外とは比べ物にならないほど、あたたかな空間だった。
穏やかな暖色の光が溢れる、ほかとはまさに隔離された場所。
外と内とを遮っているワインレッドの緞帳は分厚く、中にいると外のざわめきがほとんど聞こえなかった。
……向こうは今ごろ、音で満ち溢れてるはずなのに。
だけど今は、かえって正反対。
内と外とが、逆転してしまったみたいだ。
「…………」
首から下げたスタッフ証に1度触れてから、ゆっくりと光ある場所へ向かう。
すると、ステージの袖から見ているときとはまったく違って、そこは少し熱いくらいに感じられた。
たくさんのスタッフが忙しなく動き回り、決して手を止めない。
……それはもちろんのはず。
だって、今はもう開演まで10分を切っているのだから。
ミスは決して許されない。
すべての演者によって作り上げられる最高の舞台のために、責任を負っているスタッフたちは、持てる力すべてで最大のサポートを施す。
お互いが自分の為すことをまっとうして初めて、この舞台は最高のモノになる。
だから、最後まで点検を繰り返す。
間違いがないように。
人為的ミスが起きないように。
最後の最後まで、彼らはそう動く。
――だけど。
「…………」
そんな慌しい舞台上でひとり、唯一『静』を保ったままの人がいた。
指揮者台を中心に、ぐるりと半円を描くように作られた演奏者のための席。
その、まさに中心部。
指揮者台のすぐ隣にある椅子へ腰かけたまま、瞳を閉じている芹沢綜その人が。
「…………」
ごくっと喉を鳴らせてから、ぎゅっと手を握りしめる。
まだ半年も経っていないあの日。
突然、9年ぶりに再会を果たしたとき、全身が震えた。
嬉しくてじゃない。
驚いてじゃない。
あれはきっと……怖かったから。
1度フラれた相手に会うことが、どれだけの精神力を必要とするか。
あのときまで私は、そんなこと考えてさえいなかった。
世界的ヴァイオリニストという地位を自らの手で確立し、頂点へ上り詰めた人。
ウィーン・フィルの、最年少第一ヴァイオリン首席奏者に抜擢されたことで、一躍その名前が知れ渡ったこともあった。
……あのときのことは、私だって知ってる。
だって、ニュースでも取り上げられてたもん。
それに――宗ちゃんも、新聞とか雑誌とか、いっぱい買って見せてくれたっけ。
本当に、心底から嬉しそうな満面の笑顔で。
それ以来、何かと綜の名前を聞くことも増えた。
幼馴染って知ってる子にはむやみに羨ましがられたし、その話を聞いたまったく知らない子からも『いいなぁ』と言われた。
……でも、私はずっと悩んでた。
正直言って、嫌だった。
綜が活躍していくのは嬉しい。
綜のヴァイオリンを世界が認めたっていうのは、本当に誇りだと思う。
だけど――。
『俺が好きなのはお前じゃない』
まるで吐き捨てるかのように言われたあの日の言葉が、どうしたって頭にこびりついて離れようとしない。
もし、会うことがあったら、いったいどんな顔をすればいいんだろう。
馬鹿にされるんじゃないだろうか。
それとも、蔑まれるんじゃないだろうか。
同情される?
偽善的な言葉をくれる?
