よく、一般論としてこんな話を耳にする。
『両親が、喧嘩しても翌朝には仲直りしている』と。
つまり、それはどういう意味か。
なんて考えなくてもまぁ、なんていうか、その……ね!
「……こほん」
ソファに座ったまま、ひとつ軽い咳払い。
……まぁ、あれよ。
あれよね? うん。
なんで、朝になったらおかーさんとおとーさんの仲がよくなってるのかは、今ならわかるわけですよ。
今では、じぃじとばぁばになった私の両親も、そんな不思議光景があったから。
……ということは。
つまり、その……大人の情事というか。
いわゆる、オコチャマが立ち入ることのできないような何かがあったに違いない。
「…………」
相変わらず、映像を流し続けているテレビ。
だけど、私はというとそんなモノには目もくれず、膝の上に雑誌を乗せたままでいた。
乗せている、だけの雑誌。
つまり、読んではいない。
……いや、だってさ。
そりゃあ、今日は別に私と綜の喧嘩ってわけじゃないんだけど……。
でも、子どもの目には当然そう映ったわけで。
……でも、結婚して初めてじゃないかな。今日ほど、感情的に激しい日をすごしたのは。
久しぶりに、私も感情の落差が激しかった。
そのせいか、疲れて夕方はちょっと眠っちゃったんだけど……でも、だからこそ今は元気なわけで。
「…………」
隣には、ついさっきお風呂を出たばかりの綜がいる。
私は、夕飯を食べてすぐに子どもたちと入っちゃったから、だいぶ前からパジャマ姿。
だけど、隣の『パパ』になった綜はやっぱり、変わらずシャツを着込んでいた。
普段着か、という突っ込みはもうしない。
だって、何度言っても絶対にパジャマを着る気配すらないんだから。
こりゃあ、今度の父の日にでも子どもたちから直接パジャマをプレゼントさせたほうが早いかもね。
いくらなんでも、『子どもたちが』というのを前面に押し出せば、この鉄仮面も素直に行動に移すかもしれないし。
「……ご、ごほん」
別に、喉に何か詰まってるわけでも、いがらっぽい訳でもない。
だけど、2度目の不自然な咳払いが出た。
……どきどきする。
なんで? って聞かれても、理由はわからない。
わからないけれど――でも、やっぱりアレかな。
心のどこかで、このあとの展開をものすごく待ち望んでいるから。
って、『ものすごく』とか付けちゃったら、モロ自分が期待してるって言ってるようなものじゃない!
いや、別に、そーゆーんじゃないんだけど!
「え?」
隣に座っていた綜が、おもむろにテレビを消した。
こっ……こここコレはついに……!?
もしかして、ついにやっぱり、そうなっちゃう!?
どきーんと肩を震わせ、顔が赤くなりそうになるのを必死に堪える。
……や……ヤバい。
なんか、ハジメテのとき以上に緊張してきた。
いや、あの、あのね?
そりゃあ一応私はふたりの子どものママなんだから、し……したことがないわけじゃない。
わけじゃないけど……っ……でも!
でもやっぱり、今日だけはなんだか気分がまったく違っていた。
「えっ……」
立ち上がった綜に見つめられ、思わず目が丸くなった。
……あ、ヤバイ。
なんか、一気に顔が赤くなった。
それどころか、身体全部が赤くなってしまったような気がして、ものすごく脈が一気に速くなる。
「先に寝るぞ」
「へっ……!?」
ちーん。
しゅーりょーー。
「…………」
「……なんだ」
「え、え……っ……え!?」
思わず、金魚みたいにぱくぱくと口が動いた。
何も思ってないような、ふっつーーーの顔の彼。
私がこんな態度を見せた理由が微塵も伝わってないようで、相変わらず『変なヤツ』なんて言わんばかりの顔だった。
「んなっ……」
なんでーーー!!!?
頭の中も心の中も、その言葉でいっぱいになる。
うそ、うそ! なんで!?
なんで、『ベッドに行くぞ』とか『寝るぞ。……一緒にな』とかって言葉がないの!?
……ってまぁ、そりゃあ……そりゃね?
これまでの生活を振り返ってみても、そんなことは一度だってなかったけどさ。
でもでも、だからって!
だからって何も、この状況でそんな言葉を言わなくたって!
