「ただいまーぁ」
しーん。
玄関に響くのは、ちょっぴり疲れた私の声だけ。
翌日の、お昼前。
せっかくパパがいる日曜日だからみんなで買物に行こうと思ったのに、相変わらずあーちゃんもカン君も、やっぱり綜にべったりな時間をすごしていた。
……まったく。
昨日のアレは、いったいなんだったんだろうか……。
でも、結局のところママはママで、パパはパパで。
4歳という幼い我が子ながらも、きちんと役割分担がなされている証拠だろうというわけで、納得せざるをえなかった。
……まぁそうは言っても、やっぱり、ちょっぴり寂しいのはあるけれどね。
だって、うきうき気分で『ねぇねぇ買物行くっ?』って聞いたら、露骨に嫌な顔して『パパといっしょにおるすばん』って言われたんだもん。
とほほ。
子どもってホント、正直だと思う。
「ったくもー。おかえりくらい、言ってくれてもいいじゃないのよぅ」
独り寂しく玄関を上がり、両手に荷物を持ったまま廊下を進む。
――と。
「……あれ?」
珍しく、聞こえるはずのない音が、聞こえるはずのない場所から漏れているのに気付いた。
「ただいま……?」
リビングのドアを開けて、そっと中を覗く。
すると、私に気付いたカン君が、真っ先に手を止めて私を見た。
「あ、ママー。おかえりー」
「ただいま」
次に私を見たのは、あーちゃん。
……って、何それ。
どこから引っ張り出してきたのやら知らないけれど、彼女の足元には、丈夫なプラスチックの箱みたいなのが置かれていた。
足元。
イコール、踏み台にされてるってこと。
ちなみに、足元だけじゃなくて、手元にもツッコミを入れたいモノが握られている。
「あーちゃん、お箸持って何してるの?」
思わず、手に持っていた荷物を音立てて落とすところだったわ。
いわゆる、『脱力』って状態。
その前に卵が入ってること思い出したから、やらずに踏みとどまれたけど。
「ぬふふー」
なぜか張本人だけは、えっへんとばかりに胸を張ってにやにやと妖しげな笑みを浮かべている。
……なんだろう、この子は。
でも一瞬『昔の私にそっくり』と思ったあたり、遺伝を感じる。
「あのねー。あーちゃん、しきしゃさんなの!」
にぱ。
ハッキリとそんな音が聞こえそうな笑みを浮かべた彼女は、もう1度お箸を持ち上げた。
「……あのね。なの、じゃないから」
我が子ながら、一瞬びびった。
……いや、でもまあ仕方ないのかもしれない。
だって、このちょー自慢してます! って感じのところも、私にそっくりだと思っちゃったから。
「えー? なんで? だって、あーちゃんがいないと、パパもカンくんもひけないんだよ?」
「……へ?」
思わずため息をついていたら、まるで、『ママこそ何言ってるの?』とでも言わんばかりの顔で、お箸を向けられた。
……こらこら。お箸を人に向けるんじゃない。
しっしと手を振って彼女に近づきそれだけはまず阻止すると、渋々ながらも今度は人差し指を立てて代用にした。
「いーい? しきしゃさんはね、みんなのえんそうをひとつにまとめるの。それが、おしごとなんだよ?」
「……ほー。なんだか、どこかで吹き込まれたような言葉ね……」
「なーに?」
「んーん、なんでもない」
ちらりと綜を見るものの、ヴァイオリンを肩に乗せたまま、カン君に何か指導をしているみたいだった。
……くぅっ。
カン君ってば、ちょっと大きい感じのするヴァイオリンだけど、一生懸命で……おかーさん母性刺激されまくりだわっ。
普段は、どんなことでもものの見事にささっとやってしまう彼だからこそ、なんだか感慨深い。
「で? ねぇ、ママ。どうだった?」
「え? どう、って……何が?」
そんな彼らをにまにまと見つめていたら、あーちゃんが私のスカートを引っ張った。
台に乗ってるせいか、いつもより少しだけ近い。
くりっとした瞳で『ねぇ、どお?』ともう1度言われ、思わずこちらがきょとんとしてしまう。
「んもー。ママってば、きいてなかったの?」
「え? えっ……っと何を?」
「んもーー!!」
わずかに首をかしげ、彼女にもう1度訊ねる。
すると、両手を腰に当ててから、もう1度うなった。
