「ずっと……ずっと思ってたの。私、考えてた。宗ちゃんからこのヴァイオリンの名前を聞いたときから、ずっと」
手を握り、目の前で開く。
そこには何も入っていない。
だけど……あたたかかった。
まるで、何か大切なものを手にできたかのように。
――あのとき。
公園で話したとき、宗ちゃんは私に笑って教えてくれた。
綜のヴァイオリンに名前があることを。
そして、その名前が持つ……本当の意味を。
『「いろり」を護る女神。誰からの求婚も受けることなく断り、 永遠に処女を守った』
それこそが、ヘスティアの名を持つ女神なんだ、と。
「ねぇ、どうしてヘスティアにしたの? どうして、わざわざ名前を変えたりしたの?」
「……だから。お前には何も関係が――」
「なくないよね?」
「っ……」
そばに立ったまま、じぃっと彼を見つめると、目を見張ってからふいと視線を逸らした。
それはまるで、困っているかのようで。
いつもと違う彼の姿に、ほんの少しだけ嬉しくなる。
どうして、ここまで頑なに、話してくれようとしないんだろう。
聞いてはいけないことなんだろうか。
それとも――綜が言うように、本当に私にはまったく関係のないことだからなの?
……じゃあ、何?
宗ちゃんが教えてくれたことは、誰か第三者のことだって言うの?
『それがすべてを物語ってるだろ? お前と離れていた9年間の、アイツの願いと想いすべてを』
笑いながら言ってくれた宗ちゃんの言葉がはっきりと頭へ響いて、目の前の綜との温度差が少し悔しかった。
「…………」
最初から、正直に言ってもらえるなんて思ってない。
だけど……どうしたら、本当のことを教えてくれるのかな。
私のためじゃないならば、それでもいい。
でも、だったら彼は言うはずなんだ。
『お前のためじゃない』って。
まったく遠慮なしに、告げるはずなんだ。
……彼はそういう人。
嘘をつかない、正直な人だから。
「宗ちゃんにヴァイオリンのこと聞いたとき、真っ先に『私のことだ』って思ったの。……自意識過剰だってわかってる。自惚れるなって怒られても、怒鳴られても構わないって思ってる」
だけどね――。
そう続けながら、こちらをまったく見ない綜を見たまま頬が緩む。
だって、自分がまずしなきゃいけないって思ったから。
何よりもまず、私の想いを伝えるべきだって……そう教えてもらったから。
「アンコールの曲も、そう」
「………………」
「あの曲も、私のためだって思った」
胸の前で、ぎゅうっと手を握りしめる。
そのとき、右手の薬指にある指輪が、きらりと光を受けた。
……この指輪、綜が選んでくれたんだよ。
ほかの誰でもない、私のために。
いったい、どう思っての行動だったんだろう。
どんな顔をして、買ってくれたんだろう。
ぶっきらぼうな彼が、店員さんにはきっと満面の笑みだったんだろうな。
嘘でもいい。
そのとききっと『彼女へのプレゼントに』って言ってくれたであろうことも、目に浮かぶだけで、幸せなんだから。
「私、知らなかったの。あの曲がなんていうのか。そして――本当は歌い手が必要なんだってことも」
あのとき、ステージで高槻先生は歌詞を口ずさんでいた。
不思議な発音の、初めて聞くような歌を。
……そして、教えてくれたんだ。
本当は、あの曲はある歌い手のために書かれた曲なんだってことを。
確かに今、彼に対して言っていることすべては私の単なる憶測で、どれもこれもちゃんとした裏づけなんかはない。
あくまで、全部私が勝手に想像したこと。
そうなんじゃないか、ああなんじゃないか、っていう想像の域を出ない。
……だけど、それでもすべてが私の気持ち。
本心であることに、変わりはない。
「…………」
だから。
だから、綜に『違う』って言われたら、そこですべてが終わる。
たったひとことですべてを否定されたとき、私は自分から『終わり』にしなきゃいけない。
そういう覚悟めいたものを、しっかりと自覚していた。
「ねぇ、どうしてそんな曲をわざわざ選んで弾いてくれたの?」
「……だから、それは……」
「それは? ねぇ、それは何? 誰のため? なんのためにあんなことしたの? どうしてまた、プログラムを勝手に変えてまで演奏したの?」
「っ……」
眉を寄せたままの綜が口を開いたとき、反射的に言葉を聞かないで済むようにまくしたてた。
怖かった。
すんなりと、あっさりと、『それはお前のためじゃない』って言われるのが。
『違う』とか、『自惚れるな』とか……否定の言葉は幾らでも予測できるのに、どうしてちっとも肯定の言葉が浮かんでこないんだろう。
たったひとこと、『そうだ』って言ってくれる想像ができないんだろう。
……情けない。
私、自分がすごく情けないと思う。
だって、綜が私に笑いかけてくれる姿を、ちゃんと思い浮かべられない。
好きだとか愛してるなんて言葉を言ってくれるところも、同じ。
……そして。
短い言葉ひとつであっても、綜が私を認めてくれて、必要としてくれる答えがまったく浮かんでこない。
綜が私のことを認めてくれたから、これまでずっとそばにいられたんだって思ってたのに。
……そばに置いてくれたんだって思ったのに。
彼女だって思ってたのに。
おかしくて、泣けてくる。
何が彼女?