「……期待してたのにっ……!」
きゅっと唇を噛み締めた瞬間、視線を逸らしながらそんな言葉がぽつりと漏れてしまった。
「……何?」
「はっ」
聞かれてしまったが最後、私に選択の余地はない。
ひくーい声と、思い切り怪訝そうな顔をした彼。
そう。紛れもなく、私の旦那様である目の前の御方。
その人にバレた以上……そう易々とこの状況から脱することはできない。
……でも、正直それでもよかった。
だって。
だってだって!!
せっかく気分がものすごく盛りあがったにもかかわらず、いきなり冷たいシャワーかけられるようなものじゃない?
酷い! むごい!
だからこそ、どんなキッカケであれ、我がものにできるのであれば、このままでもイイと思った。
たとえ自ら地雷を踏みに行くような、難険な道だとしても。
「……したいの」
真っ赤になりそうな、っていうかすでになってるとわかる私の顔。
それをまっすぐに見つめ返している綜は、私の言葉を聞いてわずかに眉を寄せた。
「馬鹿かお前は」
ぐさ。
十秒ほどの間もなく、まさに即答だった。
「な……なっ……」
何も、そんなにあっさり言ってくれなくてもいいじゃない……!!
思わずわなわなと両手に力がこもり、あとから徐々に怒りが込みあげてきた。
「ちょっ……綜! 何もっ、何もねぇ!? そんなふうに言わなくてもい――」
「だいたい、これまでのお前の素振りのどこにそんな気配があった」
「……え?」
今にも、胸倉を引っ掴んでソファに押し倒しそうな勢い。
だけど、綜は立ったまま腕を組んでから、ため息混じりに見下ろした。
「ヤリたいなら、それなりに俺を誘うんだな」
「っ……な……!」
「……まぁもっとも、風呂あがりに平気でタオル姿のまま歩くようなヤツに、欲情するはずもないが」
「だっ! だから、あれはっ! あれは、その……ぱ、パジャマを忘れちゃって……」
「恥じらいってモンがなくなったら、終わりだぞ」
「ッ……るさい!」
胸倉を掴んでやるかわりに、手近にあったクッションを投げつけてやる。
だけど、やっぱり彼はさらりと片手で叩き落し、何事もなかったかのような顔をしていた。
……悔しい。
っていうか、何もここまで馬鹿にしなくてもいいじゃないのよ。
恥ずかしさと悔しさとで赤くなった顔のまま俯きながら、ぐらぐらと感情が沸き立つ。
……やっぱり、このまま引き下がれるわけがない。
そうよ。
ここまでコケにされたんだもん、だったらこれを逆手にとって、逆に私の本――。
「まぁいい」
「……え?」
ぐぐっと両手で拳を作って彼を見つめた瞬間、さらりと呟いた綜は、軽く肩をすくめた。
……いい? 何が?
いったいなんのことなのかさっぱり見当もつかず、綜の動向を見つめる。
「始めてみろ」
どっかりとソファに座り直した彼は、そう言って私を見つめた。
態度と、座り方と言い方。
どれもこれもすべてが、独裁的な王様めいた雰囲気を思いきり身に纏っていた。
「…………」
どくどく、と鼓動が早いまま。
……久しぶり、だと思う。
いや、むしろハジメテかもしれない。
「…………」
「…………」
ごくり、と音を立てて喉が鳴りそうになるのを必死にこらえ、目の前の彼とほぼ同じ高さで目線を合わせる。
……きれいな目。
って、いやいや。そうじゃなくて。
いや、でもそうでもないか。
だって、こんなふうに間近でかつこんなじっくりと綜を見つめたのなんて、ホントに早数年前のことだと思うから。
……それにしても……急に何を言い出すのかと思ったら、アレよ? アレ。
『始めてみろ』
どんなセリフよって話じゃない?
……なんなのよ、もー。急にさぁ。
ぶすっとしたっていうか、無表情100%のままで突きつけられた、無理難題。
ハッキリ言って、こんなの今の私にどうにかできることじゃないんだってば。ホントに。
……だって、ほら。
じぃいいっと彼を見つめていると………。
「……く……」
ぶは! だめっ……! 笑っちゃう!
だって、だって!! やっぱり、こんなのおかし――
「…………」
「……っ」
……ひくり、と口元が動いた。
何? この温度差は。
にやけそうになる私に対して、綜はまったくと言っていいほど無表情をキープしている。
……なんだかなぁ。
冷めるわよ、ホントにいろいろなものが。
でも、改めて綜が本気で言ったんだなぁとちょっぴり感心しちゃったりして。
だって……普段だったらまずこんなこと言い出したりしないのに。
おふざけ、って感じじゃない?
