今日は木曜日。
 だから、相談室に行けば葉山がいる。
 ……それはわかっていた。
 なのに、結局そこには5,6時間目を経た現在でさえ寄り付くことができなくて。
 具合が悪くて保健室へ行った子の様子を見に行ったときもわざわざ、ドアが開けっ放しになっている相談室の前を通らずに済むように、外から回って行ったほど。
 …………もちろん、そんな俺を見て小枝ちゃんはより一層不機嫌な顔をした。
「……はー」
 結局、迎えてしまった放課後。
 夕焼けに染まるオレンジの教室で独り哀愁漂わせながら窓にもたれるものの、思ったより時間は進んでくれなかった。
 今ならまだ、葉山はいる。
 だから、本当は謝りに行かなきゃいけない。
 なのに、それができない。
 ……あー…。
 俺はこんなに小さな男だったか。
 我ながら、若いころと行動力そのものがまるで違って、年を取ったと自覚する。
「…………」
 とはいえ、ここでやれる仕事はない。
 職員室へ戻って、算数ワークの丸付けをしなければならないから。
 ……あー。
 今日はまだまだ帰れそうにないな。
 仕方なく窓の鍵を確認してから教室を出ると、影のせいか暗くなっている廊下と差し込んでいるオレンジの陽のコントラストがキレイだな、なんてふと思った。
「…………ん?」
 階段を下りてすぐ、職員室へ向かおうと思ったとき。
 ふと、職員室の隣にある相談室とは逆の通路から、物音が聞こえた気がした。
 この時間、児童はもうすでに下校しているので、その可能性はない。
 ……てことは、もしかしてこの時間特有の……お化け、とか。
「…………」
 まさか、な。
 あっさりとそんな考えを否定し、音の方向へ足を向ける。
 俺がいるこの廊下から垂直に奥へ伸びる細い通路の先にあるのは、放送室。
 その通路には小さな天窓があるだけで、日中いつも暗かった。
 ……それなのに、明かりがないんだよな。
 ヘンなところをケチるモンだと、ここに赴任したときびっくりしたぜ。
「………………」
 この時間、先生方が放送室を使うことはない。
 ここを使うのは大抵放送委員で、昼と掃除の時間がメイン。
 だから、この時間ここに人がいるってことはないはず。
 ……少なくとも、何か特別な事情ってのがない限りは。
「…………葉山……?」
「っ……!」
 廊下の奥を、目を凝らして覗き込んだとき。
 それっぽい人影が、うずくまっているのが見えた。
 確かな根拠なんてない。
 単に、長い髪でスカートを穿いてるという事項からはじき出した、可能性のひとつ。
 だが小さく口にした途端、その人物が顔を上げたことで確信に変わった。
 職員玄関のデカい窓のお陰で明るいこの場所とは違い、奥の壁にある天窓の白い光のせいでちょっとした目隠し的な要素を持つこの場所。
 そのせいで逆光になってしまい、近づかなければ人の顔が見にくい。
「鷹塚先生……」
「……どうした?」
 ぶっちゃけ、声をかけるつもりはなかった。
 相手がコイツだとわかったから、なおさらに。
 ……それでも。
 何かを探してるように見えたから。
 それも――……半分泣いてしまいそうな顔で。
 遠くてハッキリしないにも関わらず、俺を振り返った彼女はそんなふうに見えた。
 気のせいかもしれない。
 もしかしたら、昨日のあの姿が印象強くてかもしれない。
 だが、なんとなくとはいえそう思ってしまい、気付いたときにはそちらへ足が向いていた。
「実は、チャームが落ちてしまって……」
「チャーム?」
 ぺたん、と座り込んでいるような彼女にならってしゃがみ込むと、片手に乗せたネックレスを差し出した。
 ……俺のあげた、アレ。
 チャーム、ね。
 そんなの付いてたっけか。
 買っておいてナンだが、細かい場所まで覚えてない自分に半ば呆れる。
 ある意味、直感で買ったんだよな。アレも。
 ……コイツに似合う、っていう簡単な理由で。
「髪に絡まってしまって、外したんですけれど……そのとき、落ちてしまって……」
 そう言って葉山は、両手を床に付きながら長く伸びる向こう側まで見つめた。
 しかしながら、ここは明かりがない場所。
 小さな窓しかないせいで、細かい所までは見えない。
「……せっかく、鷹塚先生にいただいたのに……っ……すみません。私……っ」
「平気だって。大丈夫だから、ンな顔すんな」
「…………先生……」
「大丈夫だ」
 泣き出してしまいそうな声が耳に入り、反射的に明るい声が出る。
 コレはもう、万人に対してもそう。
 子どもたちであろうと、誰であろうと、弱気な声を聞くとすぐ逆にこんな声で安心させるような言葉が出た。
 ……しかしながら。
 ネックレスのチャームってことは、そんなに大きくはないモノ。
 広くないといえ奥行きがあるこの場所で、果たして簡単に見つかるだろうか。
「落ちたのはこの場所か?」
「はい、そうです」
 彼女と同じように床へ両手を付きながら、感触を頼りに手探りで探す。
 ……ゴミが多いな。
 掃除の時間はいつも通りあったはずなのに、硬いモノを摘んでみると、小石のようなゴミばかりで。
 ここの掃除、誰だ?
 明日改めてひとこと言ってやろうかと思う。
「…………ん?」
 葉山が居た、通路の奥まった場所からかなり元の廊下へ近づいた場所で、また指先に硬い感触があった。
 指先でつまみ、手のひらに乗せてみる。
 ――……と。
「あった」
「っ……え……!」
「コレ。違うか?」
 手のひらを彼女のほうへ向けてから立ち上がり、ゆっくり近づく。
 リボンの形に、小さな輪が付いているモノ。
 そうそうゴミには見えない。
 しかも光が一瞬当たったとき、きらりと虹色があたりに反射したから間違いないと思った。
「っ……そうです……! ありがとうございますっ!」
 手のひらから両手で摘み上げた葉山が、本当に嬉しそうにほっとした顔を見せた。
「よかった……よかったぁ……っ」
 小さな小さなモノ。
 だが、それをぎゅうっと両手で包み込んだ顔が、あまりにもかわいくて。
 心底から 喜んでくれている顔で。
 ……俺のあげた、モノ。
 だからこそ、なんとも言えない気分になる。
 そんなに嬉しそうな顔するな。
 俺じゃなくても、誤解する。
 ……いや。
 だからこそ、するんだ。
「……え?」
「付けてやるよ」
「……あ……。ありがとうございます」
 チャームをネックレスに通して両手を首の後ろへ回したのを見てから、手を差し出す。
 受け取る、細身のネックレス。
 先ほどまで別々だったチャームとネックレスとがひとつになり、あるべき姿に戻った。
「…………っ……」
 こちらに背を向け、俯いた彼女。
 そこまではよかった――……が。
 葉山は、片手で髪を纏めてから簡単に上げた。
 邪魔にならないように、と思っての配慮だったんだろう。
 ……だが、俺にとってそれは逆の意味にしか映らない。
 目の前へ無防備に晒されている、白いうなじ。
 甘い香りのするそこにどうしても視線が張り付き、ネックレスの金具がきちんと輪にかかったにもかかわらず、手が離れなかった。
 ……お前は、どれだけ俺に対して甘いんだ。
 それとも、ほかのヤツに対しても同じなのか?
 だとしたら、あまりにも知らなすぎる。
 男の好意に甘んじたら――……どうなるかってこと、を。
「……っ……!」
 両手を肩に置いてすぐ、そのまま首筋へ唇を押し当てていた。
 これまでのどれよりも、1番甘い香り。
 滑らかな肌の感触に、思わず瞳が閉じる。
「ぇ、あっ……! た、かつ――……!?」
 そのまま腕を回し、後ろ向きに抱きしめる。
 だが、よほど予想外だったらしく、かくんと膝を折ったせいでその場へ崩れるように座ってしまった。
 ……とはいえ、こちらとてそのまま続く。
 ぺたん、と床に座り込んだ彼女を改めて正面から抱きしめて、頬に手を当てる。
 こっちを見ろ。
 そんな意味をこめて驚いた瞳を捉えながらも、目が合ってすぐ、きっちりと口づけていた。
「っ……! んっ……!」
 甘い、どころじゃない。
 身体がすぐに反応する、甘い声。
 恐らくこの職場の誰もが知らない、コイツの声だ。
「……は……っぁ、っぅ……ん……!」
 1度短く解放しながらも、再度角度を変えて口づける。
 まさか、とは思った。
 それでも、やっぱり……とも思った。
 相手がコイツなのに……いや。
 コイツだからこそ、自制が利かなかったんだ。
 俺にとって、教え子でありながらもすでに女として認知したヤツだからこそ。
「――……っ……」