何が付き人?
綜のこと、まったく知らないクセに。
いつまでも9年前のことを引きずって、いつだって今の綜と昔の綜を無意識の内に比べてたクセに。
ああじゃない、こうじゃない……って。
この9年の間に何も変わらなかったのは、私じゃない。
変わらきゃいけなかったのに。
だってそれが、大人になるってことなんだから。
「……綜がしてくれたことは全部、私のためだって……そう思ったの……!」
「…………」
「だから、言って。違うなら違う、って。私のためじゃないなら……そう言ってくれて構わないから!」
私はいったい、綜の何を見てあげていたんだろう。
駄々をこねる子どもみたいに泣きじゃくって、シャツを掴んで。
彼にしてあげることといえば、いつだって労いなんかじゃなくて自分の不満をぶつけることだけだった。
自分は悪くない。悪いのは、綜。
勝手に決め付けて、ちゃんと話を聞こうともしないで。
そうして、いつだって自分を庇っていい子ぶりっ子してたんだ。
本当は、どこかでわかってたはずなのに。
このままじゃダメだ、って。
『今』の綜とちゃんと向き合わなきゃ、って。
だって綜は、ちゃんと今の私を見てくれてたんだよ?
それなのに、私は……。
「っ……なんとか言ってよ……!」
ぎゅう、と彼のシャツをつかんだまま、少しだけうつむく。
……ねぇ。
これまで、綜に『ごめんなさい』って謝ったことあった?
『ありがとう』って感謝したことあった?
拭う間もなく流れてくる涙をそのままに歯を食いしばると、シャツを掴んでいた私の手の上から、綜の大きな手のひらが触れた。
「……ずっと思ってたの」
「何……?」
「私、馬鹿だからっ……自信、過剰だから……! だから、全部私のためなんだ、って……きっとそうなんだ、って……そう、思ったの!」
ぐしっと涙をぬぐって彼を見上げると、涙がぽろぽろこぼれた。
落ち着くどころか、いつまでも滲んできちんとした輪郭が見えない。
……だけど、ここにいる。
彼は間違いなく、ここにいるんだ。
私の手の届く所に。
9年前と違って、ずっと近い場所に。
「だって……! だって、そうでしょう? あの……っあの、『君を愛す』って曲――!!」
一瞬、よりキツく眉を寄せた綜が、私を掴んだ手と腕に力を込めた。
「ッ……!」
高槻先生が教えてくれたのが、あの曲のタイトルだった。
『君を愛す』
なんてストレートな題名なんだろうって、あのときはびっくりした。
そんな題名をつけるような作曲家がいるなんて、正直思わなかったから。
……だって、これはまるで愛の告白そのものじゃない。
『愛のあいさつ』とか『愛の夢』とか……そんなモノの比じゃない。
……でも、それは当然なんだとも教えてくれた。
なぜなら、作曲したグリーグって人が、歌い手であり自分の愛する婚約者のために書いた曲だから。
「……そ……」
「少し黙れ」
まるで魔法をかけられたようだった。
キィン、と耳に痛いほど静寂を保ったままの部屋に鳴り響く、自分の大きな鼓動。
あまりにも近い場所に綜がいて、それどころかやけに表情がハッキリと見て取れる。
少し掠れた低い声で囁かれた言葉。
……そしてそのときの表情。
それらがやけに印象深く、色濃く鮮やかに瞳へ映った。
「……ん……っ」
2度目。
半ば強引に口づけられたのは、これが2度目だ。
……でも、考えてみると今日この日までにもらった口づけの中にも、こんなふうに荒っぽくされたのは含まれてないはず。
それほどまでに、自分でも戸惑うような綜の反応で、身体には力が入りっぱなしだった。
「え……? 今……なんて……」
「……少しは成長したか」
「…………綜……」
「昔と、少しは変わったな」
目の前の彼が、小さく……ほんの小さく笑った。
これまで見てきたどんな顔とも違う、本当に優しい笑み。
触れたことのなかった優しさに、目を見張る。
口づけをされる瞬間に呟かれた何かを訊ねようとしたら、それよりも先に彼の唇が目の前で動いた。
ぼんやりとした頭で確認できるのは、それを言ったのが確かに綜であるということと――今もまだ、彼の腕の中にいるということだけ。
「……胸に手を当てて、ようやくわかったか?」
「え……?」
「お前が俺にとってどういう存在だ……とか言ったな。確か」
……そう。
彼に想いをぶつけて、返ってきたものが自分の予想とまるで違うものすぎて――拗ねたあのときのことだ。
「……ん」
私のこと、愛してくれてるの?