だからこそ……違う、って思ってたんだけど……。
「…………」
でも、やっぱり改めて彼を見てみても、どうやら本気で本気らしい。
全然表情を変えないし、珍しく、ずっと………ずっと、私のこと……まっすぐに見つめてるし。
うぁ、どうしよ。
なんか、急に……ちょっと、どきどきしてきたぞ。
っていうか、妙な気分っていうか、雰囲気っていうか。
「っ……」
きゅっと胸の前で両手を握り、ごくりと小さく喉を動かす。
……やるっきゃない、ってことか。
「…………」
ソファに膝で立ってから、そっと綜へ身体ごと向き直る。
組んだままの足を崩させ、シャツへ手を伸ばす。
……うぅ。やりづらいわね。
こんなふうに責めたことなんてなければ、こんなふうにじっとりと張り付くほどの視線を向けられたこともない。
……緊張する。
って、ううん。ダメ。そんなふうに思ったら、きっとやってけない。
「…………」
軽くかぶりを振って考えを否定し、シャツのボタンを外す。
ひとつ、ふたつ。
ゆっくりボタンを外していくと、何もしていないのに、綜の胸元が露になった。
「……っ……」
別に、今さら照れるようなことじゃないとは思うよ?
女の人と違ってふくよかな膨らみがそこにあるわけでもなければ、これまで一度も見たことがないわけでもない。
なのに……なんでだろう。
なんか、すごくどきどきして、正視できない。
きゅっと閉じそうになる瞳を必死でこらえながら手を進め、視線を落としたまま最後のひとつを外す。
すると、そこで初めて綜が動いた。
「っ……何よぉ」
「別に」
わずかに身体をずらし、少しだけ起きるような格好でソファに座り直す。
……くぅっ。
そんな風にされたら、も、モロ見えるじゃないのよ……!
まるで、あたかもソレを狙ってされたみたいな気がして、どきどきと脈が速くなった。
「…………」
すーはーすーはー。
何度か小さく深呼吸をしてから、綜の肩へ手を伸ばす。
……いつも、どんなふうにされてたっけ。
そんなことを思い出すのはものすごく恥ずかしくて嫌なんだけれど、でも、私には綜がしてくれることしかお手本がないワケで。
……まさか、こんなことを自分からする日が来るなんて……。
ごくりと喉を鳴らしながらシャツの下に手を入れると、当然ながら、綜の素肌に手のひらが当たった。
「っ……」
いつも、こんな感触だっただろうか。
そう思うくらい、キメが細かいっていうか、すべすべしてるっていうか。
えぇ?
男の人って、みんなこうなの?
指先から全身まで一気に血が巡って、なんだか少し頭がくらくらする。
「…………」
どきどきしっぱなしの自分。
けど、綜は相変わらず何も感じていないような表情と態度で、ちょっと悔しい。
だからこそ、絶対にその顔を崩してやる! って気持ちになった。
「……っ」
あらま。
体重をかけすぎてしまわないように気をつけながら、綜の首筋へ唇を寄せたら、触れたか触れないかのところで、わずかに身をよじった。
へー。
まさか、こんな反応をされるなんて思わなかったなぁ。
ひょっとして、綜もくすぐったいのは苦手とか?
両肩に手を当てたままそんなことを考えていると、小さくため息が聞こえた。
「終わりか?」
「ッち……違うわよ!!」
かわいくない声!
てっきりあんな反応したから、もっと彼らしくない言葉が聞けるんじゃないかと思ってたからこそ、がっかりよ! がっかり!!
と同時に、やる気メーターが急上昇。
「……はむ」
ぱくん、と唇で首筋をはさみ、ぺろっと舌で撫でてみる。
…………。
……およ。
なんか、さっきの反応をした人とはとても思えないほどの、ノーリアクションなんだけど。
ちぇ。がっかりだわ。
って、いやいやいや。まだよ、まだ!
ここからが本番なんだから。
改めて自分に気合を入れ直し、胸元へと手を伸ばす。
…………ごくり。
こ、ここは、そのっ……さ、さすがの綜も……きっと、我慢なんかできないわよね。
そう! そうよ、きっと今までは、綜も我慢してたのよ!
白いシャツの間から見えている、生肌。
……だけど、さすがにそこに手を入れて直接触れるという行為は、まだできそうにない。
だって、ど、どきどきするんだもん。
だから、今回はハジメテってこともあるし、シャツの上から………触ってみようかと思う。
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