「っん……!」
「……は」
 ちゅ、と唇を舐めて軽く吸い、わざと音を立てて離れる。
 といっても、鼻先がつく距離。
 いや、むしろ唇が微かに触れるか触れないかというギリギリの距離だ。
「っ……ぁ……」
 長いまつげが、目の前でしばたたかれる。
 おずおずと合わされた瞳は、潤んでいて……戸惑っていて。
 それでも、濡れた唇につい視線が向かい、喉が小さく動いた。
 いつもと同じキスなのに、いつもと同じじゃない。
 互いに濡れているという“非日常的”な状況。
 そして、口内の熱さと……わずかなアルコールの香り。
 口づけてみて、そういや今日は酒を飲ませたんだと気づいた。
 見た目、そんなに変わってねーんだもんな、コイツ。
 ひょっとしなくても、それなりに飲めるクチってことか。
「っ……」
 髪を撫で付け、頬に触れる。
 ……悪くないな。
 普段と同じ顔のようで、こうしてまじまじ見ると違っても見える。
 …………というか、明らかに違う。
 普段は見せないような、無防備な顔。
 こんな顔してるときの彼女は、うまい。
 キスをしたばかりだから、かもしれない。
 ……まぁ、どちらにせよ今の俺しか見ることのできない顔だ。
 トクベツ。
 まさに、その言葉がしっくりくる。
「……手伝ってくれるか?」
「え?」
「禁煙まで。お前の唇、貸してくれ」
「っ……」
 その距離のまま囁くと、目を丸くして、かぁ、と頬を赤く染めた。
 だから、そーゆー顔するな。
 めちゃめちゃかわいいじゃねーか。
 ……キスだけじゃ済まなくなる。
 さすがに車内でソレはねーけど。
「っ……ぁ」
 ちゅ、と唇を重ね、改めて見つめる。
 短いキス。
 それでも、ことは十二分に足りる。
「瑞穂」
「っ……はい……」
「もうしばらく、俺の彼女でいろよ」
「……っ……」
「嘘も貫けば真って言うだろ」
「そ、れは……でも……」
 ちゅ、と頬へ口づけてから、耳元で囁く。
 くすぐったそうに身をよじられ、その姿が自身の中にある感情を昂ぶらせる。
 ……追いかけたくなるだろ、ンなことされたら。
 たまんねぇっつの。
「瑞穂……」
「ん……せんせ……」
「先生じゃない。彼氏だろ?」
「っ……壮士、さん」
「なんだ」
「…………だって……あの……」
「だって、じゃない。こういうときは『うん』って言うモンだって教わらなかったのか? ……俺に」
「っ……」
 ぺろり、と耳たぶを舐めてから、首筋へ唇を寄せる。
 先日付けたばかりの跡。
 そこへ再度口づけると、彼女がぴくんっと反応を見せた。
 白く、柔らかい肌。
 ……それだけじゃない。
 わずかに触れるだけで、鋭く反応を見せる。
 この感度のよさは、危険だ。
 どうしたって、先を求めてしまいたくなる。
「……っ」
 ちゅ、と唇を当ててから離れ、仕方なく運転席へ座り直す。
 依然として雨は――……降ってはいたが、小康状態にまで落ち着いていた。
 さっきの土砂降りはどこへやら。
 片鱗がフロントガラスに大粒の水滴として残ってはいるが、空は先ほどまでとは異なり、すでに白もやで明るくなり始めている。
「…………」
 ち。
 内心で舌打ちをしてからキーを差し、セルを回す。
 今ここで粘ってもできることは少ない上に、割と無理であるのは確定。
 ……ま、わかっちゃいたけど。
 相手が彼氏持ちって時点で、最初からどうにもできないって知って動いてんだから。
 あとの祭り。
 後悔。
 ……今ごろ何してんだ。
 そうは思うが、あと戻りできない。
 引き返しはしない。
 手に入れたい、と思った。
 我侭でもいい、道を外れてるでもいい……なんとでも言え。
 欲しい女。
 どうしても、そばに置きたいヤツなんだ。
 だから――……手を出した。
 もう、引っ込めたりしない。
「……いいか?」
「あ、はい」
 ギアに手を置き、彼女を見る。
ちょうどベルトを締めたところで、目が合うとまだ頬に赤みこそ残っていたが、おずおずと笑みを浮かべた。
 ……はい、っつったな?今。
 それ、忘れんな。
「…………」
 意地が悪いっつーより、ろくでもねーな。俺は。
 今の言葉は俺に都合いい質問へ対するモンじゃなくて、単なる準備ができたって意味の『YES』なのに。
 笑みを向けられた。
 うなずいてくれた。
 ――……キスを拒否られなかった。
 それだけで肯定されてるモンだと都合よく捉えてる自分が、情けなくもある。
 だが、それが安心材料でもあるから、違うとは否定できないし、したくない。
 今の俺が、俺であるためのモノ。
 信じて、納得して、勝手に解釈しとかないと、前には進めないだろ。
「…………」
 ハンドルを握り、ギアを入れてクラッチから足を離すとともにアクセルを踏み込む。
 スムーズに動き始める、車体。
 この一連の流れが好きだから、MTはやめられない。
 ……それと同じ理由、か。
 コイツに触れてるときが好きだから、離れられなくなった。
 会話が、向けられる笑顔が、そして――……すべての感触が。

 好きだから、か。

 そういや、久しくそんな言葉口にしてねーな。
 コイツには言われたのに。
 あのとき本当は、『やっぱり』と安心するとともに、ものすごく嬉しかったのに。
 ……俺は、口にしなかった。
 特別を意味する『好きだ』という言葉は、ただの一度も。
「…………」
 7月7日、これから七夕の夜が来る。
 1年に1度会うことが許される、伝説の恋人同士。
 ……果たして、今夜の空は晴れるか。
 残念ながら、星は出ないかもしれない。
 だが、虹は架かるかもしれない。
 どちらか選べといわれたら、間違いなく後者。
 悩む余地はない。
 それでも――……願いをかなえてもらえるならば、幾らでも空を見上げる。
 言うべきときが来た。
 満ちた。
 あとは――……俺次第。
 駐車場の出口で清算をし、左折して134号へ。
 アクセルを踏み込み、スピードを上げて流れへ追いつく。
 そのとき、ギアから離した手が無意識のうちに唇へ触れていた。


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