結婚は人生の墓場だ。
そういう輩は、ごまんといる……らしい。
だが。
俺には、それが信じられなくて。
ついでに言えば、そんなのは自分を正当化するための嘘であり、相手に対してめちゃんこ失礼な言い訳だと思う。
結婚するってことは、当然いろいろ考えて、迷ったり悩んだりしたりして、でもそれでもどうしても一緒に居たいから得る選択肢。
……それなのに、だ。
俺の周りにも、何人か居る。
『結婚する前はああだったのに』とか、『サギだよ、サギ』なんて頭を抱えるヤツらが。
……しかーし。
俺はそんなことなく。
にんまりと満面の笑みを浮かべた上で、こう切り出せる。
『ウチの奥さんは、俺にはもったいないくらいよくできている……俺の自慢』だ、と。
振り返ればいつもかわいい顔で微笑んで。
いつだって、温かくてうまい飯を作ってくれて。
時にはちょっぴり泣きそうになったり、ほんの少しだけ怒ってみたり。
……だけど、それもすべてひっくるめても尚、やっぱり『かわいいなぁもー』と言いそうになるほど頬が緩む。
最愛で、絶対の奥さん。
……これが、ポイント。
彼女に、『よその人に話すときは、奥さんって言ってね』と忠告されてるので、そこだけは死守したい。
なんでも、『「ウチの奥さん」と自分のお嫁さんを紹介する男の人は、すごくかわいく見えるから』だそうだ。
…………。
……男の世界には、よくわからないことかも。
でも、俺にとっての絶対は、当然彼女で。
彼女を中心にこの世界がぐるぐる回ってると言っても、過言じゃないくらいだから。
電話でも、メールでも、いつだって彼女と触れられればそれだけで笑みが浮かんで。
『だらしない』と怒られようがなんだろうが、俺には関係ない。
俺だって、そりゃあここまで『愛妻家』になるなんて、思いもしなかった。
だがしかし。
想像できなかったのは、遠い過去のこと。
今の俺は、誰よりも幸せで誰よりも嫁さんを愛してる……正直な旦那に違いないから。
……だから。
今日もまた、なるべく早めに仕事を切り上げたら、まっすぐ家に帰ってまず彼女に言おう。
『ただいま』とひとこと、満面の笑みを添えて。
「はー……やっぱ落ち着く」
さんさんと日が降り注ぐ、窓際の席。
……いや、正確には、どっちかっつーとカウンター席。
うん。まぁ、なんだ。
一応、小さな窓がすぐ横にあるっていう点では、決して間違った表現なんかじゃないだろーけど。
「おまちどーさまです」
「お」
まるで、語尾にハートマークでもがっつり付いていそうな、かわいい声。
反射的にそちらを向くと、いつもと変わらない、こう……くすぐったくなりそうなほどかわいい笑みがあった。
彼女は、この喫茶店のウェイトレスをしている、みやこさん。
お年は聞いちゃいけないと最初に釘刺されたので、してはいない。
だが、しかーし。
このかわいらしい声と表情からしても、恐らく俺より絶対年下のはずなのに、この方俺よりも遥かに年上でらっしゃったりする。
短いスカートから見える眩しい太ももは、反則だろ。絶対。
とてもじゃないが、お年相応にはまるで見えないぴっちぴち20代の足だ。
「……はー……」
ごゆっくり、とひとこと残して去っていった彼女の後ろ姿を眺めながら、情けなくも頬が緩む。
新しい朝の始まり。
毎日同じ光景ながらも、やっぱり、決まった時間に彼女と接することができるのは、俺にとってのシアワセ。
「……ふ」
紙ナフキンに置かれた銀のスプーンを握り締めながら、また、なんとも言えない笑みが浮かんだ。
「随分と機嫌がいいですね」
「あ、わかります?」
カウンター越しに声をかけてきたのは、この店のオーナーであり、俺のアパートの大家さん。
この店の2階部分がちょうどアパートの部屋になっていて、俺以外にも何人か住んでいる人間はもちろん居る。
ちなみに、ここのすぐ隣はコンビニが入ってて。
お陰で、俺としては車を駆使するまでもなく、便利で何ひとつ不自由ない悠々自適な暮らしをエンジョイしていられる。
付け加えるならば、徒歩5分の距離にドラッグストアもあるし。
……あー。
ホント、俺にとっちゃ『駅まで徒歩5分』とかって立地条件よりも、ずっとこのほうがありがたい。
ありふれたと言えばそれまでだが、割ときれいな2DK。
家具もほとんどない俺にとっては、十分すぎるほど大きな城。
「何かあったんですか?」
にこやかな笑みとともに差し出してくれたコーンポタージュを受け取りながら、含み笑いが漏れる。
……うまいんだよな、コレ。
本来、このモーニングの時間帯には提供されないメニューの、これ。
カルビピラフなんて、どう考えても朝から食うのは……俺しかいないんじゃないか。
