だった。
 だけど、そんなこと微塵も感じさせないような笑顔で、彼はさらりとかわす。
 ……そう。
 私の目の前では見ることのない、ヴァイオリニスト『芹沢綜』は。
「あの180度パラレルというステージに立つと、眩しいスポットと何百という観衆にドキドキするんです。それは先ほども申し上げたように、『緊張』から来るのではなく……そう。言うなれば、『歓喜』でしょうか」
「歓喜ですか?」
「ええ。あの場に立って自分の演奏をするということは、ずっと憧れでもありましたから。……だから、その喜びを押さえるのが大変なんです。毎回ね」
 くすっと笑い、組んだ手を解いて身振りを交える。
 本当に楽しそうな顔。
 ……私といるときと、全然違う。
 こうして画面を通して見る彼は、何もかもがまるで別人だと言ってもいいほどだった。
「自分の演奏を聴きに来てくれた人に対して、『どうだ、これが俺の演奏なんだぞ』って。だから、まばたきは(おろ)か、視線を外すことすらしてほしくない。……いや、させない自信はありますけれどね」
「いやぁ、すごい自信ですね。さすがは、そのお年でソロ・コンサートマスターを任されてらっしゃるだけありますなぁ」
「はは。当然ですよ。むしろ、それだけの自信を持っていなければ務まりません」
 まるで、『とんでもない』と謙遜したように微笑みながらも、その瞳は鋭いまま。
 笑ってなんかいない。
 ……でも、みんなあの人当たりのいい笑顔に騙されちゃうんだ。
 どれだけ大きなことを言ったって自信過剰だと責められることもなく、『あの芹沢綜ならば……』と納得させられてしまう。
 それが、綜だから。
 裏の顔を表へまったく覗かせることなく、自分が描いた安寧な日々を維持できる人だから。
「そういえば、芹沢さんは『天才』という言葉が嫌いだとか……」
「ええ。あれほど安っぽい言葉はないでしょう? 人に対して失礼だ」
 すぅっと、綜が瞳を細めた。
 その表情だけで、彼の今の気持ちが十分すぎるほど伝わってくる。
 ……心底嫌いなんだ。
 確かに、そういえば綜は雑誌やテレビのインタビューなどでも、決して『天才 芹沢綜』という冠をかぶることはなかった。
「毎日毎日努力して、常人ではなしえないほどの鍛練を積んでも、『天才』という言葉であっさりと片付けられてしまう。まるであたかも、最初から努力などしていないかのように。……だからですね。私が嫌いなのは」
 椅子へ背を預け、さりげなくため息をつく。
「『異端児』、大いに結構。ありきたりな言葉でヘタに飾り立てられるより、ずっとイイじゃないですか」
 その表情を見て、司会の人が慌てたように笑って咳払いをした。
「芹沢さんは普段、どのようなお気持ちで舞台へ上がってらっしゃるんですか?」
 冷や汗でも掻いているかのようにハンカチを握り締め、喉を動かして必死に綜へ笑顔を浮かべる。
 ……怖いんだ。
 多分、あの場にいる彼だけじゃなくて、ほかの人もきっと。
 笑顔を振り撒いているにもかかわらず、綜はピンと張り詰めるほどの雰囲気を作り出せる人だから。
 笑顔の中にさえ……ぞくりとした、狂気にも似た感情が秘められているから。
「黙ってこっちを向いて、俺の音を聞け。恐らくどんな演奏家の方も、そういうプライドは持っているでしょう。だからこそ、やめられないんですよ。あの場に立つことで得られる、あの快感がたまらなく心地よくて」
「……快感ですか?」
「ええ。……ああ、そんな顔しないでください」
「あ、いえ、その……はは、すみません」
「でも、気持ちいいですよ? それぞれチケットを手に、自分の席へ座る。その周囲の人間は、誰だって最初は知らない人同士だ。でも、帰りには『あの曲がよかった』『あそこがああだった』と、自然に共通の会話で輪ができる。その手伝いをするというのが、私の誇りなんです。言葉だけじゃなく実際に人を動かす。それが役目だ、と自負してますから」
「こちら、先日行われたコンサートの様子なんですが……。ああ、確かにみなさんなんとも言えない表情をされてますね」
「いいでしょう? こういう顔を見るのは」
「ええ。なんとも、晴れやかな気分になりますね」
 モニターに映し出されたのは、私もよく覚えているコンサート風景だった。
 あれは、去年のクリスマス。
 どうしてこんな日に……と駄々をこねた、あのコンサート。
 ……みんな、嬉しそう。
 すごく幸せそうな顔してる。
 いいな。
 でも、私はやっぱり複雑だ。
 だって、そりゃあ確かにみんなにとっては『幸せなひととき』だったかもしれない。
 でも、私はせっかくふたりきりで迎えられると思ってたクリスマスだったから、仕事でふたりきりになれたのは夜遅くだったもん。
 すごく残念でたまらなかった。
 でも、そう思ってたのは私だけだったんだ。
 綜は……何も思ってなかったんだ。
 やっぱり彼は、私なんかよりずっと……自分を見に来てくれているお客さんのほうが大事なんだ。
 ……切ないな。
 私はやっぱり、彼女なんていう立場にはいないんだろう。
「武者震いってあるでしょう? あれと同じですね。あの場に立てた者しか味わえない、高揚感。……あれこそ、真の快楽と言ってもいい」
 瞳を細め、それまでと雰囲気のまるで違う表情を浮かべる。
 ……快楽。
 そして、悦。
 まるでそう表現するに相応しい表情を。
 …………。
 何よ……。
 普段からそういう顔してればいいじゃない。
 そうすれば、こんなふうに……っ……ヘンな嫉妬なんかしなくて済むのに。
 不安でいたたまれなくなるようなことも、今よりずっとずっと少なくなるのに。
「……わからないから、聞いたんじゃないっ……」
 考えたわよ。きっとそうに違いないって思ってるわよ。
 でも、言われたことがないから不安なんじゃない。
 たったひとことでいいから、すがりたいんじゃない。
 いつの間にか涙が溢れ、拭うこともできずにただそのままでしかいられなかった。
 前を向き、ぼやけたテレビを見つめ続ける。
 耳に入るのは、楽しそうな笑い声とトーク。
 ……綜に、間違いないモノ。
 おかしいよ。
 普段はそんな顔しないくせに、なんで私がいないほうがそんなに自然に見えるの?
 楽しそうに見えるの?
 ハツラツと、今を楽しんでいるように見えるの?
「っ……」
 しゃくりが上がり、ぎりっと奥歯が(きし)んだ。
 やっぱり私は、綜と付き合ったりしてなかったんだ。
 綜にとっての彼女でもなければ、大切な人間でもない。
 これまでの時間は、もしかしたら――そう。
 ただの、綜にとっての暇つぶし。
 昔こっぴどく振った相手と久しぶりに再会して、単に『遊んでやろう』なんて気持ちが芽生えただけ。
 ……そうに違いない。
 きっと間違いない。
 ほら、よく言うじゃない?

