「よし! 病院に行こう!!」
 うん、と大きくうなずくと同時に、早速行動に移す。
 保険証と診察券をバッグに入れ、スマフォと鍵を持ったまま玄関へ。
 最寄の病院は、電車で駅を幾つか飛ばした先にある。
 だから、最寄とは言えないかもしれない。
 でも、私にとってはそこ以外の病院なんて考えられなかった。
 だって、赤ちゃんができたかもしれないんだよ?
 人生で何十回もあることじゃない、本当に大切で貴重なこと。
 ……それに、秘密めいたすごくデリケートなことでもあって。
 だからこそ、見ず知らずの人なんかに相談できるはずがなかった。
 私には、あの人しかいない。
 人生で師と仰げるほどの、お医者さまはただひとり。

「行ってきます」

 誰もいない家だけど、出るときには必ず振り返って呟いていた。
 いつか、『いってきます』って一緒に言える相手が増えるんだろうな。

 どうかそれが、遠くない将来でありますように。

 思わず手のひらをお腹に当てたまま、笑みが浮かんだ。

「というわけで、来ちゃいました」
「……来ちゃいました、じゃないわよ。お客気分じゃ困るの」
「やー……」
 机に頬杖を着いたままため息をつかれ、思わずあははと笑う。
 白で統一された、物や部屋。
 ぐるりとこの色に囲まれていると、なんだか気分がいい。
 いや……まぁ独特の薬臭さは、やっぱり苦手なんだけどさ。
 でも、やっぱり特別よね。
 私、小さいころからあんまり病院にかかったことがないから、こうしてお医者さんを目の前にしてかつ消毒薬とかの匂いがすると、すんごいドキドキして楽しくなってくるのよ。なぜか。
 それが例え、それこそ遊び場と言っても過言じゃない、昔からお隣にあるこの芹沢クリニックだとしても。
 そんでもって、目の前に座ってる先生がそれこそ私にとって姉貴分の、彩ちゃんその人だとしても。
「えへへ」
「アンタねぇ……ここ、どこだかわかってるの?」
「モチのロンよ! 何言い出すの!」
「……はぁ……」
 えっへんと胸を張ると、彩ちゃんはまるで頭でも痛いみたいに深くため息をついて額に手を当てた。
 すると、その様子を隣で見ていた巧さんが、くすくす笑って――おおっ。
 なんと、お紅茶を運んで来てくれました。
「どーぞ」
「わー、ありがとうございます」
 花柄の上品なカップ。
 ソーサーごと受け取ってから、早速ひとくち。
 ……うん。美味じゃ美味じゃ。
 顔がほころぶと同時に、なんだか気持ちも緩んだ気がした。
「それじゃ」
「あ。ありがとね」
「いーえ。ごゆっくり」
 巧さんが、そのまま部屋をあとにした。
 そんでもって、彩ちゃんはそれを当然のように見送る。
 …………。
 ん? なに?
 にこにこ笑うものの、目が合った彩ちゃんが『あのねぇ』と小さくため息をつく。
「……そんで? 佐伯さんはウチが産科も婦人科も掲げてないのに、妊娠の疑いでいらっしゃったのかしら?」
「え? ダメなの?」
「あのね。『ダメなの?』じゃないわよ」
 てっきり、病院に行けばわかると思ってた。
 だから、彩ちゃんの病院に来たっていうのに……そうなの? ダメなの?
 え? それじゃあ、何?
 ひょっとして、私……選択ミスってこと?
「……あちゃー」
「遅いわよ」
 ぺしん、と額に手を当てて瞳を閉じると、思い切り目の前で瞳を細められた。
 ……う。
 そ、そりゃあね? 確かに、昼休みを潰してまで診てもらってる身としては、文句も言えないけど……。
 でも、だからって何もそんなに怖い顔しなくても。
 びっ……美人の先生が、台なしよ!?
 てかあの、一瞬綜とダブって見えたんですけども!
「……まったく。なんでウチに来る前に、検査薬を試そうと思わなかったの?」
「それはその、うーん。なんか、やっぱ直接病院行っちゃったほうが早いんじゃないかな、って思って」
 ギィ、と軽く椅子を軋ませてもたれた彩ちゃんは、ゆっくり息をついてから私を見た。
 確かに、もっともだと思う。
 仰る通り、っていうか…………うむむ。
 困った。何も言い返せないぞ。
 腕を組んで私を見つめている彼女を見ても、やっぱりそれは変わらなかった。
「だいたい、ウチには産婦人科の器具もなければ設備もないし。たとえ赤ちゃんが居たとしても、触診じゃわからない大きさだし……」
「……ごめん」
 ふと、彩ちゃんが私のお腹に目をやったのを見たら、思わず謝っていた。
 ……なんか申し訳なくて。
 子どもの代わりに謝るのは、親として当然だ……なんて、どこかで思ったからかもしれないけれど。
「とにかく。1度検査薬を試してから、きちんと病院に行ったほうがいいと思うわよ?」
「……ん。そうする」
「最近の検査薬は質も高くなってるから、ある程度信用できると思うし」
「…………うん」
 すっかりショゲた私を見たからか、彩ちゃんはさっきと違って私をなだめるように言ってくれた。
 ……ごめんね。
 そんな彼女に、俯いていた顔を元に戻してから、上目遣いで目を合わせる。
 すると、一瞬おかしそうに微笑んでから、『彩先生』ではない、『幼馴染の彩ちゃん』の顔を見せた。
「結果がわかったら、もちろんだけど綜にはちゃんと話しなさいね?」
「……え?」
「通院ってなったら、お金だってかかるんだし。それに――」
「それに……?」

