「ねぇ、パパ。わたしも、じょうずだよー?」
「ん? あぁ、本当だ。丁寧に描けたな」
「えへへー。ほめられたー」
 ようやく帰り着いた我が家。
 そのリビングでは、ソファに座った綜を両側から挟み込むかのように、ツインズが座っていた。
「…………」
 ……へんなのよ、自分が。
 なんだか、その光景を見ていたら、あぁ私が入り込む余地はないなぁ、なんて思っちゃったんだもん。
 ソファはそんなに大きくないから、物理的に座れないというのももちろんある。
 ……だけど、そうじゃないんだよね。
 もっと違う、見えない何かによって遠ざけられているかのような、そんなモノを感じた。
「ねぇ、ママー」
「……え?」
 天気がよかったこともあって、もう一度洗濯でもしようかと洗面所へ向かったとき。
 見ると、あーちゃんが手を振りながら満面の笑みで『おいでおいで』をしていた。
「ママも、こっちおいでよー」
「あ、えっと……」
 でも、返事をしようと口を開いた瞬間、カン君と目が合う。
 何を語るでもないその瞳を見て、開きかけた唇が閉じると同時に、ごくっと喉も鳴った。
「あー……ううん。ママは、いいや」
「えー? そうなの?」
「……ん」
 弱々しいと言われるかもしれない。
 ああそうか、こういう顔をしてるから、あーちゃんが絵に描いたんだ。
「ママほら、お仕事あるから!」
 ぱちん、と手を叩いてから声をあげ、3人に背を向けて離れる。
 ……なんか変なんだよね。
 自分自身が、妙にいちいち小さなことに突っかかってるっていうのは、わかってるんだけど……でも一度そう自覚してしまった以上、簡単に違うなんて否定することができなくて。
「……ちっちゃい人間だなぁ……」
 遠くから聞こえてくる楽しそうな声を聴きながら、振り返ることはできなかった。

「……あれ?」
 多分、10分も経ってないはず。
 だけど、リビングに戻ってみたら、そこには綜しかなかった。
「ふたりは?」
 珍しくテレビを見たままの彼に声をかけると、一瞬視線をこちらに向けたものの、すぐにまたテレビへ。
 まぁ、こんな姿はいつもなので、別に特別何かを思うようなこともない。
 さっきとは違って、空いている彼の隣へ腰を下ろしてから同じようにテレビを見つめると、わずかに綜が動いた。
「部屋にいるだろう」
 静かな声が耳に入ったのは、すぐのこと。
 だけど、認識するまでに少し時間がかかった気がする。
 なんかもう、ちゃんと頭が働いてないような気がするのよね。
「……そっか」
 でもそれは、今に始まったことなんかじゃない。
 ずっと、もっと前。
 多分、幼稚園であんなことを考えてしまってからだろう。
「…………」
 さほど大きいわけじゃない、テレビの音。
 流れているのは、普通のニュース。
 しっかりとぶれることなく見ている画面なのに、なぜか内容は一向に頭へ入ってこなかった。
 もしかしたら、子どもたちの姿が見えなかったときから、こうしようと決めていたからかもしれない。
「……ねぇ、綜」
 返事がないのは、百も承知。
 だから、私もテレビを見たまま口を開く。
 別に、返事がないからって聞いてないわけじゃないんだよね。
 それは、ずっと昔から知ってるから、そのまま言葉をつむぐ。

「綜は、私が妊娠しなかったら……結婚するつもりはなかった?」

 別に、何か根拠があるわけでもなければ、そんなことを始終考えていた訳でもない。
 こんなことを思ったのは、今が初めて。
 だけど、なぜかこれまでずっと思い詰めていたかのような口調で言葉が出てきた。
「ヴァイオリニストでもピアニストでもない。別に、何か特別な能力があるわけでもないじゃない? 私って。……そればかりか、無器用で、取り柄もなくて……」
 テレビから視線が外れ、揃えられたつま先に視線が落ちる。
 頭に浮かぶのは、あの、幼稚園での出来事。
 保護者会と称された集まりの最中、ずっとずっと私の後ろでやむことなく続けられていたアレだ。

 どうして、こんな普通の人がこんな有名人と一緒にいるの?

