「…………」
圧倒、という言葉がある。
それを今、私はまさに身をもって実感していて。
……すごいな。
そんな、ありきたりな言葉しか出てこない。
別に、これまで綜の演奏を見たことがなかったわけじゃない。
当たり前だけど、私は彼と行動をともにしていたんだから。
だけど……なんて言ったらいいのかな。
これまでとは、本当にスケールも雰囲気も何もかもが違う気がする。
ただただ、ひとつひとつがすごくて。
言葉にできない、表現できないって……初めてかもしれない。
「…………」
この前綜が言ってた『音が見える』って言葉が、ちょっとだけわかった気がする。
裾から眺めていると客席にいる人たちの顔がほんの少し見ることができるんだけど、その人たちの表情が曲ごとに全然違うんだもん。
生み出された音を身体全体で受け止めて、まるでそれに反応しているみたいに。
徐々にというよりは、目に見えるほど鮮やかに。
転調するのと同じくらい、はっきりと見て取れた。
今日のコンサートは、チャリティーを兼ねてのもの。
だから、普段とは違って、始まる時間も早ければ値段だってずっと安い。
客層だって、小さい子からお年寄りまで……本当に幅広くて。
でも、ひとつだけ言える確かなことは、誰しもが目をキラキラさせて演奏に聞き惚れているということだ。
よそ見をしている人なんて、ひとりもいない。
音なんだから、耳だけをかたむければ十分だなんて言う人も中にはいるかもしれないけれど、でも、少なくともこの場にはいないみたいだ。
みんなまっすぐ前を向いて、まさに聞き惚れている。
熱い眼差しで、演奏家の人々を見つめている。
その顔を。
その手元を。
そして――紡ぎだされる、目には見えない音を。
「……あ」
先ほど1度降りた重たそうな緞帳が今、ゆっくりと静かに上がっていった。
1度見えなくなった客席が徐々に現れ、たくさんの顔に笑顔が浮かぶ。
まさに、『待ち焦がれていた』とでも言わんばかりに。
会場が割れてしまうんじゃないかと思うほど大きく鳴り止まない拍手が徐々に整い、一定のリズムを持った。
アンコールを。
もう一度、演奏を。
普段の演奏会でもそれはあるけれど、今回はひときわ大きいように聞こえた。
……本当に、望んでる。
彼らの演奏に魅了されたたくさんのお客さんが、もっと欲しいと思ってる。
もっと、もっと。
もっとたくさん。
早く、欲しい。
拍手であるはずの音が、そう聞こえた。
……きっと、それはステージにいる演奏者にも伝わったんだろう。
改めて覗いてみると、眩しいスポットを全身で浴びながら、みんなキラキラとした笑顔を浮かべていた。
「…………」
もちろん、そんな顔をしているのは綜だって同じだ。
さぁ、もう一度。
もう一度、俺の演奏を聞くがいい。
どうしようもなく傲慢で、憎たらしいくらい嫌味な笑顔。
……だけど、今はそんな彼を見てつい笑顔が浮かんだ。
ああ、なんていい顔する人なんだろう。
でも、嬉しいよね。そうだよね。
誰よりも一番、ヴァイオリンを、音楽を愛してる人なんだから。
「…………」
再び大きく鳴った拍手が徐々に静かになり、そして納まったとき。
深くお辞儀をした東堂さんが演奏者側へ身体を向けると、綜が立ち上がってヴァイオリンを構えた。
……え……ソロ?
アンコールで綜が立つ光景を見るのは、いつ振りだろうか。
いつだって、自分が目立つ席はもっと早いタイミングで、アンコールは大人しくしていたのに。
……なんか、ヘンなの。
真面目な顔をして東堂さんを見ている綜と、同じく真面目な顔をして綜を見ている東堂さん。
このふたりがこんなふうにまた並んで仕事をするなんて、絶対にないと思ってたんだけどな。
つい先日のやり取りが浮かんで、苦笑が浮かぶ。
犬猿の仲っていうのは、多分あのふたりを言うんだろう。
「…………」
ふわり、とタクトが上がってからすぐに、音が響いた。
ピアノと、ヴァイオリン。
ミハエルさんと綜と……指揮者である東堂さん、3人だけの時間だ。
大人しい、静かな始まり。
だけど……なんて言ったらしっくりくるだろう。
すごく気持ちよさそうに弾いている綜の顔を見ていると、それだけで鼓動が早まった。
どきどきする。
すごく……どうしよう。
なんだか、落ち着かない。
この感じは――そう。
言うなればあの、9年ぶりに綜と再会したときに聞かされた、『愛のあいさつ』のような。
「……きれい」
曲が、じゃない。
スポットをひとつ多く浴びて立っている、綜のこと。
誰よりも目立っていて、誰よりもきれいに輝いている。
きっと、暗い客席から見ていたら、もっともっときれいなんだろうな……。
吸い込まれるかのように口を薄く開いて食い入っている観客の姿が何人か見えて、ちょっとだけ羨ましくなる。
……ああ。
でもなんか、すごく嬉しい。
たくさんの人に綜が認められてる。
それも、日本だけじゃない。
世界中の、音楽を愛する人たちに。
……彼の、だ。
ただの音楽じゃなくて、綜の、音。
それを好きな人が、世界には本当にたくさんいるだろう。
そして――ここにもひとり。
誰よりも最初に綜のヴァイオリンを聴きながら育つという、希少な経験をしてこれた人間が、ここにいる。
好き。
何を言われても、どれだけ虐げられても、蔑まれても、拒絶……されても。
それでもやっぱり、私は綜が好きなんだ。
どんなことをされても、綜のそばにいたいんだ。
……だって、現にそう願い続けていたから。
確かに、嫌になることだってあった。
もう嫌だって……二度と戻るもんかって思ったことも、何度もあった。
……だけどそれでも、できなくて。
ほかの誰かにすがりつくことなんてできずに、やっぱり綜を追い求めた。
自分から離れられなくて、いつだって綜に遠ざかってもらうように仕向けて。
だけど、それでもうまく行かなくて。
思い通りにならなくて。
それがつらくて、悔しくて、最後にはすべてを彼のせいにして、自分は逃げ出すしかできなかった。
罵り、批難し、傷つけることしかせずに。
「…………」
きらきらと輝き続ける姿と、止まることなく続くヴァイオリンの音。
ひときわ大きく、ひときわ目立つ、『綜』という存在を示すすべてのモノ。
それを身体一杯に感じていたら、どうやら琴線に触れたらしい。
……いろいろ、普段考えないようなことを考えていたからかな。
口元には微笑があるのに、瞳からは堪えきれないほどたくさんの涙が零れ落ち続けた。
「…………?」
少し俯きながら、涙を拭おうと頬に触れたとき。
すぐそばに、ひとりの男性がいたことに気付いた。
……あれ?
