「……お前は、相変わらずだな」
「え……?」
訪れた沈黙のあと、綜が重いため息をついた。
「俺の前ではふたりが我慢してる、ってどうして思えないんだ?」
「……我慢?」
まっすぐに見つめられて、ぶつけられた言葉。
だけどそれは、まったく思ってもなかったもので。
……ううん。
むしろ、これまで私が言っていた言葉とは正反対だと言ってもいい。
だから、涙がまだ残る瞳も少し丸くなった。
「お前には本音も我侭も言える。……だが、俺にはそれが通らないってわかってるんだろう。だから、聞きわけのいい子としてお前の目には映るんじゃないのか?」
「……何、言って……」
「あのふたりは、俺に対していろいろなことを我慢しているはずなんだぞ。我侭を言うのは、一種の甘えだ。……俺にはそんなこと一度もない」
それは、お前もわかってるな?
足を組み、ソファへ深く腰かけた彼は縁に腕を乗せてから私を見た。
呆れているような、少し冷たい眼差し。
だけど、見下しているような凍てつくモノじゃない。
……そういえば綜は、どんなことを言うときも、決して咎める目だけはしなかった。
「俺の前では、どんなことでも我慢する。それは、言い換えれば十分なほど甘えられるお前という存在があるからだろう?」
「……え……」
穏やかな口調。
決して、私を責めるでもない言葉。
なんで……?
どうして、こんなに優しく言うんだろう。
だって私、あんなに情けないことばかり言ったんだよ?
自分でも、ひどいと自覚しているようなことを言ったのに。
……なのにどうして、綜は私を責めないんだろう。
まるで子どもを諭すかのように続けられる言葉が、なんだかひどく不思議だ。
「どこの家庭も、母親を中心に回るという言葉を知らないのか?」
「それはっ……! でも、それはあくまでもヨソの――」
「ウチも例外じゃない」
「っ……」
穏やかな、だけど凛とした響きのある揺らぎない声。
それは、綜が話している内容もそう。
……頭では、わかろうとしてる。
わかりたいと思う。
そうであってほしい、という願望も含めて。
でも、違う。そうじゃない。
綜が言ってるのは、それは所詮……今の何を言っても聞かないほど強く思い込んでいる私を、とりあえず落ち着かせようとする一時的なモノ。
……違うの。そうじゃないの。
結局はそんな考えを改められないから、首も縦には動かない。
「……そんなこと、ない」
「何?」
「違う。……違うよ。ウチの場合は、私なんかじゃなくて……綜を……父親を中心に回ってると思う」
横に動いた首。
そして、相変わらず落ちそうな涙。
……自分でもつらい。
だって、綜の言うことを『うんうん』って飲み込むことができれば、それで救われるってわかってるのに。
でも、ダメなの。そう思えない。
……ううん、思っちゃいけないんだ。
だって私は、綜にもあーちゃんにもカン君にも、何ひとつとしてヨソのお母さんがしてあげられている『母親らしいこと』で、満足な点を取れてないんだもん。
「綜の機嫌がよければ、ふたりだって嬉しそうだし、それにっ……それに、私が落ち込んでいたって……綜はもちろんだけど、ふたりも……変化なんて何もないし……」
別に、気遣ってほしいとか慰めてほしいとか、そういうことを言ってるんじゃない。
そうじゃないけれど、でも、私が機嫌よかろうと悪かろうと、あのふたりには何も影響ない。
けど、綜の場合は違う。
綜の機嫌がよければ、ふたりもにこにこ笑ってずっとそばにくっ付いている。
でも、綜の機嫌があまりよくないときは、ふたりともすぐに私の所へ来て『パパ、何かあったの?』と泣きそうな顔するんだから。
「それじゃあ聞くが」
「え……?」
「あのふたりはお前に、一度でもあのバッグを嫌だと言ったことがあるのか?」
「っ……」
まっすぐに射るような瞳を向けられ、思わずごくっと喉が鳴った。
「弁当もそうだ。毎日、帰って来て何かしら文句を言うのか?」
「それは……っ」
否定、できないこと。
だからこそ、これまでと違って力いっぱい反論ができない。
「だけどっ……だけど! だからこそ、かわいそうなの!! あのふたりは、満足じゃなくても何も言わないからっ……! つらくて……本当は嫌だって思ってても、あの子たちは我慢して何も――」
「お前がほかの母親より劣ってるとも言ったが、じゃあふたりはお前を見下してるか?」
「それはっ……!」
それは、だから。
そんな言葉しか出てこない私に、綜は珍しく矢継ぎ早で言葉を続けた。
どれもこれも、『そうだ』と肯定できないことばかりを。
納得できないわけじゃないし、わからないことでもない。
だけど……だけどそれは全部、どれもこれもふたりが我慢して何も言ってこないからだと思ってしまっている私には、素直にうなずけるはずなかった。
「お前よりも俺のほうが必要とされてるだと? じゃあ聞くが、お前は本当に自分の立場をわかって言ってるんだろうな」
「……え……?」
「よく思い返してみろ。あのふたりは結局、どんなに俺の所へ来ようとも最終的にはお前の所に行くだろうが」
違うか?
