「さぁ、みんなー! 準備はできましたかー?」
「はあーい」
「みんなも知ってると思うけれど、今日は、みんなのおうちの人が来てくれています」
「きゃーっ」
「ええーっ」
なんてお約束な展開ですか。
それほど教室も広いわけではないので、当然それぞれの親が入れば、満杯状態。
だからこそ、入るときにウチのふたりの子ともバッチリ目が合っただけじゃなく、さらに手まで振られ済み。
もう少し時間があったら、多分ここに駆けてまで話をしにきたに違いない。
……特に、あーちゃんは間違いなく。
「いいですかぁ? それでは、今日はみんなで、おうちの人の絵を描きたいと思います」
「はぁーい」
教室の前方にある、小さな黒板を背ににっこりと笑った先生を見ながら、みんなお行儀よく手を挙げた。
それにしても、みんな元気な声ねー。
とはいえ、はたしてウチの息子が満面の笑みでやってるかどうかは、怪しいけど。
カン君はこっちに背中を向けているから、表情はわからない。
うーん。あの子、幼稚園でにこにこぉっと笑うことってあるのかしら。
おかーさん、友達がちゃんとできてるのか心配よ……。
「では……ご家族のみなさんは、どうぞお子さんのそばへ行ってあげてください」
……ををっ。
なんていいタイミングなのかしら。
ちょうど今、『あの息子の顔、始終見てたらいつか変わるかも』って思ってたのよ!
ナイス、先生!!
先生の声を合図に、教室の周りをぐるりと囲んでいた大人たちが、幼い我が子の元へ散っていった。
ちなみに、ウチの子どもたちは席が若干離れてたりする。
4人がけテーブル1台間に挟んだ、あっちとこっち。
綜がカン君に近かったのもあって、私は自分に近いあーちゃんへ、足が向いた。
「ねぇねぇ、あーちゃん」
「んー? なにー?」
しゃがんで目線を合わせ、手元の画用紙を覗き込んでみる。
ほかの子はすでにクレヨンを走らせているんだけれど、彼女だけは未だにクレヨンを握り締めたまま描き始めようとはしなかった。
「描かないの?」
「でっさんちゅう」
「で……デッサン……?」
「うん、そう。デッサン」
聞き直したら戻ったけれど、一瞬、『デッサン』のイントネーションがおかしかったのは気のせいかしら。
それにしても、この子はいったい何をしようとしているんだろう。
クレヨンを縦に持ち、その手を目の前の男の子へ伸ばしたまま、片目を閉じている。
しかも、赤のクレヨンですけど、それ。
「……うーん……」
天音さん。
うーん、じゃないわよ。うーん、じゃ。
呻ってる場合じゃないから、本当に!
周りの子はどんどん描き始めているだけじゃなく、端から見ていても『あ。ママかな?』って思えるようなキャラを描き上げ始めた子までいる。
なのに、この子だけは相変わらず『デッサン』中で。
……ていうか、デッサンってそもそも紙に直接するものなんじゃ……。
どこで聞きかじったのか知らないけれど、画家気取りの愛娘を前に軽く頭痛がする。
「……あ」
そんな、我が道を突き進む娘から目を離して、反対の列に座るカン君を見ると、例に漏れず彼はすでに画用紙へきれいな線を描いていた。
ただの丸だけじゃない。
そこにはちゃんと髪らしき線もあったし、ついでに言うと……もしかしてアレは、アレなんだろうか。
遠目からでもわかるような、ラインを描かれてるソレ。
しかも、1番最初に描かれたらしきその人物が持っているんだから、間違いない。
ヴァイオリン。
アレは、間違いなく綜とヴァイオリンに違いない。
今からはもう、随分前のこと。
綜がヴァイオリンを弾いているのを、あるときから、カン君がじぃーっと見るようになった。
思えば、それから……じゃないかな。
何時間も続く練習中にも、同じ部屋に入ってひたすら彼の音を聞くようになったんだよね。
多分、赤ちゃんのころから聞いてたから、興味を持ったというか、聞き馴染みのある音と感じたのかはわからないけれど。
そんなある日、普段は買物に行って『あれが欲しい』なんて言わない彼が、クリスマスが近くなった日にぽつりと言ったのだ。
『パパ、ヴァイオリン欲しい』
って。
夕食を食べ終えたとき、そんな決意染みた言葉を言われて、綜も少し驚いていた。
でも、本当に真剣だった。
だから、綜もひとこと『わかった』って頭を撫でてたっけ。
