「…………」
電気をつけたままにしてくれてある、リビング。
その、ソファとテーブルの間のフローリングへ直に座ると、ついあのときのことを思い出した。
6月6日、彼の誕生日。
小学生のときには、みんなと一緒にお祝いしかできなかった。
それでも、あのときの彼はやっぱりとても喜んでくれて。
笑顔で『ありがとう』を聞くことができて、とてもとても嬉しかった。
それが、先月は少し……ううん。大きな違いだ。
だって、私ひとりで彼をお祝いすることができたんだから。
チョコレートケーキが好きだと聞いていたから、急いで帰ってデコレーションを施した。
前日にスポンジだけは焼いておいたので、ガナッシュクリームを作って塗り終えた……あのとき。
味見していないことに気づいて残ったクリームを舐めたとき、予想よりも少しだけ甘くて、途端に不安になった。
彼はチョコレートが好き。それはわかっている。
だからといって、ビターなのかブラックなのかそれとも甘めのミルクなのかは聞いていなかったので、そのときになって後悔した。
せっかく、1対1で話すことができるようになった今だからこそ、ちゃんと聞けばよかったのに……と。
大切なところで抜けているのは、小さいころから変わらない私の性格なのかと思うと、切なくてため息が漏れた。
「っ……」
シルバーラックへ何気なく視線を移したとき、思わず声が出そうになった。
もともと、この部屋に写真らしい写真は飾られていなかった。
だから、余計目立って見えたのかもしれない。
ソファに対して正面に飾られている、シンプルな写真立てに入っている写真。
その中では――……正装をした私と鷹塚先生が、当日の主役である新郎新婦を挟んで笑顔を浮かべていた。
「………………」
正直、それを見た瞬間心臓が大きく跳ねすぎて、急に苦しくなった。
どきりとする、以上のもの。
だけど、この写真を彼が飾ってくれていたということが、とてもとても嬉しかった。
――……と同時に、少しだけ悲しくもなったのが本音。
あのときはこんなふうに笑えてたんだなって、気づいてしまったから。
最近、笑ってないだろ?
「……っ……」
鷹塚先生の言葉が頭に響く。
写真の中の彼は、いたずらっぽく笑っていて。
そんな顔を見ると、自然と笑みが浮かんだ。
……ああ、やっぱり笑ってなかったのかな、私。
ちゃんと笑ってるつもりだったのに。
先生には……全部ばれちゃってたのかな。
そうだね。
がんばってたの、わかっちゃってたんだ。
「…………」
写真から視線を外し、座り直す。
……先生、ご存知ですか?
鷹塚先生のこと、ずっとずっとみんなが心配してるんですよ。
…………確かに私は笑えてないかもしれない。
でも、それは鷹塚先生も同じですよね。
「…………」
ふと、先日鷹塚先生のクラスの女の子たちが相談室へ遊びに来たときの話を、思い出す。
「ねぇ先生、うちらの担任も相談に乗ってあげてよ」
「え? どうして?」
「なんかさー、最近ずっと調子悪そうっていうか、すっごい悩んでるっていうか」
「そうなんだよね。この間もテスト中チラ見したら、鷹塚先生すっごい悩んだ顔で遠く見ちゃってんの!」
「あー、あるある! でもさ、あれは本当にやばいよ。相当悩んでるんだと思う」
落書き帳と称したノートにカラフルなお絵かきをしていた彼女らが、ふっと顔を上げた。
どの子も、口調とは違い真剣な顔。
どこからどう見ても、本気でそう思っているんだとわかる。
「だって、鷹塚先生がそういう顔するようになったのって、いつくらいからだっけ? 誕生日のあとくらい?」
「そうそう! 去年も担任だったけど、悩んだところなんてむしろ見たことなかったし」
「やばいよ。……あのままじゃ、先生病気になっちゃう」
顔を見合わせた彼女らが、うなずきあって会話を交わす。
その様子を黙って見ていたら、ふっとひとりが私を見つめた。
「だからお願い。葉山先生、鷹塚先生の相談に乗ってあげてよ」
「……みんな、鷹塚先生のことが好きなんだね」
切々とした願いに頬を緩めると、途端、彼女らは口々に『いや違うけど』なんて言いながら笑ってみせた。
「好きっていうか、なんかこう……ほっとけないって感じ?」
「そうそう。心配なんだよね」
「あんな顔見たことないし。相当思いつめてるっぽいんだもん」
それを聞いたとき、ああやっぱりと思った。
鷹塚先生は、やっぱりいつの時代も児童たちに好かれる大切な存在であり続けるんだって。
私たちのときだけじゃない。ずっと、ずっと変わらぬもの。
そしてきっと、それはこれから先までもずっと続くんだろうなと容易に想像できる。
「…………」
ふ、と顔だけを隣の部屋へ向けると、不意に笑みが浮かんだ。
……鷹塚先生、沢山の人に想われてるんですよ。
私だけじゃない、もっともっと沢山の人が、あなたを大切だと……必要だと思っているんです。
「……はぁ」
顔を戻すとともに、ふと今はない肩下の髪に手を伸ばしてしまい、指先が服に触れた。
そのまま手を握り、息を吐く。
……彼は、私の髪を褒めてくれた。
嬉しそうに……優しい眼差しで、見つめてくれた。
それだけじゃない。
実際、手にとって触れてくれたのだ。
特別。
彼にそうされたとき、ああ自分は今彼の特別なんだなと思うことができて、言い表すことのできないくらい嬉しくて誇らしかった。
……嬉しかったのにな。
今はもう、彼に撫でてもらうことはできない。
それどころか、笑みを浮かべて見てもらうこともできないんだ。
いつだって、優しかった。
笑いかけてくれて、大切にしてもらえた。
でも――……それを断ったのは、私。
彼から離れたのは、自分なんだから。
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