……そんなことされるなら、いっそ罵られたほうがよっぽどいい。
毎日毎日、『綜が帰ってくるんじゃないか』という気持ちで、どこかにいつも不安を抱いていたのは確かだった。
――でも、あの日。
9年ぶりに会った綜は、私を見て笑った。
蔑むようなモノでもない。
嘲るようなモノでもない。
本当に……優しかった。
だから、嬉しかった。
好きな人だから。
……ずっとずっと好きな気持ちが消えなくて、むしろ募る一方だった人が微笑んでくれたんだから。
あの笑顔を見れたことで、この9年間の思いがすべて報われたような気がした。
ああ、私は間違ってなかったんだって……そう思えるような安堵で満たされた。
「…………」
いったい、いつぶりだろうか。
そんなことを考えて思い出さなきゃいけないくらい、綜と離れていたこれまでの日々。
……だけど、今は違う。
電話越しでもなければ、一方的に見つめるだけだったテレビの画面越しでもない。
すぐ、ここにいる。
手を伸ばせば、触れられる人が。
本物の、芹沢綜が。
「……っ……」
開演まで、きっとあと数分も残ってないはず。
だけど、足がすくんで動かなくなった。
目の前が霞んで、歩けなかった。
……綜が、ここにいる。
このときを、いったいどれほど待ち侘びただろう。
何度、夢にまで見ただろう。
その『幻』が、今『現実』になっている。
ただそれだけで、胸がいっぱいになった。
「……綜」
ぽろ、と零れた涙を慌てて拭ってから、一歩踏み出す。
近づくにつれて徐々にはっきりしてきたその姿は、やっぱり少し前までと何も変わっていなかった。
私自身がよく知ってる、綜の姿。
瞳を閉じ、腕をくんだままで偉そうに椅子へ腰かけている。
その隣には、まるで――大切な人でも扱うかのように、光沢のある色を放つヴァイオリンが座っていた。
瞳を閉じているのは、イヤホンで何かを聞いているからだろう。
さすがに音までは漏れてこないけれど、長くてきれいな指先が、細かくリズムを刻んでいた。
……イメージトレーニング、なのかな。
目の前に立った私の存在すら気付かない綜を見つめたままで、そんなことが頭に浮かんだ。
『才人』だとか『鬼才』だとか……ああ、『奇才』なんてモノもあったっけ。
綜の冠が幾つあるかなんてわからないけれど、大抵雑誌のインタビューとかでは、そんなお決まりの言葉が必ず名前にくっ付いていた。
でも、この前綜自身が言っていたように、どんな言葉も陳腐で安っぽくしか聞こえない。
それも当然。
だって綜は、人の何十倍もの努力を惜しまなかったから。
家にいたって、のんびりテレビを見ている姿なんて見たことないもん。
出かけるのはもちろん仕事先の打ち合わせやリハーサルだったし、考えてみればデートらしいモノなんてしたこともない。
買物に行くとか、映画を見るとか……そういうのだって、これまで1,2回あったかないかという程度。
本当は、それで満足しなきゃいけなかったのに。
だって綜は、小さいモノから大きなモノまで、どんな種類の仕事だろうと決して手を抜くようなことがなかったから。
休むこともなく、いつだって自分を最大限披露していた。
それが、仕事だから。
自分が好きなことを仕事にした以上は、手を抜くことも妥協することも許されない。
それが、『夢』として抱き続けたモノが叶ったことに対する礼儀であり誇りだ、って。
いつだったかそんなことを、お父さんに言われた気がする。
……綜は、まさにそんな人。
どんな小さなことでも決して妥協せずに、自分を甘やかすこともなかった。
でも――それじゃあ私は、どうだっただろう。
自分の勝手な感情で逃げ出して、仕事であるはずの『綜の付き人』という位置を勝手に離れた。
これまでずっと、会いたくて会いたくてたまらなかった人なのに。
綜と一緒にいることを許されて、本当にどうしようもなく嬉しかったのに。
……それなのに……。
「…………」
ああ。
なんて半端なことばかりして来たんだろう。
なんで、逃げてばかりだったんだろう。
……綜と、直接向き合うことができたのに。
どんなことよりも怖いって思ってたことからは、決して逃げ出したりしなかったのに。
なのにどうして……ようやく手に入った境遇から、逃げ出そうと思ったんだろう。