その数日後、綜は幼いころ自分が使っていた本物のヴァイオリンを手に、帰ってきた。
あの日を境に、カン君はどんなおもちゃや本よりも、そのヴァイオリンに夢中になった。
……ううん。
アレはもう、夢中なんてレベルじゃない。
どっちかって言ったら、虜って言ったほうが正しいかも。
それくらい、ヴァイオリンを本当に大切にしたし、片ときも離さず大事に持つようになった。
それはそれは誇らしげな顔で。
「ママー、ねぇちょっと。きいてる?」
「へ?」
「んもー。ちゃんときいてなきゃ、ダメでしょ?」
テーブルに頬杖をつくようなことはなかったけれど、カン君を見たまま物思いに耽っていたのは事実。
どうやら、あーちゃんが何か言ってたらしいんだけど……どうしよう。
ごめん、まったく聞いてなかったわ。
「えっと……ごめんなさい」
「じゃあ、ゆるしてあげます」
えっへん、と胸を張った彼女が、一瞬偉い画家のように思えた。
うーん、ほんと面白いなぁ。
子どもって、いったいどこからこういう仕草を得るんだろう。
「あらっ。いつの間に」
さっきまでは、真っ白で点ひとつ描かれてなかった、彼女にとってのキャンバスだったけど、いつの間にやら人と思しき固体が、ふたつ描かれていた。
「えー? ママ、みてなかったの?」
「ぅぎくっ」
「もー、しょうがないなぁ。あーちゃん、チョーがんばったんだよ?」
「ちょー、とか言わないの。……アンタは武道家か」
女子高生風の『ちょー』ではなくて、どっちかって言ったら『アチョー』のチョー。
ひときわ高く出た上にものすごく面白い顔で言われて、ついつい吹き出していた。
……うん。
それにしても、なかなかよく描けてるじゃない?
美術とか図工って類のモノがあんまり芳しい成績じゃなかった私の娘とは、とても思えない。
「ねぇねぇ、あーちゃん。これは誰?」
「パパー」
「ほぉ。それじゃ、こっちは?」
「ママー」
「……ま、ママこっちかぁ」
左から順番に描かれている人物を指でさすと、そんな答えが返ってきた。
ある程度予想していたとはいえ、実際に言われると結構……切ないわね。
左側に描かれている大きな人。
髪も短いし、手にはヴァイオリン。
だから、多分綜だとは思った。
……けど、それ以上に目に付いたのは、しっかりと描かれているとこぼれるような笑顔。
「…………」
そっか。子どもたちには、こういう顔するもんね。
私が抱いている綜のイメージとは、まったく違う。
でも、彼女の絵に表れた以上、これは紛うことなき真実だ。
「……うーん。ママかぁ」
一方の、『ママ』と言われた人物は、大きさこそパパとほとんど変わらないものの、表情が……ね。
ついでに、なんですか。その真っ黒い物体が乗ったお皿は。
「えーと、このお皿には何が乗ってるの?」
「こげたトースト」
「え」
ちーん。
にっこりと笑って娘が言い放った途端、同テーブルのママたちが一斉に噴き出した。
「こ……こげっ……焦げたトースト!?」
「うん。ほらぁ、ママこのまえトーストこがしたでしょ? だから、くろいの」
「……何も、そんなところまで再現してくれなくても……」
はきはきとお答えくれる娘に、がっくりと脱力。
見ると、妃稀ちゃんママが、俯きながらものすごく肩を震わせてるのが見えた。
しかも、それに気付いたパパさんは、笑いながら必死に『ウチはもっと頻度多いから』なんてフォローしてくれるけれど、多分フォローになってないと思う。
あーうー。
なんだかなぁ……切なさ炸裂だわ。
「んで? それじゃあ、なんでママはこんな情けない顔なの?」
眉とか垂れてるし。
じぃいっと眉を寄せて彼女を見るものの、思いやりの『お』の字もないようなケロっとした顔で、はっきりとこう告げた。
「え? だって、ママ。いつもこんなかおしてるよ?」
「なっ……!?」
「えー? しらなかったのー?」
こんなだよ、こんな。
そう言って、ご丁寧にちっこい両手でもって、みにょーんと顔を横に引っ張ってまで見せてくれた。
こ……言葉も出てこないわ。
ひくついた表情が元に戻ることはなく、ついでに、1度落ちたテンションがこの会話で復活するはずもなく。
……相変わらず、妃稀ちゃんのママはえらく苦しそうだし。
