「っ……」
 前触れもなく目が開いた。
 さすがに身体こそ起こさなかったものの、あまりに勢いよく目が覚めてしまい、どくどくと鼓動が速まる。
 ……朝、か?
 カーテン越しの向こうが薄っすらと色づいているように見えて、枕元へ放ったままの携帯に手を伸ばす。
 4時、を少しすぎたところ。
 どうやら、昨晩あのまま眠ってしまったきり、一度も起きなかったらしい。
「……あ……?」
 布団の中で伸びをしてから上半身をゆっくり起こすと、額に付いていたらしい何かが落ちた。
 ……冷却ジェルの、アレ。
 名前が出てこなかったが、よく知ってる。
 ただ、我が家にあるはずのない物だ。
「…………」
 すでに乾燥して若干パリパリになってるそれをつまみ、ゴミ箱へ放る。
 そのとき、ああそういえば昨日はこの部屋に葉山がいたんだよな、ってことを思い出した。
 だが、あれは本当に現実起きたことだったのか?
 もしかして、夢か何かだったんじゃないのか?
「…………夢か」
 ぽつりと呟くと、つい今しがたまで見ていた夢の内容をまだ覚えているのに気づく。
 彼女は、覚えていた。
 あのころから今まで、約束としてずっと。
 ……俺は覚えていたのか?  いや、覚えていたとしてもそれを『本物』とは取ってなかったんだ。
 社交辞令のような、レベル。
 そんなモノだと思っていた。
 30歳を前にしての、結婚。
 大恋愛の末でもなければ、コイツならばと思っての結婚でもない。
 単なる、打算と妥協の末に得た体裁。
 しかもそれを間違いだった、のひとことで片付ける始末。
 ……大人がする行為だったのか、それは。
 だが少なくともそのとき、葉山を待とうなんて思いは微塵もなかった。
 当然だ。
 彼女は当時、小学生。
 俺の恋愛対象には絶対になりうるはずのない教え子なんだから。
「………………」
 俺は、将来を待っていなかった。
 でも、葉山は俺を待っていた。
 そのときを。
 大人になるのを……ずっと。
「………………」
 枕元にある、ドリンクゼリーと経口補水液。
 人知れず並んでいるそれを見て、やっぱり葉山がいたのは間違いなかったんだなと改めて思う。
 だが――……今、この部屋に彼女はいない。
 開け放ったままの間仕切りの向こうのリビングにも、もちろん姿はなく。
 物音ひとつしないのを見ると、この家自体に俺以外の存在がないとすぐにわかる。
 ……まぁそうだろうな。
 当然だ。
 だいたい、俺が鍵をポストに入れて帰れっつったんだ。
 今日は木曜日。
 アイツはアイツで、心の教室相談員の仕事がある。
 もちろん、仕事があるのは俺も同じ。
 昨日までのぐったり感とか、妙なしんどさがない今、とっととシャワーでも浴びて仕事に行くのが大人としての筋ってモンだ。
「………………」
 経口補水液のキャップを捻り、封を開けて口にする。
 わずかに感じる、塩味。
 それが、今目の当たりにしている現実とリンクして、小さくため息をつく。
 そうそう現実は甘くない、ってな。
 がらんとしているリビングを眺めたまま、再度漏れたため息に鼻で笑う。
 何、がっかりしてんだ。
 何、期待してんだ。
 アイツは俺のじゃない。
 自分で、決めたクセに。
 ……首輪、ね。
 よく言ったモンだ。
「……はー……」
 1/3ほどになったペットボトルを持ち、立ち上がってフラつく身体を壁に当てた手で支えながら風呂場へ向かう。
 するとそのとき、背後でガチャンとドアの開く音がした。
「……え……?」
「あ、おはようございます。具合どうですか?」
 見間違い、じゃない。
 そこにいるのは、昨日と同じ格好をしている葉山。
 ……そう。
 昨日ここに来たときとまったく同じで、今もレジ袋を下げている。
「……いや……具合は、平気」
「よかったです」
 ほ、と胸に手を当てた彼女が、にっこり笑ってこちらへ歩いて来てから袋を流しへ置いた。
 そして、いろいろと中身を取り出しながら、振り返らずに声をかけてくる。
「何か食べれたらと思って、ヨーグルトとか、おにぎりとかいろいろ買って来たんですけれど……。あ、アイスもいいんですよ?」
 にっこり笑った彼女が、そこで俺を振り返った。
 当たり前の顔で、すぐそこにいる。
 ……なんで。
 俺に笑いかけている彼女が、不自然で俺にとっては当たり前じゃなくて、つい……身体が先に動いた。
「っ……」
「……なんで」
「え……?」
「なんで俺から離れねぇんだよ」
 腕を伸ばし、簡単に抱き寄せる。
 小さな身体。
 それでも、俺よりずっと温かくて、顎下に来た髪は柔らかかった。
「なんでいつまでも寄り添ってくれんだよ。俺はお前に何も返してやれてないのに」
「……それは……」
「利用されてる、って……なんで考えねぇんだ」
 彼女の腕に当てた手を滑らせ、力を込める。
 安心する。
 俺の手の中にあるコイツの存在が、とても。
 ……そうだよな。
 遠ざけたほうがよっぽど、俺にとっては当たり前じゃない。
「……それは違います」
「…………何?」
「利用されてるとか……そんなことないって、知ってます。だって鷹塚先生、そんなに器用な人じゃないですもん」
 首だけを曲げて俺を見上げた彼女が、ふふ、と笑った。
 その顔に、腕から力が抜ける。
「鷹塚先生が、人を騙すようなことできる人じゃないって、私もみんなもちゃんとわかってます」
「…………」
「だから、そばにいたいんです。お役に立ちたいんです」
 だめ、じゃないですよね?
 小さく小さく呟いた彼女に、開いた口を静かに閉じる。
 ……コイツは、俺をどこまでわかってるんだ。
 ホント、感心とかじゃ済まないレベル。
 何もかもお見通しってことか。
 ……なるほどな。
「……っ……!」
 目を閉じ、腕の中の彼女だけを感じる。
 ――……だが。
 するりと腕から手首、そして指先へと手のひらを滑らせたとき、彼女の右手に違和感を感じて思わず手が止まった。
 指先から確かに伝わってくる、硬い感触。
 装飾があしらわれている丸みを帯びたコレは、それこそ先日までなかったモノ。
 ……いや。
 先日どころか、今までずっと存在しなかったモノだ。

