「……あの。お話……いいですか?」
「イヤだ、つったら?」
「……できれば、聞いていただきたいです」
「…………はー……」
 カラカラと小さな音を立ててドアを開けた葉山が、後ろ手で閉めながら俺を見上げた。
 その顔。
 穏やかなのに有無を言わせないような力があるようで、眺めたままごくりと喉が鳴る。
「……っ…」
「…………」
 はぁ、とため息をついてから彼女の腕と身体の隙間に手を入れ、そのままドアノブを指先でとらえる。
 当然、目を見てすることはできなかった。
 ……ただ。
 この静かな環境で、主のいない部屋で、コイツとふたりきりだと考えるとそれだけでどうにかなりそうで怖い。
 怖い、か。
 最近、俺はそんなんばっかりだな。
「っ……ま、待ってください!」
「…………」
「聞いてください。私……鷹塚先生に、どうしても聞いてもらいたいことがあるんです」
「俺はない」
「っ……鷹塚先生!」
 わずかにドアを開けた途端、葉山が両手で俺の腕を掴んだ。
 しっかりと伝わってくる、温かい体温。
 途端、ぎくりと身体が強張る。
 ……子どもか、俺は。
 はたまた、リアルを何も知らない中学生か。
 らしくもない反応に、いちいち驚く。
 ……そして呆れる。
 自分自身が情けなくて。
「鷹塚先生……」
 静かに、俺の腕を掴んだままで葉山がゆっくり見上げた。
 これまでと違う呼び方。
 言い方。
 纏わり付いている雰囲気が違って、喉が鳴る。
 予感か、はたまた気付いていたのか。
 どちらかは、正直よくわからない。

「……好きなんです、鷹塚先生のことが」

 微かに、葉山の目が揺れたように見えた。
 言葉が、震えたような気がした。
 ……いや。
 もしかしたらそれはすべて、俺のほうだったのかもしれない。
「……ずっと……ずっと。昔も、今も。……変わらない、私の気持ちなんです」
「…………知ってる」
「え……?」
「お前の気持ちぐらい、とっくに知ってたよ」
 そうじゃないか、なんて予想はハナから抱かなかった。
 俺を慕ってくれていた過去。
 アレがあるから、コイツが俺に好意を抱いてくれていることくらいわかっていた。
 何をしても怒らなかった。嫌がらなかった。
 それどころか、逆に寄り添うことを望んでくれた。
 だとしたら――……恐らく理由はひとつ。
 俺に、明らかな好意を抱いてくれているから。
「ずっと好きだったんだろ? 俺が。じゃなきゃ、おかしいだろ? あんな無茶苦茶されて、それでも嫌がらないで来るなんて」
 俺は今まで、コイツに対して何をした。
 べたべたと平気で触り、顔を寄せ、まるで自分の『モノ』扱いだ。
 挙句の果てには、拒めとも言った。
 自分が傷つくのが怖くて。コイツに拒否されるのが耐えられなくて。
 ……なのに、だ。
 コイツは平気な顔で俺のそばに居てくれた。
 拒否するどころか、かえって俺を受け入れてくれようとしながら。
「怒らなかった。嫌がらなかった。だろ? ……ズルいか? 俺は。ひどいか?」
「……先生……」
「なじっていい。責めていいぞ」
 眉を寄せて、つらそうにというよりは困惑気味に俺を見上げる葉山。
 確かに、予想なんてしてなかっただろう。
 彼女にとってみれば、一世一代の告白かもしれない。
 ……そりゃそうだ。
 小学校のときの元担任。
 その本人に対して、彼女が抱き続けていてくれた何年分もの想いを口にしたにもかかわらず、俺からの返事が『知ってた』だったんだから。
「……もういいか?」
「あっ……待ってください!」
 これ以上素直すぎる想いに触れていられず、目を逸らしてから彼女の肩に手を置いた途端、慌てたように葉山が身体ごと俺へ向き直った。
 だが。
「……ッ!」
「っ……!」
 反射に違いない。
 彼女に触れられて咄嗟に思わず拳をドアへ当てると、ビリビリとした振動と予想以上に大きな音がした。
「……せん、せ……」
 拳を当てたまま、ドアと俺とに挟まれている彼女へ顔を寄せる。
 びりびり、と。
 まるで電気でも走ったかのように、こうするだけで肌に感触がある。
「……あンとき警告したぞ。これ以上近づいたら、抑え切れねぇって。なのに、なんで近づくんだよ」
「……それは……」
「すげぇ傷ついてるはずなのに、なんでもねぇみてーに平気な顔して。……来るな。お前を傷つけるのは、こりごりだ」
 搾り出すかのように出た声は、低くて、掠れてて。
 自分じゃないみたい、なんてことは言わない。
 明らかにコレは俺だから。
 誰よりも自覚する。
 一歩手前、それこそ寸前で抗っているコイツの『元担任』としての自分。
「嫌なんだよ……! お前が泣く。それがわかるから!」
「っ……泣いたりしません! 私は……っ!」
 ふるふると首を横に振った彼女の髪が、さらりと動く。
 それを見ていたはずなのに、どうしてか、すぐここにある首筋へ――……指が動いた。

