結局、アレからどうやって帰って来たのか詳しく覚えていない。
 三崎から気まずい車内の空気はずっと続き、葉山を自宅で下ろすまで……いや、そのあとも続いた。
 ……ただ。
 彼女が降りたとき見せた、顔。
 それが、今にも泣きそうな顔でまっすぐ見てられなかったのは、やっぱり俺の弱さでありズルさだったんだろうと思う。
「おはようございます」
 いつもと同じ高さの、いつもと同じ調子の声が机向こうからかかった。
 さっきから、腕時計で『そろそろだ』と思っていただけに、当然顔は上がらない。
 わかってた、し。わかってる。
 相手が誰かってことくらい、簡単に。
「おはよ」
 多分、隣に花山がいたらもっと違った反応だったんだろうな。
 アイツならば間違いなくまっすぐ葉山を見つめて笑みを浮かべる。
 ……俺とは大違いだ。
 目も合わせずに言い切った自分にヘドが出そうだった。
「………………」
 何逃げてんだよ。
 ……つーか、何追い込んでんだよ。
 ただ――……どうしても。
 こうしてでも近づくのを絶たなければ、コイツをどうにかしてしまいそうで。
 昨日、考えたんだよ。
 6年。
 ……6年、もうシてない。
 そりゃ溜まる一方だよな。
 ずっとそんだけ女も抱かずに仕事だけしてりゃ。
 それでも、いいかなって思ったんだよ。
 このまま独身で謳歌してくってのも、悪くねーなって思ったから。
 ソレくらい、俺にとってあの結婚は間違いだったと思うし、ああ理想と現実はこんなにもかけ離れてるのかってわかったから。
 ……なのに。
「…………」
 赤ペンを握ったまま視線をわずかに上へ向けると、立ったまま鞄の中身を整理している葉山が見えた。
 笑顔、じゃない。
 むしろ、まるで思いつめているかのように、うっすらと唇を噛んでいて。
 ……泣くなよ。
 そんな顔すんな。
 思わず視線が逸れるが、誰のせいかなんてとっくにわかってるから、自分に対して苛立ちがつのる。
「…………」
 いったい、コイツはどんな思いをしながらソレを着けてきたんだ。
 胸元に光る、俺があげたネックレスを見て、小さなため息が漏れた。

「あっ! 葉山先生、おはようございます!」
 中休みになって先生方がわらわら戻って来た中に、花山の姿もあった。
 相変わらずピシッとしたワイシャツ姿に、眩しさを感じる。
 それでもまぁ、さすがにもう半袖だったけど。
「おはようございます」
「あれっ? かわいいですねー。コレ。ご当地ストラップですか?」
「あ、そうなんです」
「……んん? 鮪? ですか? もしかして」
「はい」
 葉山が持っていたペンケースについている、何か。
 それをまじまじと手にして見ながら、花山が眉を寄せた。
「…………」
 鮪。
 そういやこないだの帰り、葉山が何か買ってたな。
 もしかして……ソレか?
「どうしたんですか?先輩」
「あ?」
「珍しいじゃないですか」
「何が」
 自分の席へ戻って来た花山が、椅子に座りながら俺のほうを向いた。
 だが、こっちは依然として目線はテストへ落ちたまま。
 次の時間にコレを返却予定なので、手を止めてる暇はない。
「だって、いつもだったらダメだって言うほど、葉山先生にべったり絡むじゃないですか」
「……別に」
 シャ、シャ、という自分の丸付けの音が響く。
 規則正しい、音。
 増えて行く、朱に近い赤い丸。
 それを見つめたまま、視線を動かさない。
 そのほうが都合いいって事が分かってるから。
「……先輩。機嫌悪いんですか?」
「…………別に、そんなんじゃ――……っ……間違えただろうが……!」
 ジャ、と音を立てて誤答に丸を付けてしまい、思わずそっちを睨みつけてから赤ペンを机に放る。
 途端、ひぃと声を上げて花山が両手を顎元へ揃えた。
「え、ぼ、ぼぼぼボクのせいですか!?」
「あーーークソがっ!」
「ひぃぃえぇぇえええっ!!」
 ガッと椅子の背もたれを掴んでからそっちへ向き直り、思い切り瞳を細めてやる。
 八つ当たり。
 多分、冷静な頭だったらそう判断できただろう。
 だが、今の俺には無理。
 完全に人のせいにしたがる、ダメでイヤなヤツだから。


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