「それじゃ、お先に失礼します」
「あ。お疲れさん」
 17時を回ったところで、これまでパソコンで作業をしていた葉山が立ち上がって俺たちに頭を下げた。
 相変わらず、律儀というか丁寧というか。
 ……つーか、花山には別に笑顔であいさつしてやることねーのに。
 なんて言ったら、ものすごく嬉しそうに手を振り返しているコイツは、本気で泣くかもしれない。
「葉山」
「はい?」
 あとを追いかけ、玄関で靴を取り出した彼女に声をかけると、くるりとこちらを振り返った途端髪が流れた。
 一瞬その姿に言葉を忘れかけ、軽く首を振って姿勢を正す。
「今日さ、早く上がれそうなんだけど。どーだ? メシ、食い行かねーか?」
「……あ……」
 先日、一緒にラーメンを食いに行ったあとでした、約束のような……まぁ、ちょっと違うっちゃ違うんだけどな。多分。
 それを思い出して声をかけたのだが、途端、表情を曇らせてしまった。
「実は今日は……ちょっと先約がありまして……」
「あ、そっか。ならいい。また今度な」
「すみません」
 心底申し訳なさそうな顔をして頭を下げたのを見て、慌てて手を振る。
 一緒にラーメンを食いに行く、なんて約束は約束であって違うようなモノ。
 基本、予定が空いてるときにって約束なんだし、逆にそこまで気負われてしまうと申し訳ない。
「あのっ、また今度連れてってもらえますか?」
「もちろん。食い行こーぜ」
「……よかった……。じゃあ、楽しみにしてますね」
 大きくうなずいてやると、途端に葉山がほっとしたような表情を見せた。
 それを見て、こっちもほっとする。
 やっぱりコイツは、さっきのような曇った表情は似合わない。
 いつだって、柔らかくて優しい笑みが1番似合う。
「んじゃな」
「失礼します」
 片手を上げてあいさつをし、くるりと来た道を職員室へ向かう。
 そのとき、ちょうど入れ違いで向こうから帰り支度を済ませた先生が出てきて、目が合うと会釈された。
「お先に失礼します」
「あ、お疲れさまです」
 いつもと同じやり取りなのに、なんとなく感じた違和感。
 ……だから、振り返った。後ろを。
 すると、さっきまで俺が立っていた場所に立った彼が、葉山と話しているのが見えた。
 …………アレは、小川先生。
 今日の昼休みにも話してるのを見たんだが……なんでだろうな。
 なんとなく、この組み合わせを見てまた疑問が浮かぶ。
 葉山は彼を向いているので表情がわからないが、対する彼は笑顔。
 話している言葉も内容もわからないものの、雰囲気は良好って感じで。
「…………」
 職員室のドアの前へ立ったまま、ついそちらをしばらく見てしまう。
 別に、俺が気にするようなことじゃない。
 葉山は、教師の相談にも乗るってのが仕事なんだから、アイツが誰と話そうとまったく関係ないし、それはあくまで仕事のうちなのに。
 なのに、なぜか……そう。気になって。
「っ……」
 だがそれは、ふたり揃って出て行くのを見て、特に強くなった。
 頭に浮かぶのは、さっきの葉山の言葉。

 『すみません、ちょっと先約が……』

 その、約束の相手。
 それは――……小川先生、か?
「………………」
 たまたま、偶然玄関で一緒になっただけかもしれない。
 そして、単に世間話をしただけかもしれない。
 もしくは、葉山に小川先生が何か相談がてら聞きたいことがあったとか……そんなモノかもしれない。
 ……だが、なんとなくただそんな理由から話しかけたようには思えなくて。
 昼休みにも彼が話しかけたところを見ていたせいか、どうしてもそっちにしか考えられず。
「……ちょっと。鷹塚センセ。突っ立ってたら、邪魔なんだけど」
「は? ……あぁ、小枝ちゃんか。ワリ」
 ドアを向こう側から開けられ、顔を戻すと眉を寄せて怪訝そうな表情の彼女がいた。
 肩越しに俺が見ていた先を見たのか、目があってすぐ、くすっと表情を変える。
「なぁに? 気になるの? 葉山センセのこと」
「別に」
「うっそだー。別に、って顔なんかじゃないし」
「……うるさいな。ほっといてくれ」
「はいはーい」
 いたずらっぽく見られ、ぷいとそっぽを向いて中に入る。
 すると、出たがっていたはずの小枝ちゃんが、戻って来た。
「ねぇ。小川先生、最近カッコよくなったと思わない?」
「そーか?」
「そーよ。気づかない? 前にも増して、輝きが出たっていうか……まぁ、年が年だけに渋さはまだ無理みたいだけど」
「あっそ」
 俺にとってはまったくどうでもいい情報なのに、小枝ちゃんはなんで俺にそんな話を振るんだ。
 ワケわかんねぇ。
 つーか、忙しいんじゃなかったのか?
 俺を弄ってねーで、とっとと自分の仕事に戻りゃいいモンを。
 うっかり『暇なの?』と彼女を見て言いそうになり、黙って席に戻る。
 だが、それでもまだ彼女はくすくす笑いながら『ねえねえ』としつこく付いてきた。
 別に、いつもだったら気にもしないし、小枝ちゃんに限っていえば普段からこうなんだから、何も余計なことを考える必要はないのに。
「アレって、恋してるからじゃない?」
「っ……」
 俺にとってどうでもいい情報を与えて、どーする気なんだ。
 だいたい、なんの確信があってンなことを言う?
「…………」
 小枝ちゃんがいたずらっぽく笑ったのまでは覚えてるし、知ってる。
 だが、彼女を見ると途端に『やーだ、こわーい』なんて茶化しながら肩をすくめて、ようやくここから離れて行った。
 どんな顔してたのか、なんて記憶にない。
 それでも多分、花山なら半泣きしそうな機嫌悪いときの俺っぽかったんだろうとは多少予想が付いた。

