「……お前が教え子じゃなけりゃよかったのに、な」
「え……?」
「新任の先生だったら……な」
は、と短く笑ってから、再び海へ向き直る。
どうやら海中散策とやらを目玉にしているようで、でかでかとPRされている看板のそばには何人もの子連れが見えた。
「……そうすりゃ、ひと回り下でも守備範囲だったのに」
ぼそりと呟いた言葉は、間違いなく俺の本心。
今までずっと――……いや、この間、コイツが誕生日を祝ってくれたあの日に思ってしまった、本音。
自分と同じ干支の、12歳差。
考えてみればそれはとても大きなモノ。
だが、教え子と恩師という関係があれば納得できる。
この年の差はあって当然だし、そういうモンだと。
だが――……恋愛対象にそう簡単になりえるかといえば、答えは違う。
あっけなく想いを端へ追いやることができた。
教え子。
コイツは俺の教え子だから、と。
そう思った途端、どれだけ俺好みの人間だとわかっていても、コイツの存在は『教え子』になった。
……俺の大事な教え子。
世話になった人の、娘さん。
昔から知ってる、それこそ――……自分の子どもみたいな存在へ変更することができたのに。
「…………」
それなのに、今。
あの日の出来事から、見事にひっくり返ってしまった。
くしくも俺の誕生日のせいで。
コイツが――……俺好みの『女』になった。
笑顔でそばに居てくれて、嫌がらずうなずいてくれて。
何もかも許して、受け止めてくれる。
そんな……俺の理想の女に。
「ついでに、このまま泊まってくか」
残りのとろまんを頬張り、アイスコーヒーで流し込む。
先ほどより、大きな声。
明日は日曜。俺も休み。
もちろんコイツも休みだろうが、予定があるかどうかは聞いていない。
「……え……?」
「1泊して、明日も遊ぼうぜ」
アイスコーヒーを置くと、ジャリ、と氷が崩れた音がした。
笑いながら言ったセリフは、無責任極まりないモノ。
だが、口元に手を当ててもぐもぐ食べていた彼女が、飲み込んでからまばたきを見せた。
「本気……ですか?」
「だとしたら?」
お前の前にはどう映ってる?
笑っちゃいる。
だが、目が笑ってないのは自分でわかってる。
……お前には?
今の俺はどう見えてる。
「……わかり、ました」
「………………何?」
「…………」
こくん、と今彼女がうなずいたように見えた。
予想外どころか、ありえない返事。
まっすぐ見つめられ、たまらず目が丸くなる。
「お前……」
言いかけた言葉の代わりに口を開くと、喉が鳴った。
今、コイツは何を言った。
自分で言っておいてナンだが、まさかの事態。
確率で言ったら、宝くじ当選とほぼ同じ確率じゃないのか。
「…………嘘だろ?」
冗談だ。何言ってんだよ。
そう言ってやりたいが、声が出ない。
……いや。
まっすぐ俺を見つめている葉山を見ていたら、そんなことは切り出せなかった。
――……そもそも、だ。
どうして葉山は俺のそばにいてくれるんだ。
どうして、急な予定を切り出しても嫌がらず付き合ってくれるんだ。
嫌がったこともなければ、何を言い出すんだと馬鹿にしたこともない。
……だから、だ。
そこから弾き出せることが、ひとつ。
『もしかしてコイツは、俺のことが好きなんじゃないのか』と。
少なくとも好意的に思ってくれてるのはわかる。
だが、それは俺が恩師だからじゃないのか?
無理難題を、恩師が言ってる。
だから……それとも俺がかわいそう、だから?
いや、コイツはそんなふうに思ったりしない。
だとしたら、やっぱり優しさか義理かのどちらか。
少なくとも俺は、コイツにとって断りを入れにくい存在に違いない。
それでも今は、ただの同僚。対等だ。
なのに断らないのは――……どうして。
「……葉山」
「はい」
ずっと同じ、優しい眼差し。
俺を決して裏切らない、受容してくれるモノ。
『なんですか?』
いつもと同じく、そう言ってくれるかのように少しだけ首を傾げた途端さらりと髪が流れた。
……ごく。
わずかに喉が鳴ったのは、自分の正直な気持ちだったのかもしれない。
「どうして、断らないんだ?」
「……え……?」
「今日だってそうだ。急にだぞ? いきなり江の島行こうぜ、なんて言ったのになんですんなりうなずいてくれる? ここへ来たのだってすげぇ気まぐれが元だろ?」
「それは……」
「なんでだ? そこまで俺にしてくれるのは、どうしてだ? なんでいっつも付き合ってくれる? ……いつだってそうだ。俺は急に言うのに。思いつきで喋ってんのに、なんで……なんで全部、YESなんだ?」
義理だと思ってるなら、してくれなくていい。
断りづらいなら、もう声をかけないようにする。
……だが、もしも。
もしも、好意によるモノだとしたら――……?
そのとき俺は、どう答えるつもりなんだ。
コイツの、まっすぐで正直で素直すぎる気持ちに。
「私……」
「っ……」
「……私は――」
一瞬視線を逸らした彼女が再び俺に向けたのは、真剣な眼差しだった。
普段と違うその眼差しを向けられたとき、少しだけ怖くなった。
ああ、コイツは今から本当のことを言おうとしてる。
真実を言おうとしてる。
いつも笑顔でいるコイツが見せる、本気の顔。
……それが、怖いんだ。
今から、本当のことを言います。
私が……考えていることを。
そう言っているように見えて、怖くなった。
「っ……!」
「やっぱいい」
「……え……?」
「ワリ。なんでもねーから」
咄嗟に彼女の口の前へ手のひらを差し出し、ストップをかける。
当然視線は逸らしっぱなし。
それどころか、背を向けて立ち上がる。
……真正面から、コイツを見れない。
それは、俺の弱さでありズルさ。
「悪かったな、なんでもかんでも無理矢理付き合わせて」
「っ……そんな!」
「いや、そもそもさ。考えてみればおかしいだろ? すげー横暴じゃん」
飲み終えたアイスコーヒーをゴミ箱へ放り、そこでようやく足を止めて彼女を振り返る。
まだ半分ほど残っているアイスコーヒー。
それを両手で握り締めるように持っている葉山は、普段俺に見せない顔をしていた。
……あー、俺がこういう顔をさせた。
コイツを……拒否したから。
「悪いな。すげー我侭押し付けてた。お前に、ずっと」
「そんな……私、そんなふうに思ってません」
「断ってくれていいんだぞ? お前はもう、今の教え子じゃない。同じ同僚だ。対等な関係だ。だからもう、言ってくれていいんだぞ」
「私……私はっ……!」
「っ……」
「聞いてください……っ」
「いや……」
「鷹塚先生!」
「……俺は……ッ」
俺はもう、お前の先生じゃない。
そう言いそうになった自分を抑えて、背中を向ける。
逃げた、んだ。
ズルいだろ。俺は。
……葉山。
お前が思ってるよりもずっと、俺はガキで幼くて――……ずっとずっと卑怯なヤツなんだ。
「…………」
はあ、と大きなため息をついてから、閉じたまぶたを開く。
「悪かったな葉山。家まで送る」
そう言った自分の顔は、4月のはじめに元教え子のコイツと再会したときと同じ『先生』の顔だった。
今日、久しぶりに浮かんだ笑み。
嘘クサいそれを見てお前がどう思ったかまでは、頭が回りそうになかった。
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