 まるで、そう言われているような気がして、嫌だった。
 つらかった。
 だって、面と向かって直接言われたって、私には何も言い返すことができないんだもん。
 図星なんだもん。
 自分には何も取り得がない。
 いい母親でもなければ、いい妻でもない。
 いつまで経っても成長することがなくて、同じ失敗をすることもあるから、そのたびに悔しくて歯がゆくなる。

 なんで私が、綜の隣にいられるんだろう。
 なんで私が、あの子たちの母親になれたんだろう。

 ただの、幼馴染だからでしょ?
 偶然、授かったからでしょ?
 そんな言葉を誰かから投げつけられる日が来るような気がして、正直怖かった。
「……カン君、すごく嬉しそうだった」
 組み合わせた両手を見つめたまま、言葉が漏れる。
 教室での、あの瞬間。
 綜に頭を撫でられ、褒められたときに見せた、まさに子どもらしい嬉しそうな笑顔。
 私と居るときには、まずありえないことだ。
 ……でも、綜と居るときは違う。
 私と居るときと違って、カン君は本当に子どもらしい自然な表情を惜しげもなく見せている。
 あんなに嬉しそうなカン君は、いつだって私じゃなくて、綜に褒められたときだけ。
 だから私は、嬉しそうな彼の表情を、間接的に見せてもらうことしかできなかった。
 だって、向けて貰えないんだもん。
 私には一度たりとも。
 ……どんなに一瞬でも。
 私と目が合った瞬間、ふっと表情が翳る。
 それが、怖くてすごくつらい。

 彼の表情が変わる瞬間を、何度か味わっているから。

「……もしかして私、必要ないんじゃないかなって……ちょっと思ったの」
 何を言っても、ちゃんと聞いてくれない子どもたちだけど、綜が言えば一度で済む。
 約束も守るし、本当にイイ子だ。
 例えどんなに嫌いなものでも、綜が促せば嫌な顔ひとつせずに食べる。
 例えどんなに遊びに夢中でも、綜が言えば手を止める。
 片付けもするし、お風呂にも入るし。
 ……なんでも、本当にきちんとするんだよね。私の声かけとは、全然違って。
 綜には絶対的な何かがあるけれど、でも――私にはない。
「なんか、私って……もしかして子どもにとっても駄目な母親って思われてるんじゃないかな、って……」
 言葉に表すと、予想以上に身体へ負担が来た。
 自嘲気味な笑みが浮かび、重ねた両手へさらに力が篭る。
 思い出すのは、去年の入園間際のあのころ。
 いろいろ揃えなきゃいけない物の中に、『手提げのバッグを手作りで』とあった。
 私はもう、それこそ小学生のころから縫い物というのが、ものすごく苦手で。
 あのときは、型紙を取るだけで2日もかかった。
 どうすればいい? ってお母さんに聞いたら、『あら、簡単よ。四角に切ってただ縫うだけだもの』と笑われた。
 ……だけど、私にはまったく笑えない。
 四角に切って、ただ縫うだけ……?
 とんでもない! そんなわけないじゃない!!
 余計なことを吹き込まれて、かえってものすごく困った。
 余計にこんがらがって、結局縫い間違えたり断ち切りを間違えたりして……試作品だけで、3つも作った気がする。
 朝から晩までミシンを前に過ごした時間は、いったいどれほどだっただろう。
 ごはんもロクに食べないで、ひたすらミシンと布とを前に奮闘していたあの日々。
 思えばあのときから、私の『母親としての自信』というモノが揺らぎ始めたんだ。
 ……きっと、ほかの子のお母さん方は、こんなのぱぱっと作っちゃうんだろうな。
 かわいいアップリケをしたりとか、どこにも売ってないような刺繍を施したりとか。
 お弁当だって、毎日かわいいお弁当を作るんだろう。
 キャラクターを象ったおにぎりだったり、おかずも色とりどりで見た目だけじゃなく、栄養も満点な。
「…………」
 でも、ウチは……ううん、私の作るのは違う。
 ごくごく普通の手提げと言えればいいけれど、見た目はやっぱりちょっと……ぼろっとした感じが漂ってる。
 お弁当だってそうだ。
 何時間もかけることができないから、どうしても大人が持っていくような……あんまり子どもっぽくない、味気ないものばかり。
 いったい、どうやったらかわいいお弁当が作れるんだろう。
 どうしたら、もっと上手にかわいい手作りの物を持たせてやれるんだろう。
 そっち系の本を読み漁ったりしたけれど、やっぱり私の腕が上がることはなかった。
「……私なんかが母親で……きっと、ふたりも満足してないと思うの」
 自分でも考えてしまう。
 私には、何も取柄がない。
 ――だけど。
「でも綜は、ふたりにとって……絶対に必要な人」
 そこでようやく、彼へ視線が上がった。
 でも、そこにある表情は、いつもと変わらない。
 ただただ、少し冷たいような眼差しで、何も言わずに唇を結んでいるだけ。
 ……逆に、今ここで何か言われたら……きっと立ち直れなくなると思うけれど。
「…………」
 もしかしたら、だから綜は敢えて口を開かなかったのかもしれない。
 ううん。
 それとも、こんなことを言い出した私に、呆れて何かを言う気すら起きないのかも。
「綜は……」
 綜は違う。
 明らかに、ふたりにとって絶対に必要な父親だ。
 だって、あの子たちは私と居るときと綜と居るときとじゃ、全然表情が違うんだもん。
 すごく嬉しそうだし、すごく楽しそうだし。
 そりゃあ、たまに家へ帰って来れないときがあるから、そういうのがあって……かもしれない。
 でも、そんなふうにはやっぱり思えなくて。
 それに、むしろ綜が家にいないときは本当に本当に寂しそうで、何度も『パパ、いつ帰ってくるの?』と私に聞いてくるから。