 小川先生は4年生の担任で、この学校に赴任して2年目になる。
 同じ学年を持ったことはないから、俺は正直彼をよく知らない。
 せいぜい、俺より2つか3つ年下だった、っていうどうでもいい情報だけ。
 ……ただ。
 小枝ちゃんが言うように、最近ちょっと『あれ?』って思ったことはあった。
 雰囲気が、変わった。
 ひとことで言うと、ソレ。
 前はちょっとだけどこかモサモサしてるような雰囲気だったんだが、それが今では見られず。
 大人に使う言葉じゃないかもしれないが、どこか垢抜けたような気もしていた。
 だから、小枝ちゃんも言ったんだろう。
 『恋してる』んじゃないか、と。
 そんな馬鹿な話あるか、って昔なら笑い飛ばしたに違いない。
 ……だが、今の俺はなんとなくそれを跳ね飛ばすだけのこともできず。
 ついつい、心のどこかで『そうかもしれない』と思い始めてもいた。
 ――……だが。
 それらの『かもしれない』がいつしか『なるほど』と思えるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 翌週、葉山が学校へ来た月曜日。
「葉山先生。ちょっといいですか?」
「あ、はい」
 放課後。
 ……だけじゃない。
 中休みの終わる、少し前。
 そして昼休みが始まる前の、給食の時間もそうだった。
 教室にいるべきはずの小川先生が、職員室の葉山を訪ねてきたのは。
「………………」
 しかも、それだけに留まらず。
 まるで人目を避けるかのように、ふたり揃って……席を外す。
 1度じゃなく、2度じゃなく、もっと。
 ふたりが一緒にいる場面を見つけた先々週から、この景色は徐々に増えてきつつあった。
「鷹塚センセ、今日は2組さんが体育館使える日じゃないの?」
「…………」
「……ちょっとー。放送入れなくていいワケ?」
「は? ……あー。ああ、そうだった」
 あれこれ考えるのは得意じゃない。
 ……つーか、あんま好きじゃない。
 特に、人の詮索なんてモンが一番。
 だが、なぜか今回ばかりはあのふたりのことが頭から離れなくて。
 一瞬、なんのために職員室まで降りて来たのか、忘れてまた教室へ戻るところだった。
「最近、ぼーーっとしてること多いわよね」
「ほっといてくれ」
 呆れたように小枝ちゃんに肩をすくめられるものの、それは自分でも自覚してるから強く反論はできない。
 確かに、ぼーっとしてるっつーか……注意力散漫、っつーか。
 いや、同じ意味なんだけどさ。
 とにかく、ここ数日になって忘れ物が多かった。
 それは持ち物だけに留まらず、行動とか言葉とかもそうで。
 一旦来た道を戻って考え直して……それからようやく思い出して次の行動に向かう、なんてことも多く。
 健忘症、ならまだいい。
 だが、違うってのは当の本人の俺が1番よくわかってる。
「…………」
 放送用のマイクの前に立ち、スイッチを入れる。
 ピンポーン、という放送の呼び出しで聞くような、独特のチャイム。
 それを押してから放送する内容を――……なんだっけ。
 …………。
 ……あー。
 昼休みに、体育館を使えるクラスの放送か。
 どうしても頭は隣の隣にある相談室まで飛んでいるようで、思わずマイクを持ったままため息をついていた。


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