今思えば、どうしてあんな馬鹿なことを言ったんだろうって思うし、恥ずかしくもなる。
だって、綜はいつだってそうだった。
不言実行で、どんなこともいともたやすくやってきた。
すべては、口ではなく行動で示す。
それが彼という人だったのに……なのに私は、不安だと理由をつけて、彼をなじって、追いやって……ただ自分のわがままに付き合わせようとしていた。
行動がすべての彼のことを、わかっていたのに、わからないフリをして。
自分だけ、被害者ぶって。
「……わかってるよ? もう」
もう、わかったの。
気づいたの。
だから泣かない。
わめいたりしない。
そうやって大声でごまかすようなことは、もうしないって決めた。
私はもう、9年前の私じゃない。
子どもじゃない。
――彼に迎えてもらった、9年後の“私”なんだから。
「愛してる」
彼を見たまま囁くと、自然と笑顔が浮かんだ。
……この言葉、言えるなんて思わなかったの。
もう二度と口にできないままほかの誰かと幸せにもなれず――ひとり寂しく老いていくんだと思ってた。
……でも、違った。
9年後の未来は、今。
腕の中にあって、確かに……目の前にいて。
「綜のこと、世界で一番愛してるからね」
もう一度口にして、笑みが浮かぶ。
だけど、こうしてみてやっと……綜の言っていた意味がわかった。
『俺にそんな安っぽい言葉並べろって言うのか?』
最初は、なんてこと言うんだろうって思ったの。
ひどい、って。冷血漢、って。
……でも、違うんだね。
こうして何度も口にしてみてようやく、『ああ、ホントだ』って思っちゃった。
「っ……」
小さく笑ってから彼の首に腕を絡め、精一杯伸びをして触れるだけのキスをする。
……何度愛してると言うよりも、こうして口づけたほうが、確かなように思えてくるから……たまらない。
さすがだな、って思うよ。
もうね、本当に感服。
さすがは世界一のソリスト様。
私が知らないことを、本当にたくさん知ってるのね。
「……少しは賢くなったか」
「まぁね」
キスをしたとき、一瞬だけ目を丸くしたように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。
だけど、それでもよかった。
だって……こうして、目の前の彼がようやく優しく笑ってくれるようになったんだから。
ほかの誰でもない。
私だけに見せてくれる、極上の笑みで。
瞳を閉じるたびに浮かび上がる、綜の姿。
スポットライトを身体いっぱいに浴びて、きらきらと輝く表情と――ヴァイオリンを構える彼は、いつだって『君を愛す』を弾いてくれる。
本来ならば歌い手が必要なこの歌を、まるで、彼自身があたかも声高に歌うかのように。
想いを込めて、『愛してる』を言ってくれているような音で。
私だけのために……大切な名器、ストラディバリの『Hestia』で。
どっちが正しいとか、こうあってほしいとか……きっとそういうのは尽きないんだと思う。
でも、いい。
私だって、相手に求めるばかりじゃダメなんだって、よくわかったから。
……学んだから。
「優菜」
彼が私を呼んでくれるとき、そこにめいっぱいの感情が込められていることを知った。
でも、それは私も一緒だったんだね。
彼を呼ぶとき、名前と一緒に『愛してる』を込めて呼ぶ。
……まぁたしかに、ケンカしたりしてときどき憎たらしさを込めることもあるかもしれないけれど。
それでも。
それでもいいよね?
だって、綜が選んだくれたのは私なんだから。
求めてくれたのも、許してくれたのも、私だけなんだから。
……だから、どうか。
いつかもう一度、綜が口にしてくれますように。
Jeg elsker dig.
不本意ながらも外国語だけど、とっても甘くて、少しだけ……掠れた声でたった一度だけ直接聞かせてくれた『愛してる』を。
―――To be continued other...
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