「芹沢綜です。どうぞよろしくお願いします」
「……というわけで、今日からは芹沢先生にヴァイオリンの授業を受け持っていただきます。いい? くれぐれも、先生に迷惑かけないようにね?」
「はぁーい」
 ちょっと待った。
 はぁい、じゃないわよ。
 目の前で起こっている今の状況に、頭がついていかない。
 なに? これ。
 っていうか、誰!? あそこでニコニコしてる、あの人!!
 いや、あの、もちろん顔はよく知ってるのよ? 顔は。
 なんてったって、これまでの18年間ずっと見てきた幼馴染なんだから。
 でも、ね。
 私が知ってる彼は、少なくともあんなふうに笑みをたたえる人じゃない。
 いつも不機嫌で、いつも口が悪くて、いつも愛想がなくて……。
「それじゃあ、芹沢先生。よろしくお願いしますね」
「わかりました」
 あんなふうににこやかに笑ってうなずくような、優男じゃないわよーーー!!!
 音楽専科の山口先生に笑いかける綜を見ながら、私は心の中で思いのたけをぶちまけるしかなかった。

「どうしたの? 優菜。元気ないじゃない」
「……ちょっと、いろいろあって」
「大丈夫ー? なんか、今にも倒れそうだよ?」
「倒れると思う」
 私は本気で言ったつもりだったんだけど、どうやら本気には取ってもらえなかったようだ。
 いや、まぁ……別にいいんだけど。
 突然身に起こった、とんでもない出来事。
 あれから随分と経ったものの、やっぱり頭の中は整理が付いていなかった。
 っていうか、何? いったいどういうこと!?
 机に頬杖を付いて頭を抱えるものの、もちろん答えなんて出てくるわけもなく。
 ……しょうがない。
 こうなったら、幼馴染の権力をフルに使って綜に直接聞くしかないわね。
 がばっと身を起こし、独りうなずく。
 今日の帰り、綜の部屋まで押しかけよう。
 ぐぐっと拳を握ると、若干頭痛が遠のいたような気がした。
 ……私って、単純なのかしら。

 ぴんぽーん
 鳴り響いたチャイムのあとに聞こえてきたのは、綜――とそっくりだけど、温かみのある声だった。
「お。久しぶり」
「やっほー」
 にっこりと笑みを浮かべてドアを開けてくれたのは、綜と同じ顔だけどやっぱり優しい目をしている、宗ちゃん。
 どうして双子なのに、これほど違う人物に見えるんだろう。
 ……人徳の差?
「まぁ、入れよ」
「ありがとー」
 宗ちゃんに招かれるまま中に入り、靴を脱いで上がる。
 ……あー、なんだか久しぶりに来た気がする。
 といっても、この前も来たんだけどね。
「何か飲むか?」
「あー……うーん。いいや」
「そうか?」
「うん。ありがとね」
 リビングに通され、そのまま革張りのソファへと腰を下ろす。
 ……うあ、相変わらず身体に馴染むソファだわ。
 さすがは、お医者さまのお宅。
 小さいころから遊びに来させてもらってるからこれといって気にしなかったんだけど、こうして改めて見てみると結構高級そうなものがたくさんあった。
 このソファも、もちろん言うまでもなく。
 きっと、イタリアとかフランスとかの高級家具なんだろう。
「で、どうした? 今日は。珍しいな」
「ん? うん」
 彼は、ウチの学校で保健室の先生をやっている。
 結構生徒にも人気あるんだよー?
 理由はもちろん、この顔と優しい性格。
 ……だと思う。
 何やらいろいろとよからぬ噂も聞くけど、私にはやっぱり変な噂は信じられないし。
 だって、私は小さいころから彼を見てきたんだから。
 そんなねぇ、人聞きの悪いようなことをする人じゃないもん。宗ちゃんは。
 ……どこかの双子の片割れじゃあるまいし。
「あのさ。綜って、帰って来てる?」
「綜? いや、まだ帰ってきてないけど」
「……そうなの?」
「ああ。でもまぁ、もうすぐ帰ってくるだろ。ここで待ってれば?」
「あ、うん。じゃあ……そうさせてもらおうかな」
 にっこり笑って提案してくれた彼にうなずくと、ぽんっと手を叩いてから立ち上がった。
「宗ちゃん、もしかして忙しい?」
「んー……まぁ、そんなトコかな。これからちょっと、出かける予定あるんだよ」
「……あ、そうなの? ごめんね、引き止めちゃって」
「いんや、いいよ別に。ま、ゆっくりしてて」
「ん。ありがとう」
 言われて見てみれば、確かに彼は普段着じゃなかった。
 少し厚手のジャケットも着てるし、これから外へ行くと言われればうなずける格好だもんね。
 約束があるのにも関わらず付き合ってくれた彼には、本当に頭が下がる。
 でも、彼は昔からそうだった。
 いつも優しくて、自分のことをあと回しにして。
 ……本当に、なんていい人なんだろう。
「気をつけてね」
「おー。優菜も気をつけろよ? 変な客とか来ても、開けなくていいから」
「あはは。わかったー」
 彼を見送って、玄関の鍵をしっかりと閉める。
 うん、完璧。
 っていうか、何気に留守番になっちゃったんだけど……いいのかな。
 大きな家に独りぽつんと取り残された気がして、無性に寂しくなってきた。
 ……うー……。
 今さらだけど……お、落ち着かない。
 どこに何が入っているかもだいたいわかるほど、勝手の知れた第2の我が家。
 だけど、やっぱり……広すぎると思う。
 家も広けりゃ、部屋も広い。
 15畳はゆうに越えているであろうリビングのソファに足を抱えて座っていると、より一層切なくなってきた。
「わ!?」
 カタン、という小さな音にまでついつい反応してしまう。
 ……くぅー。庶民には耐え難いわ。
 綜ってば、いい加減帰ってきてくれないかしら。
 宗ちゃんが出かけてからまだ5分と経っていないのに、早くも孤独感にさいなまれ始めた。
 ……ああ、私ってば留守番苦手なのね。
 などと、よそのお家でそんなことを実感した瞬間だった。


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