抜き足、差し足、忍び足。
 そろりそろりと足を運び、爪先立ちできょろきょろとあたりを見渡す。
 ……ああ。
 まさかこんなところでこの前見た『習得・忍者歩き』が役に立つなんて思わなかったわ。
 てっきりただのバラエティーだと思ってたのに、とんでもなかった。
 人生、どこで何が役にたつかわからない。

「何をしているんだ」

「ぎくぅっ!」
 あまりにびっくりしすぎて、擬音が口に出ていた。
 距離は恐らく、数十メートル後方。
 だけど、ここまでしっかりハッキリとした低い声が届いている以上、振り返ればヤツがいる。
 この私をひと目で不審者だと判断した男性が。
 ……マズイ。
 これってやっぱり、通報になるのかな。
 でも、そりゃそうだよね。
 だって私、明らかに不審者だもん。
 このご時勢、いくらみんなが過敏になりすぎているとはいえ、あからさまに『泥棒です』ってくらいあたりを警戒しながら歩いてる人を『なんでもない』なんて見すごすはずがない。
「……っ……」
 後ろを振り返れずに黙ったまま身を硬くしていると、徐々に靴音が近づいてきた。
 ……どうする……?
 どうするどうするどうすれば……!?
 こんなことで新聞に載るわけにはいかないし、綜にバレるわけにも……。
 だって、捕まりでもした所で、綜は絶対に身元引受人とかにはなってくれないだろうし。
 …………うぅ……。
 そうなると、何?
 私、どうなるの?
 やっぱり……やっぱり、アレ?
 臭い飯だって噂だけど実はそこそこおいしいと評判の高い塀の中に入れられて、冷たいコンクリートの床の上でさめざめと泣くしかないワケ?
 ……っ……そんな……!
 そんなそんな……そんな……っ……!!
「いやーー! そんなの、絶対に嫌ぁあ!!」
「うわ!? あ、こら! 待て!!」
「やだぁ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃいい!! 謝ります! だから許して!! 警察だけは、警察にだけはッ……!!」
 脱兎の如く長くて細い廊下を走りながら、頭にはニュースの特番とかで時々やる『万引きGメン』のシーンが浮かんだ。
 ……ああ。
 何もこんなところでちょっぴり犯罪者の気持ちがわからなくてもいいのに。
「あぎゅ!?」
「っはぁ……は……ったく……! 手間取らせるんじゃない……っ……」
 ふと頭の中で綜が背中をくるりと向けるシーンが浮かんだ瞬間、逃げる力が削げたのか、腕をぐいっと後ろから掴まれた。
 ヤバい。
 捕まったってことは、ここから……事務所とかへ連れ込まれて、目の前で警察に電話をかけられて……そして、綜とは……ずっと会えなくなって……?
「いーーやぁーー! 離して! はな――っむが!?」
 じたばたと両手両足身体全身でなんとか逃げようとしたんだけど、その途端口元へ白いハンカチみたいな布が押し当てられた。
 ……うぐっ……!
 これってやっぱり、ドラマとかでよくやるクロロフォルムってヤツ!?
 ふぅっと意識が飛んで、すぅっと瞳が閉じ……、とじ……? あれ?