我侭だ、私。
……どうしようもなく。
「…………」
口を開こうとしたとき、手にしていたペットボトルが軋んだ。
もちろん、芹沢先生御用達のアレ。
高濃度酸素たっぷりの、高級外国水だ。
付き人としては失格だろうけれど、でも、綜が好きなものの銘柄はもちろん覚えてる。
きっと、日本に帰って来てからの時間の中では、私が1番長く一緒にいるっていう自負があるから。
「っ……え……」
ごくっと喉を鳴らして、一歩踏み出したとき。
なんの前触れもなしに、それまでしっかりと閉じていた瞳を綜が開けた。
「……何してるんだ」
「あ……えっと……」
いったい、いつ振りだろう。
こんなふうに、真正面から綜の鋭い視線を受けることになったのは。
いつもと同じ顔。
何も変わっていない、仕草。
そんなひとつひとつがやけに目に付いて離れなくて、思わず渡そうと思っていたペットボトルを両手で弄んでいた。
渡そうとは思った。
でも、邪魔しちゃいけないとも思った。
だから、どうすればいいかわからなくて、このまま戻ったほうがいいのかなとか……いろいろ考えたの。
なのに、なんでわかったんだろう。
綜のことだから、周りの音なんて聞えないくらいの大音量で聞いていたはずなのに。
事実、外した片耳のイヤホンからは、ここまで聞える位にヴァイオリンの音が漏れていた。
別に大げさなことをやったわけじゃないし、気付かれるなんて思ってもなかったのに。
だから、驚かす側の私が、ものすごくびっくりした。
まさかあのタイミングで目を開けられるなんて、思ってもなかったんだもん。
「あ……」
「ようやく、付き人の仕事を覚えたか」
フン、とまるで嘲るかのように笑われ、手にしていたペットボトルをもぎ取られた。
なんか……なんかなぁ。
もっと何か違う雰囲気でもいいと思うんだけど、綜はまったくそんなモノを感じさせずに、相変わらずぶっきらぼうというか……遠慮なしにというか…………ものすごくぞんざいに扱われた気分。
偉そうでたまらない。
でも、彼だからそうするよねとも思った。
「……あの、さ。……綜……」
「芹沢さーん、そろそろ時間になりますー」
「えぇえ!?」
何を話そうか両手を弄って悩んでいたら、あっけらかんとした声が舞台上に響き渡った。
「わかりました、下がります」
「えぇ!? あ、ちょっ……ちょっと! 綜!?」
「なんだ」
「何、じゃないわよ! ちょっと待って! 今、せっかく私がいいこと言いかけ――」
「いいから下がれ」
「あ、ちょっ……!?」
先ほどまでふんぞり返るような勢いで腰かけていたくせに、声がかかった途端にこやかな笑みを浮かべていとも容易くその場から退いた綜は、ほかのスタッフから見えない角度に身体をずらすと、途端に腕を力強く掴んできた。
別に痛いとかそういうんじゃないけど、でも、心が痛い!
だって、せっかく『今しかない』って思って気合入れたのに!!
なのに、こんな変な形で話の腰をぼっきり折られたら、精神的に苦痛が……っ……!
「とっとと袖に戻れ」
「えぇ!? いや、だからあのね!? 私は綜に言うことが――」
「さ、袖は向こうだよ」
「っ……ミハエルさ……ん……?」
ずるずると肩を押されてその場から強制退去されつつもしっかりと後ろに文句を続けていたら、そんな綜とはまったくの正反対に、優しく恭しく手のひらを取られた。
まるで、ほら。
外国の映画なんかでよく見る、『お嬢さん、お手をどうぞ』のシーンと一緒。
……ふわ。
こんなふうにされると、なんだかイガイガしてた気持ちもすっかり丸くなっちゃいそう。
事実、綜を睨んでいたとんでもない顔とは違って、まるで花畑に憧れる女の子みたいな顔になった。
「……はい……」
「そんな顔しないんだよ」
「え?」
しゅん、と勢いを削がれてうなだれると、ミハエルさんがくすくすと笑った。
「袖にいるよう言われたんだろう? ならばそれは、『誰よりも近くで見ていろ』という意味だよね?」
「……ミハエル」
「いいじゃないか、別に。綜だって、そういう意味で言ったんだろう?」
にっこりと笑った彼へ、綜は怖い顔をして舌打ちした。
それは、いかにも機嫌が悪そうであるものの、バツが悪いようにも見える。
