人が多く集まる場所では、当然のように本当にたくさんの音がある。
 靴だったり、話し声だったり、物がぶつかり合う音だったり。
 ひとつひとつはどれも些細なのに、何十何百もの人が生み出すものは、本当に大きなエネルギーで。
「…………」
 思わず、会場を目の前にしたままで足が止まった。
 たくさんの人が、何も迷うことなく入っていく大きなホール。
 入り口ではきちんと正装をした人が、チケットを受け取って半券を返していた。
 中に入っていく人たちも、やっぱりきちんとした格好。
 カジュアルな人ももちろんいるけれど、だからって砕けすぎたような人はいなかった。
 ――私みたいに、いかにも『ちょっとそこまでお出かけ』みたいな格好の人は、誰も。
 場違いだってことは、わかってる。
 格好だってそうだし、ここにいる誰とも違う目的なのは間違いない。
 でも、入らなきゃいけない。
 ここが私にとって、もしかしたら最後に綜を見られる場所かもしれないから。
 普段と違ってスタッフ証を持たない私は、当然ながら通用口から入ることはできない。
 それに……。
「……ダメかな……やっぱり……」
 今の私は、このホールへ入るための唯一の手形である、チケットすら手にしていなかった。
 人気があるのは、わかっていた。
 だから当然、ほぼすべての席が前売りの段階でさばけてしまっているはず。
 当日券なんて、今日の朝早くから並んでいなければ無理だろう。
 現に、入り口近くにある大きなポスターにも『完売御礼』の赤文字が大きく見えた。
「…………」
 どうしようか。
 勢いでここまで来てしまったのはいいけれど、でも、中に入ることができない。
 スタッフ証を持たない私がいくら通用口の警備員さんに『芹沢綜の付き人』だと言っても、絶対に通してはもらえないだろう。
 だって、見るからにそんなふうには見えないもん。
 『綜の彼女』だなんて言ったら、鼻で笑われた挙句に警察でも呼ばれるかもしれない。
「…………」
 ホールの前にある、大きな花壇。
 そこにあるベンチへ腰を下ろすと、自然にため息が漏れた。
 ……なすすべがないって、今みたいなことを言うんだろうな。
 私と違ってちゃんと『パス』を持っている人は、みんな笑顔で迷うことなく正々堂々入り口から入っていく。
 開演時間まで、あと少し。
 ……もう、本当に少し。
 今から入って自分の席を探してパンフレットでもじっくりと眺めていれば、じきに館内放送が流れるはず。
 ああ、どうしよう。
 困った。
 これは困った。
 だって、急ごうと思っても私には手立てがない。
 お金を払えばチケットが買えるなら、たとえ何十倍もの値段だろうと払ってもいい。
 ……でも、ない。
 それはできない。
 だって、この人の流れを見ていればわかるけれど、不要なチケットなんて1枚もないってわかる。
「…………」
 ホールへ吸い込まれていく人の流れを見ていても、時間はどんどん過ぎていく。
 このままじゃ、開演どころか閉幕しても会えないかもしれない。
 ……本当は、綜が出るコンサートのチケットを、自分でお金を払って買いたかったんだけどな……。
 これまでの恵まれすぎていた環境を一度リセットして、最初からやり直す。
 そういう意味では、まさにチャンスだと思ったんだけど。
 でも、仕方がない。
 これしか、ほかに道はないから――やらなきゃ。
 猪突猛進。
 がむしゃら。
 そんな言葉を頭に浮かべながらうなずくと、後ろ髪がないという勝利の女神様の加護を授かれたような気がした。