がっつりランチメニューのこれを出してもらえてるのは、間違いなく特権だろう。
俺がメシに困ってると知って以来、こうして早朝にもかかわらずウマくて温かいメシを提供し続けてくれていた。
昼間は、それこそのびりした住宅街にあるカフェそのもの。
だが、ランチタイム後の休憩を挟んだ夕方からは、酒も提供し始める別の顔を持っている。
……これがまた、イイんだよ。
酒もうまいけど、当然のようにつまみも最高。
帰りのアシの心配がないってこともあって、何度ギリギリまで飲み続けて家に帰ったことか。
朝気付いたら玄関だった、なんてことも何度かある。
……だけど、そんな醜態をひけらかしているにもかかわらず、マスターは翌日必ずってくらい、胃に優しいメニューを提供してくれるんだよな。
ほんと、頭が上がらない。
それこそ、巷でいう『ナイスミドル』って言葉がよく似合う、男から見てもカッコイイ人。
渋さというか、風格というか……。
とにかく、俺も見習わせていただきたい。
「実は今日、朝からイイ夢見て」
「……ほぉ。夢ですか」
「ええ」
スプーンの柄を弄りながら、テーブルに頬杖を付く。
何度か見ている、同じ夢。
……いったい、いつごろからだっただろう。
同じ女性が夢に出てきて、俺の『奥さん』になってくれるようになったのは。
気付いたころから、見るようになっていた夢。
しばらくは御無沙汰だったんだが、今日は久しぶりに鮮明な映像としてまた現れた。
見たことがあるような、どこかで会ったことがあるような。
そんな、少しだけもどかしさから抜け出せない相手だとはいえ、夢の中では確かなこと。
髪の長さも、表情も、クセも。
何もかもを的確に述べられるんだが……しかし。
夢の中ではハッキリと見えている顔や姿も、目覚めると同時にキレイに忘れてしまう。
だが、あれは俺の理想の彼女。
三十路を遥かに過ぎた今も、そう思う。
願望、だと言われれば否定はしない。
だが……一度ならず二度ならず、もう、数え切れないくらい見続けている夢。
だからこそ、そんな簡単な偶然だとはどうしても思えなかった。
「……女性の夢ですか?」
「お、さすがはマスター。鋭い」
グラスを磨いていた彼がにやりと笑った。
……く。
その顔は反則だって。
まるで健全な青少年育成に反するようなシロモノを見つけた父親みたいで、一瞬気恥ずかしさが浮かぶ。
「最近っつーか、こー……年齢が年齢だからってのもあるとは思うんすけどねー」
「何を言うかと思えば。鷹塚先生は、まだまだお若いでしょう」
「あはは。あざーっす」
驚いたように瞳を丸くされ、たとえそれが彼独特の演技だとわかっていても若干嬉しかった。
……って、いやいや。
いつまでも青二才でいるわけにはいかないから、そろそろやめなきゃいかんのだが。
「なんか、毎回シアワセな結婚生活送ってるんすよね」
「ほう」
「そんでもって、こう……むちゃんこかわいくて、むちゃんこスタイルがよくて、むちゃんこメシのうまい嫁さんが俺の隣に居て……」
「……それでべったり甘える、と」
「そうそ――って、マスター。何言わせるんすか」
「いやいや。若いっていいなあ、と」
「……ったく」
危うくイケナイ部分までちゃっかり口が緩みそうになって、慌てて動きを止める。
お茶目な人だと年上の男性に使っていいのか悩むが、その言葉しか思い浮かばないんだよな。
……ほんと、面白い人だ。
いや、だからこそこんな住宅街にあるにもかかわらず、この店が繁盛してるんだろうが。
「……あ。鷹塚センセ、そろそろお時間じゃないですか?」
「っと。そーでした」
ひょっこり厨房から顔を出してくれたみやこさんを見て、慌てて立ち上がる。
腕時計してるってのに、時間に気を払わないってのはどーかと思う。
ま、それが俺らしいっちゃらしいワケだが。
「……ま、夢は反対って言いますからね」
小銭を財布から取り出してテーブルに置き、立ち上がると同時に苦笑を浮かべる。
ちょうど、空になった皿を手にしたみやこさんと目が合って、だからこそ笑うしかなかった。
「経験者はかく語る、っすよ」
ポケットから車の鍵を取り出し、握り締めたままドアへ。
差し込む朝日は、いつもと同じ。
何ひとつ変わることなく裏切ることなく、いつもと一緒の感じだった。
「……結婚ってのは、やっぱ墓場っすから」
豹変。
裏切り。
そして、嘘。
そんなモンを塗り重ねただけの、俺にとってはまさに後悔の塊でしかない時間。
……そう。
今からちょうど6年前、俺はいわゆる人並みに『新婚生活』というモノを体験していた時期があった。
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