……うーん。
まるで牛みたいだ、なんて言ったら本気で怒られるかもしれない。
「パパがいってたよ?」
「え?」
「いまひいたの、ママがすきなきょく、って」
「……え……」
少しだけ怒ったような、少し拗ねるような。
上目遣いで見上げたあーちゃんを見てから、自然と視線は綜へ。
「っ……」
次の瞬間、思わず口に手を当てる。
姿勢を正した綜が、肩に乗せたヴァイオリンへ弓を宛てがったかと思いきや、それはそれはよく知っている、昔から聞きなれたメロディが部屋に広がった。
星に願いを。
いったい、これまでの人生で何度聞いただろうか。
どれもこれも、ヴァイオリンだけの演奏。
それも、有名な――といえば有名だけど、私にとってはいつだって『世界の芹沢』なんかじゃなく、『隣の幼馴染』の彼が弾いてくれる曲。
何度聞いてもいつも特別で、いつだって自然に笑顔になる名曲だった。
「……っ……」
綜のメロディに、カン君が加わった。
今度は逆に、綜が彼のメロディに寄り添う。
少しだけたどたどしくて、でも精一杯に紡がれる主音。
そんなふたりの音に合わせて――じゃなかった。
反対よね。
ふたりの音が、あーちゃんの指で紡がれる指揮に合い、それはそれは見事な調和みせた。
「えへへ。どお? ねぇママ、どおー?」
「……すごい……すごーい!! みんな、すごいー!!」
はいっ、とばかりにあーちゃんが自慢げな顔で台を飛び降り、私の服を両手で下から引っ張った。
だからそのままの勢いで彼女の両頬に手を当て、むにむにっと撫でる。
「あーちゃん、上手だねー! うん! こりゃあ、いい指揮者さんになるわよー!」
「ほんとー?」
「もちろん!『鬼才芹沢の愛娘・美人指揮者として君臨!』なんて、新聞飾ったりして!」
「うわーい」
「わーい!」
ぐいっと脇の下に手を入れてから抱き上げ、改めて頭を撫でてやる。
すると、綜の隣にいたカン君が、私をじぃっと見つめた。
「っ……ふふふ」
にんまりと笑みを浮かべてカン君ににじり寄り、あーちゃんを下ろすと同時に――何かを察知して慌てて逃げようとした彼をしっかり捕まえる。
「ッ……ま……ママっ!」
「んふふー。そうねー、カン君ならそれこそ『芹沢神無・父に次ぎ最年少でコンサートマスターに!』かしら?」
「っ……!」
「ねーっ?」
「……もー、ママ、やめてよっ」
ぎゅうっとふたりを抱きしめてから、改めてカン君の頭をめいっぱいぐりぐりと撫でてやる。
すると、眉を寄せてものすごく迷惑そうな顔をしながらも、赤くなったほっぺたと口元は、はにかんだみたいに緩んでいた。
「……あれ?」
そんなときだ。
不意に足元へ目を落としたら、カン君のヴァイオリンケースのすぐ隣に、何やらゴミみたいな物が落ちているのに気付いたのは。
「なぁに? コレ」
あーちゃんとカン君から手を離し、膝をついたままそれを拾う――と。
「ひゃぇっ!?」
なんとそれは、去年ふたりが入園したときに作りあげた、ぼろぼろの『ヴァイオリン型マスコット』だった。
「ぎゃぁああ! なっ……んなっ、な……!? 何これーー!!」
叫ばずにはいられない。
だって、これはもう、もう……ホントにもう、我ながら見るのがこっぱずかしいくらいに不出来なんだもの。
……うぅう。
まさか、こんなところでこんな物を発見するとは……。
あのときは、よくもまぁこんなヘタッピなものを、我が子に持たせようとしたものだわ。
こんなのがヴァイオリンだなんて言ったら、それこそ――。
ぱしっ
「……え?」
つまみあげたそれをゴミ箱へ持って行こうとしたら、横から伸びた手が、すごい勢いでそれを奪った。
「カン君……?」
予想外の人物に驚いて瞳を丸くすると、ぎゅうっと両手でそれを掴んだまま私を見つめた。
「え……っと……。あの、あのね? カン君。それ……捨てない?」
「…………」
「や、あのさ、だってね? なんかもう、すごい汚いし……それに、ヘタクソだし……」
何も言わず睨まれているのがいたたまれなくて、あたふたと身振り手振りに説得してみる。
だって、こんなの持ってたら、それこそカン君がヨソの子に何か言われるんじゃ……!