すぅっと細まった瞳ごしに、そう、直接言われた気がした。
大きく喉が鳴り、同時に鼓動が身体に響く。
……だけど……だって。
それでもまだ、私は首を横に振った。
「そんなこと……そんなこと、ないっ……! だって、ふたりとも綜と居るときはものすごく嬉しそうで……」
「まだわからないのか?」
「っ……」
少しだけ、呆れたような。
そんな声色で、びくっと肩が震えた。
端から見れば、きっと意地になってる駄々っ子と一緒に映るだろう。
……それは、わかってる。
だけど、沢山の言葉を貰ってもなお、やっぱり『うん』と言えるだけの強いモノがない。
「母親と子どもの繋がりというのは、ほかのどんな人間も入り込む余地がないモノなんじゃないのか?」
「っ……」
「9ヶ月間も同じ身体で過ごしたんだろう? その絆が、弱く切れ易いモノであるはずないだろうが」
まっすぐに見つめられ、自分が揺れているのがわかる。
繋がり。絆。
……そんなこと言われたら、困る。
だって、それは否定できない絶対のことで。
母親と子どもだからこそ感じる特別なモノがないとは言えないから。
……だけど。
だからこそ、それほど私を信じてくれている彼らに対して、何ひとつとして返せていない自分が、歯がゆくて申し訳ないのに。
「確かにそれは、そうだと思う。……特別って、あると思う。だけど、だからこそだよ……! だからこそ、ふたりに対して私が不甲斐ないのが悔しくて……何も文句を言ってくれないあのふたりが、かわいそうで……っ……!」
「自分が必要とされてないとでも思ってるのか?」
「……だからそう……言って……」
「本当に、俺さえ居ればふたりが満足だとでも思ってるのか?」
「………それは……」
さっきまで、散々私が口にした言葉。
綜だけが必要で、私なんて居なくてもいい。
自分で言っていたときは、こんな想いにまでならなかった。
……だけど……違う。
面と向かって言われて初めて、この言葉がどれほど強くてキツいことなのかを実感した。
心の底ではいつだって、『必要としてほしい』と願う人に言われるからこそ。
「神無や天音の具合が悪いとき。誰の名前を呼ぶ?」
「っ……」
「求めるのは誰のことだ?」
「……それは……っ……」
「抱きしめてもらおうとすがりつくのは、誰に対してだ」
「っ……」
「俺じゃないだろう?」
『違う』
これまで何度も何度も頭に浮かんで、実際に口にした言葉だけど今は、口にすることができなかった。
「それは……っ……」
綜がたとえに挙げたとき、選ばれるのは紛れもなく私。
でも、私はずっと、『そういうときだけ私に来る』としか思えていなかった。
普段は、いつも一緒に居る私のことなんて見向きもしないのに、具合が悪いときだけ私のところに来る……って。
ずっとずっと、頭のどこかでは勝手にヤキモチをやいていた。
「どんなに俺がふたりと遊んで惹き付けていようとも、最終的にふたりが選ぶのは、母親のお前なんだぞ」
母親の私。
静かに、諭されるように言われた言葉で、また涙が落ちた。
わからないわけじゃない。
そうじゃなくて、ただ、私自身がわかろうとしなかっただけ。
……情けなくて当然だ。
そうであっちゃいけないのに。
だって私は、紛れもなくあのふたりのお母さんだからこそ、しゃんと背を伸ばして、いつだってしっかりしてなくちゃいけなかったのに。
結局は、これじゃ昔と何ひとつ変わってないじゃない。
弱くて、自分のことすらままならない、幼いころの自分と。
「お前は何も知らないんだな」
「……え……?」
「神無と天音が、俺にいつもなんて言ってるか知らないだろう」
小さなため息のあとで、静かに始まった言葉。
涙を不器用に拭ってから彼を見上げると、少しだけ眼差しが柔らかかった。
「お前の機嫌が悪いとき。お前が落ち込んでるとき。俺の前でふたりがなんて言ってるか……お前は知らないだろう?」
わかってないのはお前だけだ。
そう言って、綜は一度瞳を伏せた。
「何も知らないクセに、軽々しく否定を口にするな」
「……え……?」
綜がソファへもたれると、顎で向こうを示した。
テレビのちょうど前あたり。
と同時に、彼に向いていた身体がそちらへ向く。
「お前は俺の伴侶で、ふたりの母親なんだ。そのことで誰に文句言われる筋合いなどないだろうが」
「……それは……」
「文句を言っていいのは、俺と彼らだけなんだぞ」
「っ……え?」
これまでなかった表現で目を丸くすると、綜は『そういう話をする前に、もっとよく周りを見ろ』と小さくため息をついた。
「っ……ふたりとも! え、いつから……」
綜が顎だけで示した方向を見ると、これまで死角になっていた部屋の入り口に、ふたりがぎゅうっと手を握り合って立っていた。
いるはずがない、って思ってた。
だからこそ、ここまで本音をぶちまけてしまった。
……聞かれた。