 なんて都合いい人間なんだろう。
 いや、もしかしたら本当に、『勝利の女神』を手繰り寄せたのかもしれない。
 こんな幸運、きっともう二度とないはず。
 ……だもん、やらなきゃ。
 私が今、ここでしないで誰がやるの。
「…………」
 思わずこそこそと植え込みの間から覗き込んだまま、喉が鳴った。
 きっと、チャンスは一度きり。
 ……がんばろう。
 がんばるぞ! おー!
 独り我が身を励ましてから、ぐっと握り拳を作る。
 よし行け、やれ行け、佐伯優菜! 明日は……ううん。きっともうすぐ、ホームランだ!
「……あのぅ」
 ごくっと喉を鳴らしてから向かったのは、いわゆる『スタッフオンリー』なんて見えない札がかけられているような通用口だった。
 そこには、当然のように警備員がひとり。
 そこまでがっちりしてるタイプじゃないけれど、でも、やっぱり強そうだ。
 棍棒っていうか、警棒?
 あんな感じのを腰にぶら下げてるし。
「……はい?」
「えっと、その……あの……」
 何やらほかに仕事があるらしき警備員さんは、私が声をかけた所でまったくこちらを振り返ろうとする気配がなかった。
 書類みたいな紙が挟まってるバインダーに目を落としたまま、生返事なんだもん。
 ……でもね。
 ぶっちゃけ、それじゃあ困るの。
 ちゃんと、ちゃーんと私のこの顔と目を見てくれなくちゃ。
「あの。もしもし!」
「なんですか?」
「だから! ちょっ……こっち向いてくださいってば!!」
「っわ!?」
 くるくると面倒くさそうにボールペンを指で回したのを見て、思わず力がこもった手で彼の腕を掴んでいた。
 その途端、バランスを崩した彼が、よろけてから慌てて私を見る。
 見た。
 ばっちり目が合った。
 ……そう。
 これこそ、私がこれまでずっと思い願ってたシチュエーション!

「っ……佐伯……!?」

「あはは。おひさー」
 目の前の彼は、途端にびっくりしたみたいに目を丸くした。
 でも、正直言って私だってびっくりしたんだ。
 まさかこんな身近な……いや。
 第一の難関であり関門であり、最大の難所。
 そんな場所に、杉浦君本人がいたのを目にしたときは。
「おまっ……え!? は!? こんなところで何してんの?」
「それはこっちのセリフだよー。なんでこんなところに、杉浦君がいるの?」
「俺? いや、俺はフツーにバイトだよ。警備のバイト」
 最初は、見間違いかはたまたよく似た人なのか。
 そう悩んでいたんだけれど、しばらく見ていたら帽子を一度だけ外したのだ。
 乱れた髪を直すためらしく、すぐにまたかぶり直しちゃったけど。
 でもそれで、間違いないって思った。
 だからこそ――正直、行けるって思った。
 彼に事情を話せば、も、もしかしたら通してくれるんじゃないか、って淡い期待を抱きつつ。
「で? なんで佐伯がこんな所にいるんだ?」
「えへへー。いや、実はね? あのー……杉浦君に、お願いがあるの」
「お願い?」
「うん。っていうかね、杉浦君にしかできないお願い!」
 以前会ったとき、こんな私でも彼から『好きだった』なんていう愛の告白を頂戴した。
 アレから暫く会ってなかったから彼がどんな境遇にいるのかはわからないけれど、でも、腐っても『昔好きだった人』!
 真剣に丁寧に、そして愛情たっぷりにお願いすれば、もしかしたら……もしかするんじゃないだろうか。
「あのね?」
「……ああ」
 よし。
 ほんのちょっとだけど、どきどきしてるみたいな顔だぞコレは!
 なせばなる。
 なさねばならぬ、何事も!!

「ここ、通してほしいの!」
「いや、ムリだけど」

「…………」
「…………」
 にっこにこのこの上ないってほどの笑顔を凍りつかせたままで、真顔の杉浦君との間に冬らしい冷たい、つめたーい風が一陣吹いた。
「ええっ! なんで!?」
「いや、なんでも何も……。それが俺の仕事だし」
「そんな!!」
「そうだろ? そりゃ、佐伯がスタッフだっていうなら話は別だけど、まさかそんな……なぁ? 友人割引とかそーゆー職種じゃないから」
 そう言うと杉浦君は、まるでドラマの警備員さんみたいに『ダメダメ』と私を手で追い払った。
 そんな間も、関係者らしくネックストラップで首から『STAFF』と書かれたパスを下げている人たちは、どんどんと間をすり抜けて行く。
 うあー、悔しいー!
 なんでよ! 私だっていいじゃない!
 こー……こっそり入れてくれたって!
 第一私は……!!
 だって私っ……これでも、綜の恋人なのに……ぃ。
「……? 佐伯?」
「うー……」
 抗議のために突き上げていた両手の手のひらが、力なく『ぱー』へと形を戻した。
「っていうかさ、なんで?」
「……え?」
「なんでお前、こんな所に入りたいワケ?」
「う」
 そ……そりは……。
 ため息をついた彼に真正面から見つめられ、ここまで出かかっている言葉がやっぱり出てこなかった。
 だって、仮にもあのとき、杉浦君は綜と……た……対峙して、しかも……まぁ、形は違うけど『やり合った』みたいなモノでしょ?
 だもん、そんな相手に『綜に会いたいから』なんて、たとえ口が裂けても言える訳がない。
 そんなことを口走ったが最後、きっと杉浦君は絶対に私を通してなんかくれないんだ。

