ピンポーン
「…………ん……」
部屋に響いた無機質なチャイムの音で、目が覚めた。
どうやら、うたた寝をしていたらしい。
付けっぱなしのテレビには、深夜のバラエティ番組の再放送が流れている。
「……っ……」
軽く頭を振って立ち上がり、玄関へ。
ジーンズに裸足という、いつもの格好。
ただ、このときの俺は気付かなかった。
間取りが、今住んでるアパートじゃないってことに。
「……あれ」
「こんにちは」
誰かも確かめずにドアを開けると、そこには子どもがひとり立っていた。
天使の輪がまず目に付く、さらさらのショートカット。
そして、デニムのショートパンツにセーラー襟のTシャツを着ている、女の子。
……そう。
後ろ姿は、男の子にも見える子。
だがこの子は、れっきとした女の子だ。
自分が長い髪が好きなせいか、キレイな髪なんだから伸ばせばいいのに、と言ったこともある。
だが、卒業までその姿を見ることはなかった。
軽はずみな俺の言葉で、内心彼女は深く傷ついていたに違いない。
「せんせ、こんにちは」
にっと笑った彼女に、ぴんと来なくて一瞬言葉に詰まった。
……あー。ああ、そうだよな。
なんで今一瞬、違うって思ったんだろ。
やけに目線の高さが違いすぎるせいか、立ったまま頭をかく。
「葉山……か」
にっこり笑った彼女を見て口にした途端、驚いたように目を丸くした。
「そんなふうに呼ばれたの、久しぶり」
「……え? そうか?」
「うん。だって、いつも先生『はやみー』って呼んでるでしょ?」
「…………あー……そうだな」
そうだったよな。
くすくす笑われて、そういえばと思い直す。
だが、咄嗟に出たのは彼女の苗字そのもので。
自分でも、どうして普段口にしている愛称より先にそっちが出たのか少し不思議だった。
「どうした? 今日、休みだろ?」
「うん。これ、お母さんが先生にって」
「……俺に?」
ドアを開け放って彼女の目の前へしゃがむと、大きな紙袋を差し出してくれた。
受け取って中を見ると、幾つかタッパーが入っている。
「先生、最近痩せたんじゃないかって心配してたよ。クラスのみんなも言ってたし……ちゃんとごはん食べてる?」
「……食べてない」
「…………もー。先生、子どもじゃないんだからー」
「わり」
ここ数日、基本学校で21時を越すことが多かった。
当時は学年主任の先生が厳しくて、細かいところまで指導が入ったりなんだり……ストレス抱えてたときだ。1番。
確かに、2年目なのに6年を受け持ったってのもあったんだろうが、本当にキツかった。
この年を越えたら辞めようか、なんて思いがまったくなかったワケでもないほどに。
「ちゃんと食べなきゃダメだよ?」
「……お前、俺のお袋みたいだな」
「お母さん? 私が?」
「うん。なんか、お袋ーって感じ」
「っ……子どもじゃないよ? もう」
「はは。ワリ」
子どもじゃない、か。
彼女にとっては、確かに心外だったんだろう。
でも、俺にとってはやっぱり彼女は子どもだった。
大事な、かわいい教え子。
ぐりぐりと頭を撫でたときに見せる不服そうな顔も、まだまだ幼くて子どもっぽかったから。
当時、クラスの中では背が大きかったとはいえ、俺に比べればまだまだ。
だからつい、クセで目線を合わせるためによくかがんだり、しゃがんだりしていた。
「いつも悪いな」
「全然。先生の役に立てるなら、嬉しいし」
受け取った紙袋を片手で持ってから、彼女の頭に手を伸ばす。
つやつやの髪。
さらさらの感触。
心地いいモノ。
……そう。
俺はこの髪の柔らかさを、よく知っている。
「……カッコ悪い担任だよな」
「そうかな? でも私、先生のこと好きだよ」
「そっか……サンキュ」
不甲斐ないのに、そんな俺でも『先生』で。
彼女にとっては、たったひとりの担任。
特別な存在として、捉えてくれている。
それが嬉しくもあり、若干プレッシャーでもあった。
……子どもにとって、最後に受け持たれた担任は特別だと6年を受け持つことになったとき、校長に言われた。
だから、せめて年賀状だけでも卒業後5年は出せ、と。
自分にとって相手は何十分の1かでしかなくても、子どもにとって担任は1対1で向こうにいる相手なんだから、と。
「……先生は?」
「ん?」
「先生は、私のこと……好き?」
彼女は、笑っていた。
夏の強い日差しを背に浴びながら、俺を見上げて。
ただ、少しだけ。
ほんのわずかに、その表情が強張ったように見えた。
まるで、緊張でもしているかのように。
一世一代の、告白であるかのように。
「ああ。好きだぞ」
さらりと出た答えは、当然のモノ。
決まりきっている言葉。
だが、それは紛れもない本心だったし、心底から出た言葉だ。
――……ただしそれは、教え子として見ている彼女に宛てた言葉。
コンパで会った女に対するモノとは、次元が違う。
欲しい、から出る好きじゃない。
あくまでも、親愛の意味の好き。
だから、そっかぁ、と言いながら嬉しそうに照れくさそうに笑った彼女を見て、かわいいなと笑みが浮かぶ。
「じゃあさ、大人になった私にも言ってくれる? 好きだ、って」
「……え……?」
「そうしたら私、先生のお嫁さんになれるよね?」
まったくヘンな意味じゃない、純粋な想いそのものを抱いてくれている彼女。
幼さゆえの言葉だったとは思う。
だが、すでに俺にはなかったような素直な部分で。
きらきらした眼差しで見られた途端、思わず喉が鳴った。
「私が大人になったとき、先生がまだひとりでごはん食べてるようだったら、の話だよ?」
「あ? ああ。そっか」
もー、と言いたげに眉を寄せた彼女に笑い、曲げていた膝を伸ばす。
そのまま、玄関へ紙袋を置いて軽く伸びをすると、心底心地よかった。
「でもいいのか? はやみーが大人になったころには、俺おっさんになってるかもしんねーぞ?」
「あはは。大丈夫だよー。先生は、おじさんになってもカッコいいと思う」
「そーか?」
「うん。だって、先生だもん」
にっこり笑ってそう言った彼女は、そのとき信じていた。
信じて疑わない眼差しだった。
力のある、モノ。
俺のように『冗談』で言っているようなセリフじゃない。
……だが、それがわかるからこそ不思議にもなる。
どうしてそんなに信じていられるんだ。
絶対的な想いを持てるんだ、と。
……俺も昔はそうだったんだろうか。
そうなる、と確かな強い想いを持っていたんだろうか。
できた、のか。
大人の冗談とはまるで違う、彼女のように『信じる』ことが。
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