 私は、必要なんだろうか。

 あのふたりの自分に対する態度と、自分があの子たちにしてやれてない面を差し引いてみたら、やっぱりそう思うのは当然だろう。
 ……だって、綜と違って私は、あの子たちを満足させてあげられるほどの何かをしてやれてないもん。
「ふたりはね、綜と居るときが1番楽しいんだよ」
 再び綜から視線が逸れ、膝の上で組んだままの両手に落ちた。
 いつだって、そうだ。
 あーちゃんもカン君も、私じゃなくて綜を選ぶ。
 ……どんなときだって。
 私と綜が居れば、必ずふたりは綜へ向かう。
「あのふたり、一度で綜の言うこと聞くでしょう? ……あんな素直なところ、私には見せてくれないんだよ?」
 それこそ全然違う、と言ってもいいほどあきらかな違い。
 私の前にいるときのふたりは、あんなに素直じゃないし、あんなに楽しそうな顔だって見せてくれない。
 でも、綜と居るときは……全然違うの。
 幸せそうで、すごく特別。
 端から見ていてもそう感じるほど強い感情を、ふたりは表に出している。
「……私のときとは、反応も全然違うし」
 瞳を伏せた途端、まぶたにあのカン君の笑顔が浮かんだ。
 かわいらしくて、すごく嬉しそうな、心の底からの笑み。
 あんな顔をするのは、綜と居るときだけだ。
「きっと、ふたりにとっては……私がいつもそばにいるより、綜がそばに居るほうが幸せなんだよ」
 もしも叶うのであれば――私が外へ働きに出て、綜が家に居るほうがいいに違いない。
 ……もちろん稼ぎが全然違うから、綜が首を縦に振ることはないかもしれないけれど……。
 でも、子どものことを考えたら、それがベストな形だろう。
 綜と……ううん。
 大好きなパパと居られれば、それだけであの子たちは幸せなはず。
 楽しくて、嬉しくて。
 毎日、笑顔が絶えない日々を送れるに決まってる。
「入園のとき、エプロンとかバッグとか、手作りしなきゃいけなくて。……あれ、すごく大変だった」
 ほかのお母さんならば、いとも容易くできること。
 だから、私だってできることならもっと上手に作ってあげたかった。
 自分が幼稚園生のとき、自分の好きな柄で作ってもらえたバッグが本当に嬉しかったから。
 お母さんが作ってくれたバッグと、お父さんが付けてくれた名前と。
 どれもこれもが愛情たっぷりという感じがして、すごく自慢だった。
 ……だけど、それは上手であればこその話。
 ぼろぼろで、型紙を何枚も買って何度も作り直して……その挙句にできた『まともなほう』だと思えるバッグなんかじゃ……子どもにも愛情が伝わるはずない。
 ほかの子たちに、何か言われてないだろうか。
 私のせいで、惨めな思いをしてないだろうか。
 そう思ったら、不憫で、ものすごく申し訳なくてたまらなかった。

 私なんかが、母親であるばかりに。

 うちの子たちが、ほかの子に対して引け目があるんじゃないかと思うといたたまれなくなる。
 だって、まだ4歳なんだよ?
 そんなときから、ほかの子と比べて『なんでウチのママは……』なんて思いをさせてしまっている。
 どれもこれも、私が母親であるせいで。
 『ごめんね』という言葉を、いったい何度彼らに直接言っただろうか。
「幼稚園に行くたび、思うの。ほかのお母さんはすごく丁寧で、きちんと作ってるのに。……なのに、うちの子だけぼろぼろで……。本当に申し訳なくて。……ごめんって、何度思っても足りない」
 ぎゅうっと握り締めた両手が、わずかに霞んで見えた。
 ……泣いちゃダメだってわかってる。
 だけど、悔しくて、情けなくて……涙が浮かんでくる。
 だって私、自分が小さいときにしてもらったような母親らしいことを、自分の子には何ひとつしてあげられてないんだもん。
「ほかのお母さんみたいにお弁当をかわいく作れないし、綜みたいに特別な何かを持ってるわけでもない。平凡で、本当に普通で。……むしろ、劣ってるじゃない」
 どうしてもっと、努力してこなかったんだろう。
 なんでもっと、がんばって生きてこなかったんだろう。
「……ふたりが、かわいそう……っ」
 ぽたりと涙が零れて、同時に頬を拭っていた。
 かわいそうだ。
 私なんかが母親で、本当に……かわいそうだ。
 ごめんね。ふたりとも。
 こんなふうにしか思えない自分が、心底情けなくて、みじめだと思った。


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