この人どこかで見たことがある。
それに……今さらだけど、何かを口ずさんで……るような?
「ん?」
「あ」
まじまじとそちらを見つめてしまっていたらしく、ふっと視線がばっちり合ってしまった。
「あ……っ……ご、ごめんなさい、その……っ……あの」
慌てて涙を拭って照れ隠しのように笑い、ぺこぺこと何度も頭を下げる。
すると、さっきまでは一向に止まってくれる様子のなかった涙も、すっかり乾いてしまった。
「…………」
「…………」
「……あっ」
じぃっと見つめ合うこと数十秒にも満たなかっただろうか。
整った顔を見ていたら、ふと頭にひとりの姿が浮かんだ。
「真琴ちゃん」
「……は?」
「いやあのっ……もしかして、真琴ちゃんの知り合い……っていうか……彼氏さん、じゃ?」
ぽろっと出た名前は、この年になって初めてできた『じょしこぉせえ』という職業の友達。
かわいい顔と、きれいな声。
そんでもって、人懐っこくって……まるで子犬ちゃんみたいな。
そんな愛らしい健気な子だ。
「…………」
「え……えっと……」
「……ああ。もしかして……芹沢君の?」
「あ! はいっ! そうです!!」
ばしんっと両手を叩いて大きくうなずくと同時に、思わず『ぴんぽん大正解!』なんて言いそうになった。
だって、ものすごく嬉しかったんだもん。
ほっとしたんだもん。
私を見て想像つく人物として、綜の名前が出たことが。
「えっと……確か、高槻先生……でしたよね?」
「ああ。なんだ。よく覚えてるじゃないか」
「あ……あはは。ええまぁ、その……ええ」
……あれ?
乾いた笑いを返しながらも、なぜだか腑に落ちないことがふたつみっつ。
……えっと。
この人は、あくまでも『真琴ちゃんの彼氏』であって、『綜』とはまったく別の人だよね?
うん。
なんだけど……なんか……なんでか知らないけど……雰囲気がちょっと、似てない?
あ、ほら。
にこやかに『こんにちは』って言われてないっていうのもあるんだろうけれど、なんか……。
なんか、ね。
ピンと女の直感とはちょっと違うかもしれないけれど、でも、そんな気がした。
「えっと……失礼ですけれど、それで……高槻先生はこんなところで何をされてるんですか?」
「ん? ああ、何。芹沢君にチケットをもらってね。それで、見に来たんだよ」
「綜に!?」
「ああ」
彼の口から『綜』の名前が出たことにびっくりしたんじゃない。
そうじゃなくて、『綜からもらった』というところにものすごくびっくりしたのだ。
だって、綜は元々……まあ別にケチってワケじゃないけど、でも、そんなに人に対してサービス精神が旺盛なわけでもなかった。
だからこれまで、いくら彩ちゃんが綜にチケットを譲ってほしいって言っても、一度だってあげたことないんだよ?
……なのに。
なのに、綜はあげた。
彩ちゃんよりも過ごした時間が短いであろうはずなのに、彼にだけは。
「…………」
「……? 何か?」
「え……っと……」
不思議そうな顔をした彼を見たままで、だけど首を振ることすらできなくなる。
……え?
何? もしかして……特別……なんだろうか。綜にとっての。
「……え?」
「彼がこのチケットをくれたのは、俺を馬鹿にするためだったのかもしれないな」
「馬鹿に……?」
くっと笑ったような気がして彼を見上げると、まっすぐな眼差しでステージにいる綜を見つめていた。
「……ここまできれいに歌い上げられてしまうと、何も言えなくなる」
「え……?」
「嫌味だな、彼は」
顎元に手をやってから腕を組んだ彼を見ながらも、頭の中では今の言葉がくらくらと巡っていた。
……え?
ちょっと……いや、大分、なんか……意味がわからないんだけれど。
だって、歌うって……。
……?
まぁ確かに綜は性格悪いとは思うよ?
でも、だからって何もわざわざチケットを譲ってまで人を馬鹿にするようなことはしないはず。
『そんな低俗なこと誰がするか』とか言いそうだし。
それに――。
「っ……」
「いや、ホント。いい身分だな彼は」
「え?」
「この曲は元々、歌い手が必要不可欠なモノなんだって知ってた?」
ほんの少しだけ目の前で口元を緩めた彼は、ゆっくりと綜を見つめてから、改めてこちらを向いた。
「自分の都合でプログラムを創り変えるなんて……よっぽどの傲慢か、あと先考えない馬鹿か。……そのどちらかだ」
その直後、私は瞳を閉じたまま演奏を続ける綜に視線を奪われて、離れられなくなった。
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