今にも泣きそうな瞳をまっすぐ向けられて、どうしていいか一瞬判断に迷った。
「か、ん君……あーちゃ……」
ゆっくりと立ち上がり、ふたりを見つめたまま1歩踏み出す。
だけどふたりは私よりも早く、手を繋いだまま目の前に走って来た。
「ママをいじめないで」
「……っ……!」
精一杯、泣くのを我慢しているような顔のふたりは、私の目の前に立つと、綜へ向き直った。
「パパ……ママとケンカしないで」
「……カン君……」
「ママのこと怒らないであげて!」
まるで私を守るかのように、目の前で両手を広げた彼の後ろ姿を見て、『なんで?』と思うよりも先に涙が溢れた。
「パパぁ……っ! ケンカしないで! ママのこと、ゆるしてあげて!!」
「……あーちゃ……っ」
「いつも、ケンカしちゃダメだってパパいうでしょ? だからっ……だから、パパとママもケンカしないで……!」
カン君のすぐ隣で両手を広げた彼女も、綜を向いてしっかりと声をあげた。
「ケンカしちゃっ……ヤダよぉ……!」
「……あーちゃん………」
「ぅえ……ふぇーん!!」
涙声の彼女と、何も言わないカン君と。
小さな肩を震わせているのを見ていたら、涙が一層こみ上げてきた。
「っ……!」
私のせいだ。
なんで、あんな馬鹿なことを考えたんだろう。
いったい、いつからふたりが話を聞いていたのかはわからない。
……もしかしたら、『わからない』ような内容だったかもしれない。
だけど、母親と子どもは不思議なもので、伝わることがたくさんある。
いいことも……そして、悪いことも。
だからこそ、普段とはまったく違う雰囲気のせいで、ふたりをここまで追い詰めてしまったんだろう。
私のせいだ。
そう思ったら、いたたまれなさで言葉に詰まった。
「早く誤解を解いてやれ」
「……え……?」
静かな声で綜を見ると、小さくため息をついてから両腕を組んだ。
「これじゃ、一方的に俺が悪者だ」
「……あ……」
そこで初めて、綜が小さく笑ったように見えた。
少しだけ困ったような……そんな顔で。
その顔を見て、ようやく私自身にも笑みが浮かぶ。
「ごめんっ!! ごめんね、ふたりとも!!」
膝を折ってから目の前のふたりを抱きしめると、思った以上に体に力が入っていた。
「ごめん……っ! ごめんね……」
後ろからだから、今、ふたりがどんな顔をしているかはわからない。
でも、雰囲気が明らかに変わったのはわかる。
「違うの。違うんだよ、パパとママ、ケンカしてないよ?」
「……ほんと……?」
「もちろん! ケンカするはずないじゃない」
膝で立っている私に、ふたりがようやく振り向いた。
その顔は、やっぱり幼い子どもそのもので。
いつもは我慢していることが多いのか表情を見せないカン君も、頬に涙の跡があった。
ああそうだ。そうだよ。
この子は、いつも我慢しているんだ。
「ごめんね、ふたりとも。怖かったよね?」
ポケットからハンドタオルを取り出して、ふたりの涙を拭う。
そのとき、一緒にあーちゃんの鼻も拭ってやると、まだしゃくりの残る肩を震わせながら、カン君と顔を見合わせた。
「あーちゃんね、ママのおべんとうすき」
「……え……」
「僕も好きだよ」
「っ……ふたりとも……!」
ぎゅうっと繋いだ手を離さないふたりが、いつしか私の服を握っていた。
……これは、私が言わせてしまった、のかもしれない。
だから、子どもがかわいそうだと言われても、何も言うことはできない。
けど……素直に嬉しかった。
だって、こんなふうに言ってくれたことなんて、これまで一度もなかったんだから。
特にカン君の場合は、本当の本当に、今が初めてだ。
「パパのことも、ママのことも、大好きだもん」
「っ……!」
両手を繋いで輪を描くように広がったふたりが、私と綜を交互に見比べた。
その顔は、これまでの、思い詰めて今にも泣きそうなモノではなくて。
むしろ、あちらにいる綜を、招き入れようとする懇願にも似た眼差しだった。
「うえーん、パパぁ」
「……パパ……っ」
「心配したんだな。大丈夫だよ、ママは少し不安になっただけだから」
ふたりを見て笑った綜が、両手を伸ばしてふたりを抱きしめた。
「っ……え……!」
ーーかと思いきや、今度は私を引き寄せた。
「ほら。喧嘩してないだろう?」
これまで、見たこともないような優しい顔で綜が笑った。
それはまるで、子どもを落ち着かせるためだけのものなんかじゃ、もちろんなくて。
裏に隠れている綜その人の優しさが、初めて表に現れたかのようにも思えた。恒例の隠しは最下部アイコン横に。
「……うんっ……!」
彼を見てから顔を見合わせたふたりは、ちょっぴり涙が残っていたけれど、いつものように嬉しそうに笑った。
おまけ
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