なんだか不思議。
ああ、そう。そうだよ。
綜って、ミハエルさんがいるときは私といるときとまた違う雰囲気になるよね。
「ね?」
「……あ……。はい!」
綜をたしなめるように見ていたミハエルさんに再び笑顔を向けられ、笑みが浮かんだ。
袖にいること。
それは、確かにどんなアリーナの席にも勝る、1番の特等席だ。
誰よりも近くで、どんな人よりも身近に、綜を感じることができる。
実際に、見ていることができる。
……嬉しい。
そんな気持ちでいっぱいになると同時に、笑顔が溢れるばかりだった。
にやけてしまいそうになる。
でもこれは、ミハエルさんがいてくれたから感じられることで。
綜の言葉を丁寧に翻訳してくれる彼がいなければ、今ごろはそんなふうになんて取れなかったはず。
謝りに来た気持ちもどこかへ吹き飛んで、もしかしたら一生このまま綜につっけんどんとした態度しか見せれなかったかもしれない。
「優菜。君は、スタッフであり綜の大切な人だろう?」
「……はい」
「ならば、ここにいることに何も問題はないはずだ。しっかりと、誰よりも近くで見守っていてあげるんだよ?」
「っ……はい……!」
どうしてミハエルさんは、こうも柔らかい気持ちにさせてくれるんだろう。
まるで、聖母マリアみたいな……。
そんな、神々しさと慈愛がたっぷりと満ち溢れているように思える。
そういえば、ミハエルさんは綜と違って『癒し』を看板にいつも背負っていたっけ。
確かに、癒されるよね。
ヘタしたら、成仏させられそうなくらいに。
「ち。世話焼きが」
「はは。お褒めの言葉ありがとう」
心底機嫌悪そうに毒づいた綜を、ミハエルさんは笑顔でさらりとかわした。
……うん。
なんか、ミハエルさんが段々『猛獣使い』に見えてきた。
だって、あの綜をまるで子猫みたいに操ってるんだもん。
やっぱりこの人は、ものすごい人なんだ。
とんでもなく、計り知れないほどの力を秘めた。
「それじゃ優菜、ここで僕たちを見ていてね」
「はいっ!」
にわかに慌しくなった周囲を一瞥したミハエルさんが、ぽんと私の肩に手を置いてにっこり笑った。
……ああ。
その笑顔だけで、ものすごく癒されるんですけれど。
どこかの誰かさんとはまるで違う『ホンモノ』の威力に、一瞬くらりと眩暈がした。
「これから始まるのは、君のためのステージなんだから」
「え……」
「それじゃ、また」
「あ! ミハエルさん!?」
ぼそりと耳元で聞えた意味ありげな言葉に、一瞬身体が動かなかった。
その隙に、彼は綜を連れ立って多くのスタッフの間を縫うように行ってしまい、今ここにはもう私の知り合いはいない。
敢えて言うならば、何やら手のひらに散々何かを書いては飲み込むような仕草をしている東堂さんが遠目に見えるけど。
「…………」
さっきの、ミハエルさんの言葉も気になる。
だけど、今はそれよりもずっと自分自身がどきどきしてるのに気付いた。
……これから、始まる。
これまで、こんな一等席で見ることのなかった、綜の舞台が。
慌しくスタッフが走り回り、口々に成すべきことを呪文みたいに唱えている。
みんなで作り上げてきたモノを、集成するために。
……始まる。
観衆が待ち侘びている、二度と同じモノのない唯一の舞台が。
そう。私だって間違いなく、この場にいて『創る』側の人間なんだ。
……ちゃんとここで見届けることが、今の私にできること。
最初から最後まで、見逃せる部分なんてないんだからね。
「……っ……」
そのとき、無性に手元にカメラがないことを悔いた。
私がカメラで世界を撮りたいと思ったのは、どうしてだっただろう。
もちろん、お父さんが写真家だったということは大きい。
でもーー違うの。そう、思い出したの。
私がどうしてもカメラマンになりたかった理由を。
手の届かない存在になってしまう彼を追うには、どうしたらいいか必死に考えて出した答えだったんだから。
「…………」
すべての始まりを告げるベルが場内に響き渡ると同時に、ぎゅっと身体が引き締まるように感じた。
始まる。
私にとって、初めてかもしれない新たな気持ちを感じる舞台が。
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