「………………」
服を着替えさせ、ホテルをあとにして。
渋滞に巻き込まれながら彼女の家の前へ着いたのは、もうすっかり日が暮れてからだった。
車の通りがない、静かな住宅地。
街灯の白い明かりが道を照らすも、そこを歩く人間は居ない。
「…………」
「…………」
今までずっと、話なんてしなかった。
お互い口を開かず、流れるFMだけが唯一の共通点。
葉山の家の前に辿り着いた今も、彼女は何も言わなかった。
「……教え子には手を出さないって……意味、やっとわかりました」
シートにもたれて小さなため息を漏らしたとき、不意に葉山が呟いた。
それでゆっくりと視線が向かい、おずおずと上げられた彼女の視線とかち合う。
儚げな、目元。
泣いてこそいないが、どうしても痛ましくて眉が寄る。
「……どうして、もっと早く気付かなかったんでしょうね。ずっとずっと……先生苦しかったのに」
ぽつりと独り言のように呟いた彼女が、視線を落とした。
膝の上に組んで揃えられている手。
そこを見つめたまま、薄っすらと口元に浮かんだ笑み。
……違う。
そんなモン、笑顔でもなんでもない。
痛々しいだけの、嘲笑にしか見えない。
お前には1番似合わないモノだ。
他人も自分も、いつだってわかってやろうとしているお前には、何よりも。
「……私、嬉しかったんです」
「…………嬉しい?」
「はい。初めて……キス、されたときも。あんなふうに強く求められた……ときも。すごく、すごく、どきどきしたんです。……苦しいくらいに」
ゆっくりと顔を上げた葉山が、今度は苦笑を浮かべた。
だが、それを見て眉が寄る。
そんな顔はよせ。
お前には似合わないモノだ。
ひどく不相応で、違和感しかなくて。
力ない言葉に、思わず奥歯を噛む。
「……でも、身体が動かなかった。先生の目が本気だったから。あんなに熱っぽく見られて、どうしていいか……わからなかったんです」
お前が悪いワケじゃない。
悪いのは、お前が何も知らないと知ってて無理矢理理解させようと強いた、俺。
……何も悪くないのに。
なのに、どうして自分を悪者にするんだ。
俺が恩師だからか?
昔世話になったからか?
……そんなの、もう何年以上前の話だ。
今の俺は、非難されることはあっても感謝されることなんてないのに。
「だから、先生にそういうふうに見てもらえたことが、私は嬉しいです。……対象として見てもらえたから、とても……とても、嬉しかった」
まるで噛み締めるかのように呟かれた言葉で彼女を見ると、正面を向いたまま何かを懐かしむかのような眼差しをしていた。
かと思いきやそれは一瞬で、ゆっくりと俺を見つめたときにはもう、眉を寄せて申し訳なさそうな顔になっていた。
「……ごめんなさい。先生が苦しんでたこと、気付かない振りしてたんです」
「…………」
「…………私なんかよりもずっと、先生笑ってなかったのに。いつだって苦しそうで、つらそうで。なのに私……見て見ぬふりしたんです」
……ひどいんです、私。
ぽつりと呟いた彼女が、膝に置いていた手をぎゅっと握り締めた。
それが目に入り、途端に苦しくなる。
「教え子には手を出さないって言ってたのに、ずっと自分のことしか考えてなくて。先生は、ずっと困ってたのに、それを見て見ぬフリをして。自分の都合ばかりを優先して……そばにいられることがただ嬉しくて……我侭ばかりで」
お前が悪いんじゃない。
だって、何もしてないだろ?
