鳴り止まないんじゃないかって錯覚するような時間だけが、ゆっくりと流れていく。
……もしかしたら、またアンコールを促す拍手に変わるんじゃないか。
そんな気すらして、ただただ傍観者にしかなれない。
小さい子も、白髪の老紳士も。
誰も彼もが、にこやかな笑みを浮かべて立ち上がり、惜しみない拍手喝采を送り続けている。
これほど圧倒的なスタンディングオベーションを見たのは、初めて。
映画でも見たことはなかったと断言できる。
声が飛び交い、拍手は続き、そして――誰もその場から離れようとしない。
まだ見たい。
まだ続きを。
誰も彼もがその場に縫いとめられてしまったかのように動かず、舞台で深いお辞儀と感謝の手振りを続ける演奏者を見つめていた。
「っ……ひ……く」
鳥肌が立つのは、もちろん。
だけどそれ以上に、嬉しさと驚きと……そして感激で、涙が溢れた。
……きっとまたこんな姿を見られたら、綜は馬鹿にするんだろうな。
『また泣いてるのか』なんて眉を寄せて、嫌そうな顔をするに違いない。
景色が滲んで、ぽろぽろと頬を熱いモノが流れる。
徐々に仕事を終えた満足げな顔をしている演奏家の人たちが、こちらへと下がってきた。
周りはもちろん拍手で彼らを讃え、労い、そして道を開ける。
なんと言っても、今の主役は彼ら。
だからこそ、私もこの場所を開けなければ……本当はいけなかった。
「……っえ……?」
「…………」
前が見えない状況で、真ん中から少しだけ端に避けたとき。
俯いていたら、頭に何かがかけられた。
「……東堂さん……」
それに手を当ててから顔を上げ、するりと引っ張ってみる。
ハンカチ。
真っ白なおろしたての新品みたいな、これ。
ぱきっとアイロンが当てられているのか、皺ひとつない。
「お前は……」
「え……?」
「おっ……お前には、ひまわりのような笑顔が1番似合うぞ!」
パキーン。
一瞬の内に、周りの動きや音が凍りついた。
照れているのか赤い頬をしたままの彼がそっぽを向いて呟いた言葉は、予想以上にあたり一面へ被害を及ぼしたらしい。
「…………」
「…………」
「っぷ……くくくく……!!」
「っ! こっ……こら! 何も笑うことは――」
「あはは! やだっ……やだー! 苦しいー!!」
涙もちょちょ切れるほどの威力を持つ言葉があるなんて、正直思わなかった。
てっきり『泣くんじゃない』とかその程度かと思ったのに。
「すっご……! 東堂さん、すご! っていうか、どうしよっ……すんごい苦しい……っ……くく……くくくあは! あはは!!」
ばしばしと両手を叩いてから彼を叩き、苦しさでよじれるお腹をぎゅうっと抱きしめる。
おかしー!!
おかしすぎるよ、この人!
っていうか、この前の『強制デート』のときも思ったけど、やっぱりいろんな意味で人と違うよね。
服装だけが時代錯誤なのかと思いきや、どうやら発言どころか思想までもがそうらしい。
「…………」
「あはは! あはっ、く、くるしっ……! あはははは! やだもー!」
むっつりとした顔で口を結んでしまった彼を前にしながらも、まだまだ笑いが止まることはなさそうだった。
だって! 今どき『ひまわりみたいな』だよ? ひまわり!
っていうか、ドラマとかではまぁ、あってもイイとしたって、こう、実際に面と向かって言われるなんて想像すらしないじゃない?
だからこそ、威力が強すぎたんだと思う。
ヤバい。
ホントに苦しい……!!
「あはははは! あはっ……、……あ」
「…………」
ヤバい。
どうやら目の前で笑いすぎたらしく、東堂さんの目に『本気モード』の炎がともっていた。
お……怒らせちゃった……かな……ぁ?
慌ててひくつく頬を両手で押さえてから咳払いをし、姿勢を整えて彼に向き直る。
――と。
「……はぁ」
「へ……?」
てっきり『怒りの鉄槌』とか『泣いて怒った子ども』みたいな行動に出るかと思ったのに、彼はがっくりとうなだれてからため息をついただけだった。
「えっと……あの。……と、東堂さん……?」
「……まぁ、なんだ」
「うん……?」
「どういう理由であれ、お前が泣き止んだならそれでいい」
「っ……」
ぽりぽりと頭をかいてからこちらを見た彼は、本当に本当に優しい顔をしていた。
「それじゃあな、佐伯優菜。また会おうぞ」
「え……? あ、ちょっ……! 東堂さん!!」
思わずまばたきを繰り返して突っ立っていたら、するりと横を抜けた彼が遠くで後ろ手に手を振っているのが見えた。
……え……。
もしかして、それじゃあ……あれは本気で心配してくれてたのかな。
…………。
うーん……ちょっとだけ、悪いことしたかな……?