そればっかりが心配で、どうしても彼から素直にそれを引き渡してもらいたかった。
「ダメだよ。これ……大事だから」
「……え……?」
どくん、と鼓動が大きく鳴った。
と同時に、つぅんと鼻の奥が痛くなる。
「カン君……」
「捨てちゃダメ」
両手を口元に当て、零れそうになる涙を必死で堪える。
だけど、カン君はそんな私に気付いているのかいないのか、両手で握ったマスコットを、大事そうにヴァイオリンケースへとしまった。
「……っ……」
慌ててみんなに背を向け、ぐしぐしっと目元を拭う。
泣いちゃダメ。
そうよ。私は、お母さんなんだから。
そんな頻繁に、子どもの前で涙を見せていいわけないんだから。
「……ママ?」
しん、と静まったリビングに、あーちゃんの声が響いた。
「ん。なーに?」
ぎゅ、ぎゅっと目元を軽くマッサージしてから、にっこりと彼女に振り返る。
大丈夫。ママは泣いてない。
そんな気持ちを、瞳越しにしっかりと伝えてあげるように。
「ねぇ、ママー。ママはなにがいい?」
「え?」
私の顔を伺うかのように上目遣いだった彼女が、ぱっと表情を明るくさせてから、ぎゅうっと抱きついてきた。
「何って……あー。うーん、そうねぇ」
いくつか言葉が抜けてるからこそ、ちょっと理解するのに時間かかったけれど……。
でも、彼女の意図する言葉が、どうやら『あーちゃんは指揮者さん。カン君はパパと一緒。じゃあ、ママは?』という意味らしいと、ようやく気付いた。
「……そうねぇ……。んー……」
顎に手を当て、宙に視線を投げる。
私が将来――っていうか、まぁ、今なりたいもの。
……なりたいもの。
…………。
「あ」
ぴん、ときたものがひとつ。
頭の中に詰まっていたもやもやが一気に晴れるかのごとく、自分でもビックリするくらいきれいな答えをはじき出す。
でも、元々はこの答えじゃなきゃいけなかったのよね。
だって、これは私が彼女たちと同じ年だったころ、どうしてもなりたいと願った職業だったから。
「ママはね、カメラマンになる」
「……かめらまん……?」
「そ。カメラマンよ。ほら、じぃじのお仕事と一緒ね」
にっこり笑って彼女に首をかしげると、『ああー! おしゃしんね!』と手を叩いた。
「あーちゃんとカン君と……そして、パパ。3人のいい顔を写真で撮る、専属カメラマンになる!」
両手の親指と人さし指とで四角を作り、顔の前でアングルを取る真似をする。
すると、一瞬まばたきを見せたあーちゃんが、にぱぁっとそれはそれは嬉しそうに笑ってくれた。
「しゃしんー!! あーちゃんね、ママにしゃしんとってもらうの、すきー!」
「あら、ホント? よかったー」
「ね、ね! カンくんもだよね!」
「……え……?」
ぐいぐいと服を引っ張られて笑うと、服を掴んだままあーちゃんが私の陰からカン君を覗いた。
自然と私も彼を見つめる格好になり、カン君の言葉を待つ時間。
……ごくり、と小さく喉が鳴った。
表情を崩さずにヴァイオリンを肩に乗せている彼が、どんな反応をしてくれるのか。
それが楽しみであり、そしてほんの少しだけ、不安だったのかもしれない。
「うん」
「っ……!」
本当に小さな、たったひとこと。
だけど、こくんとうなずいてくれたのを見た瞬間、身体の奥底から、嬉しさとたまらない感情がみなぎってくるのがわかった。
「もぉ……っ……ふたりともぉー!」
「わぁっ! んもー、ママー」
「っ……ママ……!?」
「もーーふたりとも大好きー!!」
うるうるきたのを誤魔化すこともできず、そのままの勢いでふたりを腕に納める。
ああもうああもう。
本当に、どうしてこの子たちはこんなにも幸せにしてくれる力ばかりを秘めているんだろう。
ありがとう。
嬉しくて嬉しくて、笑顔以外になれそうにない。
だけど、カン君とあーちゃんそれぞれの顔を覗いてみると、はにかみながらも嬉しそうな顔でいてくれた。
「よーし! それじゃあ早速、アンサンブルを記念して1枚撮ろうかなーっ」
にっこり笑って、『はい!』とばかりに挙げた右手。
そんな私を、少しだけ呆れたように見ている綜に気付きはしたけれど……でも、否定されなかったからOKの証拠。
まずは1枚、いろんな意味での記念を自分の手で、今日この日に残そうと思った。
大切な家族との、一瞬を。
そして、これから先訪れるであろう多くの時間をたくさん収めていきたいという、決意染みたものを思い浮かべながら。
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