「赤ちゃんの父親は、綜でしょう?」

「……っ! それは……もちろん」
「ならば、なおさら。きちんとあの子にも自覚させなさいね」
 父親になるんだから。
 彩ちゃんは、真面目な顔つきでそう言った。
 ……父親。
 あの綜が、この子……ううん、そりゃあまだ妊娠してるって決まったわけじゃないけれどでも、赤ちゃんがお腹に居たとしたら……この子の父親になるんだ。
 ……綜、が。
 そして私が、母親に。
「うん」
 自分でも、わかってたはずだった。
 だけど、それはもしかしたら頭だけでだったのかもしれない。
 今、彩ちゃんに口にされて、思わずどっきりしたんだもん。
 ……わかってたはずなのにな。
 それでもやっぱり、実感はこうして私以外の誰かに言われて初めて得るものなのかもしれない。
「それから」
「……え。ま……まだ、何かあるの?」
 こほん、と咳払いをしてあれこれ考えていた私を引き戻した彩ちゃんは、ちょっとだけ強い口調でさらに続けた。
 ……ま、また何か怒られるんじゃ。
 眉を寄せて、じぃっと私を見つめている彼女を見ていたら、それだけで心拍数急上昇よ。

「わかったら、ちゃんと教えてね? 私にも」

「……あ……」
 にっこり笑って言われた言葉は、医者としてではなく、確かに私を心配してくれているお姉さんの顔だった。
「……彩ちゃん……っ」
「あら、何よ。もう涙もろくなったの? 早いわねぇ」
「うえーん、彩ちゃんー!!」
「よしよし。もー、しょうがないんだから」
 にっこり微笑んだ彼女は、ものすごく優しい眼差しを私に向けた。
 お母さんとも、お姉ちゃんとも違う……とっても温かい眼差し。
 それは、なんだか早くも『おめでとう』って言ってもらえている妊婦さんの気持ちにさせてくれる優しいもので、思わずうるうるっと潤んだ瞳のまま、彩ちゃんに抱きついていた。
 やっぱ、検査薬が1番だったのね。
 それじゃ、帰りに買って家で早速試してみなくちゃ。
 いい匂いのする女医さんに頭を撫でられながら、そんなことをしっかり胸に抱いた。


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