「わぁああっ!?」
毎日の日課と言ってもいいかもしれない。
それくらいの高い頻度で、私は毎朝こんな声を出していた。
「カン君! あーちゃん! 行くよ!!」
「えぇー? でもいま、ニョッキはじまったばっかりだよ?」
「いやっ、だから、ちょっ……! いやいやいや! 呑気にテレビ見てる場合じゃないから!」
ぶーたれる、幼い女の子。
ぴょこりん、とツインテールが揺れ、唇を尖らせている様子がちょっぴりかわいく……って、そうじゃなーい!
「ほらっ! バス行っちゃうでしょ!? 早く靴履いて!」
「……えー。あ。ママ、ピンクのだしておいてくれた?」
「えぇ!? アナタ、昨日散々白履いてくって言ってたじゃない!」
「いってないよー」
「くっ……この、時間のないときに……!」
ぐいっと手を引っ張りながら、玄関へと足を向けるものの、反対の手が軽い。
荷物は全部玄関に置いてあるから、それじゃない。
そうじゃなくて……なんか、もっと大事なモノが――……。
「っ……息子!!」
ぺかーん、と音が鳴ると同時に頭に浮かんだ人物。
その人はなぜか、頭の中でも私に背を向けたままだった。
「ちょっ、カンくーん!!」
「もー。ママー、はやくきなさいよー」
「くっ……! あーちゃん、ちょっと待ってて!」
振り返ると同時にリビングのソファでくつろぐ彼を呼んだ途端、先ほどまですぐここにいた彼女の声が、遥か遠く玄関のほうから聞こえて来た。
催促してくれるなら、もっと早く自分から動いてくれはしないだろうか……!
なんだかもう、一気に力が抜ける。
「もー!」
重たい身体のままリビングに向かい、大きなため息をついて腰に両手を当てる。
目の前にいる彼。
ソファにどっかりと……って表現はちょっとオカシイけど、でも、雰囲気はバリバリ『王様』的。
齢4歳にして、よくぞかもし出してるわ……。
理由をいうまでもなく、彼の向こうにもうひとりの男が見えた。
「カン君! バス行っちゃうってば!」
「……わかってる」
「えぇ!? わかってるなら、早く来てよぉ……」
慌てず騒がず。
こちらの慌てっぷりにまったく反応しない彼は、静かに静かにハンカチであるモノを磨いていた。
毎朝恒例の行事でもある、コレ。
題して『お気に入りの確認と磨き上げ』だ。
……って、まんまな気がするけど、まぁいい。
これ以上の言葉は、もはや見つからないんだから。
「ねぇ、カン君。ヴァイオリンなら誰も触ってないし、ママも今日は触らないから」
ねぇねぇ、と言いながらその場へしゃがみ、納得させるようにゆっくり話す。
……わかってるのよ?
こんなふうにしたって、彼が『うん。わかった』なんて言ってくれないってことくらい。
聞いているのかいないのかわからないような彼は、やっぱりこちらを振り返りもしない。
――……だけど。
「ママ」
「え? 何?」
突然、ヴァイオリンを持っていた手を止めて、静かに口を開いた。
その言葉。
というよりも、声というか……言い方というか。
小さいころ、自分が抱いた感じが蘇った気がして、思わず喉が鳴る。
「そういう問題じゃないんだ」
「……っ……」
まっすぐに目を合わせて言われた言葉。
ていうか……こ、こんなこと、よそのご家庭の4歳児は言うの……?
『はい。すみません』と思わず言ってしまいそうになるのを必死に堪えながら首を縦に振ると、それを見た彼も同じようにうなずいてから、止めた手を再び動かし始めた。
……あぁもう何してるのよ、私は。
反省だけなら、猿でもできるというのに。
「ママーぁ。はやくしないと、バスいっちゃうよー」
「くぅっ、わかってますってば! ……ってい!」
「っ!?」
「ごめんね、カン君! またあとでやって!!」
「くっ……何するんだよ! いくらママでも、許さないからね!?」
「うえーん、ごめんねー!」
ていっとヴァイオリンを取り上げてテーブルに置き、彼を小脇に抱えるようにして玄関へ向かう。
すると、いつの間に自分で出したのか、ピンクの靴をしっかり履き終えて鞄をタスキがけしている彼女が頬を膨らませていた。
「くぅっ……! また遅刻か!?」
タイムリミットまで、あと2分強。
いかにして園バス集合地まで辿り着くか――……の前に。
ゆっくりゆっくり丁寧に靴を履き始めた息子を見て、思わず脱力。
「はぅううあ……」
やっぱり、私には『無理』という2文字が真っ先に辞書へ載っているのかもしれない。
毎朝。
これが、毎朝続く私と彼らの日課だ。
こんな生活が始まったのは――……思い起こすと、もう、5年近くも前になるのか。
急に……じゃないけれど、でも、私と綜だけだった生活に降って湧いたようなふたりの人間。
それは、紛れもなく私と彼の血を継いだ双子の姉弟だった。
「ふっ……双子ですか!?」
「ええ。おめでとうございます」
あれは、今から5年前。
縁がないとばかり思っていた病院の診察室に、私はいた。
「えっと……」
「2ヶ月ですね」
「は……はぁ」
淡々と説明される事柄。
それは、あくまでも『普通』に。
いや、私にとっては全然普通じゃないんだけど。
でも、目の前で説明してくれている白衣の大天使様のようなめっちゃイケメンな先生は、にこやかな柔らかい笑みを浮かべて、ひとつひとつ丁寧に説明をくれた。
言わずもがな、ここは産婦人科だ。
もちろん、目の前のステキな男の先生は、産婦人科の先生。
……ごほん。
いや、あの……うん。
人生初体験なワケだったけど、やっぱり……こういうことは、女の先生がいいなぁ。
だって、私だってまさかこんなイケメン医師が対応してくれるなんて思わなかったのよ。
だから、メイクだって普通ならば、服装だってふっつーーの格好。
はぅう。
こんな、人生で何人も出会えないほどのいろいろ高い先生が相手だって知ってたら、気合入れて美容院にでも行ってから来たのに。
……まぁ、もうあとの祭りなんだけど。
ノーガードで来ちゃったうえに診察まで受けちゃった以上、もう、何も言えない。
「…………」
ちらりと落としていた目線を上げると、カルテに何かを書き込んでいるのが目に入った。
……そう。
私は今、紛れもなく産婦人科の先生に診てもらった。
それがどういう意味か。
何を示すのかは、ひとつしかない。
「あの、先生」
「なんですか?」
ごくり、と喉を鳴らせて彼を見ると、手を止めて私を見た彼。
目の前のこの人が嘘を言うようには見えないというか、だって、お医者様。
そんなことをするはずなんかないって、わかってるんだけど……。
「私……本当に、妊娠してるんですよね……?」
ある意味、自分に言い聞かせるかのような言葉をしぼりだすと、彼はにっこりと穏やかに笑った。
「ええ。おめでとうございます」
妊娠。
そう。何を隠そうこの私は、今、この産婦人科を『妊娠の疑いあり』で受診していた。
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