 指輪。

 右手の薬指にはまっている、細いリング。
 目で確かめることはしていないが、感触でわかる。
 指にはまってるモンなんて、それしかない。
 ……なるほど。
 宣戦布告めいたモノを感じ取り、緩みそうになった口元が引き締まる。
 目には見えずとも、絶対的な存在感のアピール。
 先に所有の輪を着けた、か。
 まぁそうだろう。その行為は大正解だ。
 こんだけかわいくて素直で従順な子がうろうろしてたら、どいつもが声をかけるに違いないからな。
 ましてや、この業界。
 俺みたいに、あぶれた教師が手を出そうとしたんだから。
「……ありがとな」
「っ……いえ……」
「お前、今日仕事だろ? ……悪い。もう平気だから、帰っていいぞ」
「わかりました。……でも……無理しないでくださいね?」
「ああ。わかってる」
 両手を彼女から離して一歩退き、手を置いて頭を撫でる。
 さすがに、風呂に入っていけとは言わない。
 着替えもない上にそんな間柄でもない今、言えるはずがない言葉だから。
「じゃあ、これで失礼しますね」
「……サンキュ。助かった」
「よかったです」
 バッグを持ち直した彼女が、わずかに頭を下げた。
 そのまま玄関に向かったのを見て、あとを静かに踏む。
「お邪魔しました」
「こっちこそ。ありがとな……あ、送ってったほうがいいか?」
「いえ、大丈夫です」
 靴を履いた彼女が、ドアを開けて一歩外へ踏み出した。
 そのとき、東の空が白くなっているのが見えて、もうじきに日が昇るであろうとわかる。
「…………」
 閉まったドアに手を伸ばし、鍵を閉める。
 振り返れば、もうそこには誰もいない、がらんとした空間だけ。
 ……もう、ない。
 どこを探しても、彼女の幻は。
「…………」
 流し台に置かれた鍵の束を取り、握り締める。
 少し前ならば、彼女はこう言っただろう。

 好きだからです、鷹塚先生のことが。
 どうしても……好き、なんです。

 はにかんだ笑みで、優しい眼差しで。
 頬を色づかせた彼女は、とてもかわいい。
 手を伸ばさずにはいられない……そんな存在だ。
 だが、先ほどまでの彼女からは『好き』という単語がひとことも出なかった。
 ……好きじゃなくなったか。
 それとも、今は言えないだけか。
 …………そう。
 会ったことのない“彼氏”とやらが今、アイツのそばにいるから。
「………………」
 チャリ、と音が鳴った鍵を強く握り締めながら、ふ、と向こうを見つめる。
 決めた。
 ……いや。決まった、と言ったほうが正しいかもしれない。
 昨夜から今朝までの彼女の行動から、弾き出される可能性。
 そこから、勝率が導き出された。
 やる、しかないんだ。もう。
 俺に残されたのは、ひとつ。
 行動という名で獲ることしかもう残されてないんだと、改めてわかってしまったから。


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