ぎゅっと握り締めたままのハンカチを改めてみると、ほんのり東堂さんの優しさが伝わってきた気がした。
「優菜」
「っ……あ」
まっすぐというか、実直というか。
それこそストレートな表現で私に対してくれる東堂さんと代わって、今度はスマートに物事を決めてくれるミハエルさんがすぐ後ろにいた。
「時として、我侭というか強情というか。……本当に、横暴なソリスト様になるね」
「え?」
「まぁ……それは誰よりも君がよく知ってるだろうけど」
にっこりと笑って軽くうなずいた彼が、そっと髪を撫でた。
ふんわりと漂う、柔らかい甘い香り。
それでついつい、ふんにゃりと身体から力が抜ける。
「彼を飼い慣らすのは大変だろうけど……」
「あはは」
「でも、彼を手懐けることで得られることもあるよね?」
「得られる、こと……ですか?」
「そう」
にっこり笑ったミハエルさんは、首をかしげてから『君がわからないはずはないよね』と小さく囁いた。
「さっき言った、『君のための演奏』だというのは覚えてる?」
「……あ、それは――……っ……ミハエルさん?」
さらりと髪をすくった彼が、ふっと笑って急にその手を離した。
……ううん。そうじゃない。
まるで何かを察知して飛びのくかのように、さっと身体ごと離れた。
「あの、ミハエルさっ……」
「大丈夫」
「……え?」
「天罰を食らう前に、退散しよう」
「ミハエルさ……ん?」
くすくす笑って、顎で指した方向。
そちらを振り返ることができたのは、彼が私に背を向けて軽く手を振ってからだった。
「っ……」
大きな手でヴァイオリンと弓を持ち、そのままタキシードの上着を脱ぐ。
そんな彼は、舞台と違って若干薄暗いここに入って来たからか、わずかに瞳を細めた。
後ろからは、まだパラパラという名残を惜しむ拍手と、声。
そして、煌き続けている明るい光が彼の輪郭を際立たせている。
「……っあ……」
額から頬にかけて流れた汗を手の甲で拭ったのを見て、ようやく我に返った。
魅了、という言葉がある。
まさにアレの如く、一瞬とはいえ私だけでなくこの場にいた人間すべてが彼に視線を奪われた。
この場にいる、とても『少ない』などとは言えない人数。
しかも、これまで各々の仕事をまっとうしていた人々。
にも関わらず、彼という人は一瞬ですべての人々から様々な物を薙ぎ払う。
ヴァイオリニスト・芹沢綜――その人は。
「ご、ごめっ……あの、これ。タオル……」
「…………」
慌てて綜の前に進み出てから、手にしていたハンドタオルを両手で差し出す。
なぜだかわからないけれど、このときの私は綜をまっすぐに見ることができなかった。
視線が上がらず、綜のシャツのボタンを見るだけ。
……なんとなく、顔を見たらいけないような気がしたんだと思う。
それこそ、あの瞳に捕まったら動けなるってことを、きっとどこかで予感していたんだろう。
「……何をしてるんだお前は」
「え……?」
「どうせならもう少し端に寄れ。付き人なら、わきまえろ」
「っ……あ!」
小さなため息のあと、少し上から降り注いできた言葉は、いかにも綜らしい冷たさと厳しさを兼ね備えたもので。
挙句の果てにタオルをもぎ取るように奪われてしまい、ただただ呆然とその場に立ち尽く――。
「じゃなくて!」
とっとと私を置いて楽屋方面へと歩き出した綜を振り返り、ダッシュで追いつく。
だけど、私とは180度違う態度でほかのスタッフに笑顔を向けている綜は、まったく私を振り返ってくれようともしなかった。
……いや、もしかしたらそれどころか、私の存在にすら気付いてないのかもしれない。
ひょっとしたら。
うん、多分そうだ。
彼ならば、自分の周りから私の気配を勝手に消してしまうことくらい、朝飯前のはず。
だから。
綜が私の存在に目を向けたのは、でかでかと『芹沢綜様』なんてプレートが掲げられた楽屋のドアを開いたときだった。
「…………」
っていうかね。
このときですら、綜は私を『見た』っていうよりも、どっちかっていうと『視界に入った』って感じだったのよ。
だからもちろん私のためにドアを開けておいてくれるとか、『入れ』なんて言葉をくれるわけでも、もちろんなし。