なのにどうして自分ばかり責めるんだ。
俺を責めればいいのに。
罵ればいいのに。
恨んで、俺のせいにすればいいのに。
なのに――……お前はどこまで俺を許してくれるんだ。
「私、ずるいんです。とても。……先生に護ってもらう資格、ないんです。自分のことしか考えてなかったんですから。……カウンセラー失格ですね」
薄っすらと、涙が滲んだように見えた。
声は震えていない。
だが、揺れているようには聞こえる。
……今の俺は、そんな顔してるのか。
刹那、唇を噛んで精一杯我慢しているような顔を見せた葉山に、たまらず手が伸びそうになった。
「……再会しないほうが、よかったのかな……って思います」
「っ……」
「すみません。私が、先生に会いたいと思ってしまったから……そのせいで、先生を苦しめたんですね」
違う。
お前が俺に会いたかったと言ってくれたとき、俺は嬉しかった。誇らしかった。
苦しんでなんかいない。
むしろ――……苦しめたのは、俺。
そばにいたいと言ってくれたのに、わかっていて遠ざけることしかしなかった、俺のせいだ。
「……どんなときもそばにいてくれて……支えてくれて。何もかも、私を守るためにしてくれたんですよね」
「っ……俺は……」
「だって、先生は本当に優しいから」
「……っ!」
「嘘じゃない。繕ってなんかない。……全部、本当の鷹塚先生です」
私、知ってるから。
目を合わせたまま微笑まれ、喉が鳴った。
……嘘だ。違う。
お前は何もわかってない。
俺に騙されたままなんだぞ。
なのに、なんでそんな顔するんだよ。
……わかってるクセに。
俺はそんな人間じゃないと、十分理解したはずなのに。
なのに――……なんで。
どうしてお前は、俺にそんなに優しいんだ。
「ごめんなさい。もう、特別扱いしてほしいなんて思いません。……大事な恩師を困らせるなんて、私、教え子失格です。先生に大事にしてもらう資格なんて、ないんです」
「っ……葉山……」
「ありがとうございました」
優しくしてくれて。許してくれて。
小さく呟いた彼女が、ぺこりと頭を下げてからドアを開けて降りた。
フロントに回ってから、俺の隣にある門扉を開け、そこでまた――……こちらに向かって深く頭を下げる。
「…………」
そのまま、彼女は二度とこちらを振り返ることなく玄関へ向かった。
鍵を開けられたドアが、ふたたび静かに閉まる。
その一連の動きを最後まで見てから――……思いきりため息が漏れた。
……何ため息ついてんだよ。
コレを望んでたんだろ?
アイツを護るためなら、なんでもするって。
「………………」
俺にとって、アイツはずっと特別だった。
初めて受け持ったときから、1番かわいいヤツだった。
素直で、俺を慕ってくれて――……誰よりも好きになってくれて。
……だから、ずっと憧れのままで保存させておきたかった。
キレイなままで。
汚さないままで。
理想上の人物として存在していたいと、そう決めたんだから。
「…………」
後悔しない。
なんでだなんて思わない。
……自分が決めたんだ。
それが叶ったのに、どうして――……眉間の皺が取れない。
「………………」
二度と開くことのないドアを一瞥し、ギアに手を置いて静かにクラッチを踏む。
望んだ結果が訪れて、それを悔やむなんて筋違いもいいトコだ。
だから子どもなんだ。
だからダメなんだよ、お前は。
そうやって何もかも……悩んで悩んで引きずるから。
休み明けの月曜日は、いつもと同じように巡って来た。
ただ、いつもより早く目が覚め、いつもより少しだけ早く学校に着いた。
ひとけのない、職員室。
だが、久しぶりに天気のいい日になったからか、窓から差し込んでくる白い光が眩しくて少しだけ鬱陶しく思った。
いつものように朝会を体育館で済ませ、教室に戻ってから学級指導を行う。
金曜と同じように登校して来て、表情もほとんど変わりのない子どもたち。
それに比べて自分は、感情に蓋がされたかのように笑いも怒りもしなかった。
「………………」
月曜日は、葉山の出勤日。
いつも来る時間には自然と職員室へ足が向き、彼女の向かいの机に着席していた。
腕時計を見ると、もう間近。
バス通勤の彼女は、ほとんどいつも変わらない時間にここへやって来る。
「っ……」
ちらりと目線を動かした、ドア。
そこが小さく音を立てて開き、いつもと同じバッグを手にした葉山が入って来た。
すぐそこに座っていた先生に笑顔であいさつし、通りすがりった事務の女性にも同じように頭を下げる。
……そして。
「……あ……」
ひたり、と目が合ってしまい、これまでだったら逸らしたにもかかわらず、まったく微動だにせず見つめ返す。
すると、表情が強張ることはなく……先に彼女がにっこり笑った。
まるで――……俺たちがふたりきりで会う機会ができる、以前までのように。
「おはようございます」
「……っ」
優しい、柔らかい声が耳に響いた。
昨日とは違う。
強くない。弱くない。
いつも通りの、彼女のモノ。
「おはよう」
彼女とは違い、笑みこそ出なかったが、目を逸らさずにまっすぐ声が出た。
それを見て、また満足げに笑った葉山が、立ったまま荷物の整理を始める。
……いつもと同じ。
何ひとつ、変わらない。
「…………」
彼女が決めたんだ。
なのに、俺が戸惑ってどうする。
コイツが勇気を振り絞って出した声を、無にするワケにはいかない。
大切な人間が、考えに考えた末に出した結果を、俺が否定してどうする。
……だから、普通に振舞う。
何もなかったかのように。
「…………」
葉山から手元へ目線を落とし、握り締めたままだった赤ペンを動かす。
これでいいんだ。
葉山が決めたことだから。
……いや。
俺が彼女に強いた結果だから。
――……だから、俺は気付かなかった。
溢れそうな涙を零さないために、彼女が唇を噛み締めていたなんてことは。
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