『鷹塚先生、鷹塚先生、お電話が入っています。至急職員室までお戻りください』

「……はぁっ……!」
 唇の感触が心地よすぎて、舌先で味わい始めたとき。
 ピンポンという学校特有のチャイムが響き、ダイレクトに音が頭へ入り込んできた。
「は、ぁ……は……ぁ」
 ゆっくりと唇を離し、距離を作る。
 肩で息をする、腕の中にある彼女。
 その姿をまじまじと捉えながら、なおもまだ頬から手が離れない。
「……ここまでだ」
「…………え……?」
「これ以上はもう、お前に手を出さない」
 わずかに掠れた声のまま囁き、頬を撫でる。
 鼻先が付くほどの距離。
 まっすぐ、こんな距離で見つめたのは初めてだな。
 囁いてすぐわずかに触れた唇を噛むと、瞳が自然と細くなった。
「……鷹塚、先生……」
「今、したことは謝らない。悪いなんて思っちゃいないし――……何よりも、正直な自分の衝動だ」
 気のせいか、彼女がわずかに肩を震わせたようにも見えた。
「……だから拒め。これ以上近づいたら、次はもう抑え切れねぇぞ」
 ゆらり、と音もなく立ち上がり、最後まで残していた手のひらを静かに彼女から離す。
 まっすぐ俺を見つめている姿は、惚けているというより、驚きでいっぱいというところか。
「………………」
 再度響いた呼び出しの放送できびすを返し、独り職員室へ早足で戻る。
 キュ、とそのとき響いた靴音は、摩擦のせいかブレーキにも似たモノに聞こえた。


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