「……もしかして、あの……芹沢ってヤツに会いに行くのか?」

「うひょあ!?」
 バレないようにと極力がんばっていたら、いきなり目の前の彼が眉を寄せた。
 途端におかしな声が出て、視線を逸らした杉浦君が、『やっぱりな』と言ってからため息をつく。
 ……や……ヤバい。
 まさかこんな展開になるなんて。
 いやでも、待って。
 もしかしたら、杉浦君は私のことを――。
「……へ?」
「なんだよ……水臭いな、お前」
「杉浦君……?」
「アイツに会いたいんだろ? どんな事情があるのか知らないけどさ、でも……そこまで思い詰めてるなら……」
「うそっ……ホントに!?」
「ああ」
 うそーー!!
 あまりの出来事に、思わず頭の中で『パパラパッパッパー』とファンファーレが鳴り響いた。
 レベルがひとつ上がっちゃったみたいな。
 いやいや、むしろ隠された重要アイテムを見つけちゃったみたいな!
「ありがとう! ありがとう、杉浦君!!」
「いやあ、何。お安い御用だって」
「ありがとう、ありがとうぅ」
 嬉しさのあまり涙を浮かべながら彼の両肩を掴み、うんうんと何度もうなずいてみせる。
 すると杉浦君は、そのたびににっこりと笑って同じくうなずいてくれた。
 ……ああ、神様。
 どうしてこんなにもこの人はイイ人なんでしょうか。
 友人に恵まれて、本当に本当に幸せだと思います。私。
「それじゃ杉浦君、私行って来るね」
「ああ」
「…………」
「…………」
「……杉浦君?」
「ん?」
「……えーとえーと……」
 にっこりと対峙すること、ものの数秒。
 つつっと何やら冷や汗みたいなモノが頬を流れた。

「なんで、どいてくれないの?」

 互いに満面の笑みを張り付かせたまま続けること、さらに数秒。
 するりと間を抜けて向こう側へ――と試みてはいるものの、なぜか一向に先へと進むことができない。
 ……それはなぜか?
 理由は簡単。
 単に、にこにこと笑ったままの杉浦君が、行く手を阻んでどいてくれないからだ。
「何ってそりゃあ……簡単だろ?」
「え?」

「理由がアイツだって分かった以上、ぜってーここ通さねぇ」

「えぇえええ!?」
「ダメだ。絶対通さないからな。……あんなヤツのところへ佐伯が行くなんて、俺は許さない」
「や、ちょっ……杉浦君!?」
「ダメだ」
「ちょっとー!?」
「嫌だね」
 こっ……この人、実は性格とっても悪い……!?
 さっきまでは満面の笑みを浮かべていたくせに、今じゃ私の顔すら見ようとしないままでツンとした態度を見せている。
 ……くっ……か、かくなるうえは……この手しかありますまい……!
 佐伯家伝来の秘儀、『猫騙し』!
「あっ! あんなところで、郷中美和がエキストラ募集してる!!」
「うっそ! マジ!?」
 ひょい、と遠くを見るように手をかざしながら、思い切り腕を伸ばして指をさしてやる。
 そのとき、きらーんと自分でも目が光ったのがわかった。
 喉から手が出るって言葉があるけれど、あんなモノよりもずっとずっと欲しくて欲しくてたまらなかった『通行手形』が、無条件で手に入ったのだから。
「なんだよ、どこに――うぉあれ!? え!? あ、ああ!? ちょっ……!! 佐伯!? おまっ……ちょ、冗談キツいってマジ!!」
「ごめん! ちょーごめん!! でも、許してごめんね見逃してーー!!」
 目の前にぽっかりと口を開けた空間へ身体を滑り込ませたあとは、振り返ることなく一気にその場を駆け抜ける。
 長い長い廊下は人が何人かいたけれど、でも、一様にビックリした顔をしてはいるものの、誰もあとを追っては来なかった。
 ……まぁ、杉浦君が『ソイツ捕まえてくれ!』なんて大声を出さなかったのが唯一の救いだろうか。
 ありがとう、杉浦君。
 あなたの好意は、決して無にしないから。
「佐伯ぃいい!!」
「ごめんなさいぃい!!」

 かくして私は、『不法侵入 3年以下の懲役または、10万円以下の罰金』の罪を背負うことになった。


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