皆無よ、皆無。
所詮綜にとっての私は、きっとその程度なんだろう。
…………。
ってことは、もしかしたらやっぱり、もしかして……あの曲を演奏したのは、ミハエルさんがいうようなことが理由なんかじゃないのかもしれない。
「…………」
……だけど。
でも。
私はあのとき、そう思ったの。
そうなんじゃないかって、確信が生まれたの。
「ねぇ、綜」
こちらを振り返らないままジャケットをテーブルに置いた綜は、そのままヴァイオリンの手入れに取りかかった。
弓を丁寧に布で拭い、慣れた手つきで毛を緩めてからケースへ戻す。
……もちろん、私の言葉に反応なんてない。
でも、それでもよかった。
今ならば、そんな綜の姿にも笑みが浮かぶ。
「…………」
確かに、間違いかもしれない。
私が勝手に想像して、勝手に作り上げて、勝手に纏めて。
そんな、あくまでも『そうなんじゃないか』という、推測の域を出てはいない。
でも。だけど。
あのとき宗ちゃんが教えてくれたことと、そして今日のミハエルさんのこと。
そして――今、目の前でヴァイオリンを大切に扱っている綜の姿。
それから推測したら、きっと私以外の人だってそう考えるに違いないはず。
『なぁ優菜。アイツのヴァイオリンの名前、なんて言うか知ってるか?』
ヴァイオリンに名前を付けられるなんて、宗ちゃんに教えてもらうまで知らなかった。
綜にだって聞かなかったし、もちろん彼がヴァイオリンを名前で呼んだりしたこともなかったから。
……でもきっと、これまでずっと綜と一緒にいた人間としては、失格の烙印を押されても仕方ないんじゃないだろうか。
そんなことすら知らないのに、綜の付き人を名乗る資格があるんだろうか。
綜自身に教えてもらったことだけど、彼の持っているヴァイオリンは、綜が師と仰いだ人から受け継いだかなり価値のあるモノらしい。
お値段だってものすごく高くて、私じゃ弁償すらできないようなもの。
でも、だからこそ深くて温かくて厚みのある独特な音が出るんだとも言ってたっけ。
「ヘスティア」
「ッ……」
まるで、魔法の言葉みたいな単語。
何かを解き放つための、代々受け継がれてきた大切な言葉のような。
でもそれは、やっぱり気のせいなんかじゃなかった。
口にした途端、綜が私を少し驚いた顔して私を見た。
「これの名前、でしょ?」
まっすぐに綜を見つめたまま近づき、そっと……指先で触れてみる。
普段は、もちろん自分から触ることなんてしない。
だってこれは綜にとって思い出深くてとっても大切な商売道具であり、相棒だと思ってるから。
「誰に聞いた」
「……宗ちゃん」
深い、温かみのあるような色合い。
それを見つめていたら、ほんのりと指先から温もりが伝わってきたような気がした。
……生きてるみたい。
何十年どころか、何百年もたくさんの人に継がれてきたからこそ、魂が宿っていたとしてもおかしくはない。
「…………」
一度だけ、綜は手を止めた。
だけど、すぐにまたヴァイオリンの手入れを始めてしまった。
……まるで、私の言葉なんて何も聞かなかったように。
何事もなかったかのように、彼はまた、先ほどと同じ時間を作り出した。
「ねぇ、綜。私ね……ずっと考えてたの」
彼から返事があるなんて、最初から思ってない。
でも、それでよかった。
綜の耳には絶対に入っているだろうから、それだけでイイって思えた。
「どうして、ヘスティアって付けたんだろう……って」
「…………」
「だって、それまでは全然違う名前だったんでしょ?」
「別に。お前には関係ないだろう」
「…………そんなことない」
「……何?」
「そんなことないもん。関係なくないでしょ?」
パタン、とケースを閉じてさらりと答えた綜に、いつもとは違って静かに彼を見返す。
もう、怒ったりしない。怒鳴ったりしない。
……だって、ただわめくだけじゃ子どもと一緒。
9年前、彼に突き放されたときと、何も変わっていないことを証明してしまうのだけは、どうしてもしたくなかった。
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