そのうち、テーブルをばしばし叩き出すんじゃないかと思うと、ちょっと切ない。
「……あ、そうですか」
しょんぼりと肩を落としたまま、もう、何か言えるだけの元気はない。
そんな私を見て不思議そうな顔をする娘にも、ただただ首を横に振るだけ。
……はぁーあ。
そうかそうか。私って、いつもそんな顔してるか……。
まるで、今にも泣いてしまいそうなほどの、情けない顔。
だけど、私は別に、子どもたちの前で泣いたこともなければ、そこまでガックリと落ち込んだことだってなかったのに。
……そりゃまぁ、パンを焦がしたときは、多分情けない顔してたんだろうけど。
子どもって、ホントに一瞬を見逃したりしないのね。
手厳しいチェッカーがいるんだなぁと、改めて実感した。
「…………」
そういえば、カン君はどんな絵を描いたんだろう。
あーちゃんは、色とりどりというにふさわしいほど、沢山の色を使ってこってこての絵を描いてくれた。
団欒、になるのかしらね。コレも一応。
大きなテーブルに行儀よく並んでいる私以外の3人は、みんな笑顔。
……楽しそうに描かれてるってことは、楽しいって思ってくれてる証拠か。
とりあえず、そうプラスに考えたらちょっとだけ笑みが浮かんだ。
「っ……」
そのまま、カン君へと視線を向けたとき、思わず自分でもびっくりするほどハッキリ表情が固まった。
綜が、笑いかけている。
……ううん。それは別に、何も珍しいことなんてない。
だって、いつでも見ることができる光景だから。
…………でも、そうじゃない。
彼じゃなくて、カン君のほう。
彼はまるで、私がコレまで一度も見せてもらったことのないような、そんな柔らかい顔をしていた。
「よく描けたな」
ざわつく教室だから、綜の言葉は直接は聞こえない。
だけどその口元は、まるでそう言ったかのようにゆっくりと動いた。
そして、言葉を向けられた、カン君は、本当に本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて、『うん』と照れくさそうにうなずいた。
「…………」
時が、止まったみたいな感じ。
音も何もかもが消え、食い入るようにふたりを見つめてしまう。
正直、この光景を見て最初に浮かんだことは――もしかしたら、母親として失格かもしれない。
だけど、本当の本当の私の気持ちから出た、ひとことだった。
なんで……?
まず、そう思った。
なんで、そんなに嬉しそうなの?
なんで、そんな顔をしているの?
なんで……私じゃないの? って。
「…………」
笑顔を浮かべたまま綜と話をしているカン君を見ていたら、口に出してしまいそうだった。
それが恐くて、見てはいけないものを見たかのように、視線が落ちる。
なんで……なんであんな顔…………私、見せてもらったことないのに。
「…………」
どくどくと脈が速くなり、同時に、ぎゅっと両手を強く握り締める。
やきもち、って言われたら違うとは言えない。
……でも、そんなんじゃない。
もっと、もっともっとずっとどす黒い感情が、私の中で渦巻いていた。
「ママ?」
「……え……?」
俯いていた視線が再び上がったのは、珍しく、遠慮がちに顔を覗き込んできたあーちゃんのお陰だった。
ちょっとだけ、まるでつまむみたいに服の袖を引いて、伺うように見上げている。
「あ……。えっと……ごめん。なぁに?」
「どこかいたいの?」
「っ……ううん。大丈夫」
よほどつらそうな顔でもしていたのか、心配そうと言うよりも、不安げな顔で気遣われた。
……参ったなぁ。
親が子どもに余計な心配かけて、どうするのよ。
「ごめんね。なんでもないよ」
苦笑を浮かべてから首を振り、彼女の頭を撫でてやる。
それでもやっぱり、子どもながらに何かを感じ取ってしまったのか、すぐに表情が変わることはなかった。
……子どもって、大人よりもずっと敏感で繊細なんだよね。
ふとした瞬間に、そのことをすっかり忘れてしまう私は、やっぱり母として失格なんだろうなと思う。
「…………」
でも、どこかが痛いのは……もしかしたら事実なのかもしれない。
信号みたいなズキズキとした痛みが、身体の内部を刺激していたから。
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