「ッ……首輪、着けられたいのか?」

 誰が飼い主かわかるように。
 曲げた人さし指を顎に当てて上を向かせ、ぴたりと視線を合わせる。
 戸惑い、不安そうに揺れる瞳。
 それすらも、俺を試してるように見えて喉が鳴りそうだった。
「…………けて」
「……何?」
「…………着けて、ください……」
「ッ……!」
 まっすぐ俺を見た葉山は、静かに確かにそう言った。
 途端目が丸くなり、思わず拳を握る。
「だって、だって……私……っ」
「……ッ……」
 懇願にも似た眼差し。
 一瞬、その表情が昔の彼女とダブり、身体が固まった。
「っ……!」
「……なんでだ」
「え……?」
「こうまで言われて、どうして離れない。……傷つくのはお前だぞ……ッ」
 彼女の顔の横へ手をつき、もたれるようにして囁く。
 すぐここにある、髪。顔。
 近すぎて、甘い香りがして、余計苦しくなる。
 ……それでも。
 だから離れたい、離したい、などとは思わなかった。
「でも……っ」
「好きって気持ちはわかった。じゃあその先は? どうしたいんだ?」
「……え……?」
「俺はそれじゃ終わらない」
 ひたり、と両手を頬に当ててしまいたかった。
 そのまま思うようにできたら、楽だろうか。
 ……そんなワケないよな。
 葛藤して、苦しんで、結局コイツを泣かせる。
 それがわかる以上、やすやすと手を出すことはできない。
 弱いのか、俺は。
 ……それとも、言い訳をして逃げてるだけか。
「好きなら、欲しい。当然だ。大人だからな。子どもと違って、好きになってもらえたら十分なんて考えじゃ終わらない」
「……え……?」
「欲しがるか? 俺を」
 見下ろすことは、これまでも何度となくあった。
 だが、感覚が違う気はする。
 こんなふうにコイツを押さえ込んで、逃げられないように囲うことなんてこれまでしなかった。
 どんなときも。
 ……恐らく。
「俺が欲しいか?」
「っ……」
 囁きと同時に、目が細まった。
 静かな声。
 普段の俺にはない、モノ。
「欲しけりゃ取りにこい。……俺は何もしてやらないからな」
「っ……」
「モノにしたかったら、自分で動け」
 ズルいのは確実。
 だが、怖さがあるから自分からは、どうにかしたくない。
 一度でもタガが外れたら、泣かれても喚かれても、止まれない。
 ……無理なんだ。俺には。
 たった一度。されど一度。
 コイツを欲しい、と思ってしまったから。
「……動かないなら、これ以上俺を煽るな」
 耳元で目を閉じたまま呟き、身体をずらしてドアを開ける。
 今の今まで感じていた空気とは違って、ひんやりしている廊下が素直に心地よかった。
 甘い香りもない、欲が芽を出さない、素のままでいられる場所。
 教師という仕事上ここにいる、自分。
「せんっ……! 鷹塚先生……!!」
 背中に葉山の声がかかり、反射的に足が止まりそうになった。
 それでも、振り返ることなく職員室まで向かう。
 その途中、相談室から小川先生と小枝ちゃんが出て来たが、ちらりと視線を向けただけで当然すぐに戻した。
 ……俺には関係ないこと。
 恐らく小枝ちゃんが葉山とあれこれ話すんだろうが、それも関係ない。
 しない、と決めた。
 俺からは何も。
「…………は」
 職員室に入って後ろ手でドアを閉めたとき、ため息か短い笑いかのどちらかが漏れて、一瞬ドアへもたれていた。


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