「えぇい、しっかりしろ! 佐伯優菜!!」

「…………へ……?」
「まったく。何事かと思われるだろう。私が不審者になってどうする!」
「あれ……? 東堂さん?」
「まったく。声で気付かないのか」
 少しだけ慌てたような声で顔を上げると、そこにはものすごく困ったような顔をした東堂さんが肩で息をしていた。
「え? なんで? なんでこんな所にいるの?」
「……それはこっちのセリフだ。お前、久しく前から芹沢とは一緒じゃなかっただろう? なのに、どうしてこんな所にいるんだ?」
「う。それは……」
「……ん? それに、スタッフ証はどうした?」
「ぅぎく」
 パンパン、とタキシードの肩口を払った彼と向き合った途端、彼は怪訝そうに瞳を細めた。
 ……そりゃそうだ。
 本来、スタッフ証はみんなに見える場所に提示しなければいけないから、隠す意味がない。
 だけど、私はどこをどう見てもフツーに普段着そのままで。
 当然、ほかのスタッフの人たちみたいに、首からスタッフ証も下げてはいない。
「…………」
 ただただ、何も答えられないだけの時間が続く。
 ……きっと、東堂さんのことだから誰かを呼んですぐに外へ出されるに決まってる。
 だって私は彼を裏切ったみたいな存在だし、ましてや彼は綜のことなんて快く思ってないから。
「……まったく。スタッフ証もないのに忍び込むなんて、芹沢の付き人は随分豪気な真似をするんだな」
「う。……もう付き人なんかじゃ……」
「会いに来たんじゃないのか?」
「っそれは……」
 俯いたままだから、東堂さんの足元しか視界には入っていない。
 顔を上げたら、呆れられるよりも先に怒られるような気がした。
 ……まるで、悪いことだってわかっていながら実行して、親に怒られてる子どもみたい。
 こんなところを綜が見たら、呆れるどころじゃ済まないはずだ。
「……え……」
「水を持って行ってやれ」
「水……?」
「ああ。ヤツは今ごろ、まだステージに残ってるはずだ」
 顔を上げると、腕を組んだ彼が小さくうなずいた。
「……ステージって……。でも、もうお客さんは入って……」
「ああ。でも、それがいつものヤツのスタイルだろう? 1枚の幕を隔てた向こう側では、多くの客がどんどんと席に着き始めている。普通の人間なら、敢えて自分からその場にはいたがらないだろうな。……だが、芹沢は違う。いつだって、リハのときから1番最初に席へ付き、誰よりも最後までそこに座っているじゃないか」
「え……そう……なの?」
「なんだ、そんなことも知らないのか? ヤツはいつだってそうしていたぞ。……付き人が把握していなくてどうする」
「……ごめんなさい……」
 これまで、まったく知らなかった事実。
 綜はいつだって確かに早く控え室から出て行っていた。
 だけど、私はそのとき大抵控え室に残って片づけをしていたり、それが終わったら客席側へ回ってしまっていたりしたから、いつも私が見るときにはもうみんなが席へ着いていた。
 それが当たり前の光景だったから、綜だけが違うなんて考えもしなかったし、ましてやそんな……幕が下りているときにも席についているなんて、本当に知らなかった。
「ヤツの練習量を見たら、誰だって勝てないと思うだろうな」
「…………」
「いつ休んでるのかって不思議になるよ。片時もヴァイオリンから離れず、普段考えていることもそればかりで。……気が休まることがあるのかどうか、そのほうが気になる」
 少しだけ呆れたみたいにため息をついた彼に、何も言えなかった。
 なぜなら、それは私にとって、『綜の当たり前の姿』だから。
 いつだって綜のそばにはヴァイオリンがあったし、小さいころから見てきた光景だったから、何も不思議に思わなかった。
 ……でも、そうだ。
 言われてみれば確かに、綜はいったいいつ休んでいるんだろう。
 ごはんを食べているときも、テレビを見ているときも、お風呂に入っているときも、ちゃんと綜にはあるって知ってる。
 だけど、考えていることまではわからない。
 私と違って愚痴や泣き言だって言わないし、それどころか……肝心なことだって、あまり口にしない人だし。
 綜って、いつも何を考えてるのかな。
 東堂さんが言うように、やっぱりヴァイオリンのことだけなのかな。
 その中に、私のことなんて……欠片も含まれてないのかな……。
「…………」
 私は、綜にとってなんなんだろう。
 付き人だって口では言ってたけど、でも、別に私がいないと困るようなこともない。
 これまでだって綜はずっとひとりでやって来たんだし、誰を信じるでもなく己だけを信じて来たんだから。
 ……それじゃあ、私は何?
 私の存在価値っていったい、なんなんだろう。
「……今回は見逃してやる」
「あっ」
 黙って俯いた私の首に、何かがかかった。
 手じゃない。
 縄でもない。
 そんなんじゃない、もっと細くて、軽くて――まるで……紐みたいなものが。
「ッ……東堂さっ……これ……!」
「水を持って行ってやれ。……それが、付き人の仕事だろう?」
 ずっと、どうしても欲しいって思ってた。
 どうしても欲しくて欲しくてたまらなかった。
 ……だって、これがなければ何も叶えられないんだもん。
 ただ単に、綜の顔をひと目でもいいから見たいという願いすらも。
「だから、今回だけだ。……たまたまだからな。偶然だぞ! べ、別にっ! 芹沢のためなんかじゃないからな! あくまでも、お前のためだぞ!!」
 びっくりして顔を上げると、彼は真っ赤な顔をしてそっぽを向いた。
 ……なんか……なんだろ。
 もしかして東堂さんって、実はものすごく子どもっぽくて、だけどとってもいい人なんじゃ……。
「ありがとう、いい人……!!」
「うっわ!?」
 うるうるっと涙が浮かぶと同時に、感情が昂ぶって思わず彼の両手をぎゅうと握りしめていた。
 ああもう、なんていい人なんだろう。
 あれほど、散々ヤなヤツなんて思っていた人と同一人物だなんて、とてもじゃないけど思えない。
「ありがとう、東堂さん! ホント、すんごい嬉しい!!」
「いや、その……っ……ま、まぁ……なんだ。ごほん。そこまで喜んでもらえれば、私としてもだなぁ」
 両腕をがしっと掴んだまま顔を覗き込み、何度も何度も強く揺さぶる。
 だけどやっぱり、東堂さんは一度たりとも私の目を見ようとはしなかった。
 ……かわいい人なんだなぁ、きっと。
 プライドが高いとかそういう以前に、単に自己表現が苦手なだけなのかもしれない。
「ありがとう!! それじゃ、私はこれでっ!」
「あ!? ちょ、ちょっと待て!! 私はっ、わ、私は別にっ、佐伯優菜……! お前のことを、まだ諦めた訳では――」
「綜に勝ったら考えてあげるーー!」
 真っ赤な顔して大きな身振りをしている彼に、走りながら手を振る。
 当然、このときはもう笑顔になっていた。
 ……さっきまでの自分が、考えられない。
 でも、ああ……これが私っていう人間なんだなって思った。
 あと先考えずに行動すること。
 人はそれを浅はかと笑うかもしれないけれど、でも、十分過ぎるほどの強さなんじゃないかって私は思う。
 さぁ、行こう。
 切符も手にしたし、行き先だって目に見えている。
 ここまで神様のお導きがあれば、あとは十分。
 私だけの力でも、走っていける。進んでいける。
 ……目指すはただひとつ。
 どうしようもなく不器用で、そこはかとなく仏頂面で、かなりの変わり者だと名高い――我が愛しの偏屈王の元へ。


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