 男は、気持ちがなくても相手を抱けるって。

 私は、本気だった。
 すごくすごく嬉しかった。
 数年ぶりに再会したあのとき、どんな形であれ私に構ってくれて。
 とんでもない理由だったけれど、それでも嬉しかった。
 ……ずっと好きな人だったから。
 忘れられないほど想い続けていた人だから。
 ……なのに……。
「…………」
 ぎゅっと両手を合わせて握り、瞳を閉じる。

 ああ。もう、おしまいなんだ。

 楽しい時間が終わってほしくなくて、ただ守るためだけに精一杯がんばってた。
 独りでテンション上げて、独りで騒いでたこともわかってる。
 だけど、それでも私は幸せだった。
 好きだった人と一緒にいられて、どうして自分からそれを壊すような真似ができるの?
 ずっと怖かったよ?
 いつか綜が『どうしてお前がここにいるんだ?』って言い出すんじゃないかって。
 『お前なんか好きじゃない』って言うんじゃないかって。

 自分ひとりがそう思ってるんじゃないのか?

 何度も何度も頭に響く言葉。
 ……そうだよ。
 きっと私は、それを認めたくなかっただけなんだ。
 だから何度も、自分を奮い立たせるための証拠が欲しくて、綜の気持ちばかり知りたがったんだと思う。
 ねぇ、神様。
 私はやっぱり、夢を見ていたんでしょうか。
「……はは……」
 涙を流したまま乾いた笑いが漏れ、真夜中の自分の部屋に寂しい音が広がる。
 ……そうだよ。
 そうに違いないじゃない。
 だって、すごくすごく心地よくてありえないことばかりだったんだもん。
 フラれた私は、どれほど時間を遡ることができたとしても、綜に受け入れてもらえるはずは絶対にないんだから。


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