私を出迎えてくれた彼は、夕方見たときよりもずっと具合が悪そうだった。
それでも、『大丈夫』とか『大したことない』なんて口にするところは、相変わらずだなと思う。
……やっぱり、私の前で彼はいつも“先生”だ。
ううん。
私の前だけでなく、きっと教え子という対象を前にしたら、誰にでもそう見せるんだろうことは予想がつく。
「鷹塚先生、何か召しあがりました?」
「……いや」
「えっと、いろいろ買って来てはみたので、よかったら召しあがってくださいね」
恐らく彼は何も食べないまま薬を飲むんじゃないかと思って、ドラッグストアでいろいろと買ってはきた。
金谷先生の話では、病院には行くと言っていたと聞いたので、薬は買ってきていない。
だけど、冷却ジェルと経口補水液、それからドリンクゼリーは絶対だと思ったので、彼が手を付けてくれるかどうかはわからないけれど、一応レジ袋から出して枕元へ置く。
すると、大きなため息を付いてお布団へ戻ってから、横になって私へ顔を向けた。
「悪いな」
「……え?」
「気を遣ってくれたんだろ? 俺が具合悪いってわかって」
彼らしい言葉だとは思う。
だけど、それを聞いた時、一瞬目が丸くなってから――……思わず手を握り締める。
違う。
思わず、咄嗟にそう口にしてしまいそうだった。
「心配だからに決まってるじゃないですか……っ」
「っ……」
「私、心配だったんです。鷹塚先生のことがとても……!」
眉を寄せて彼を見つめると、驚いたように彼が瞳を丸くした。
確かにそうかもしれない。
私は、いつだってこんな言い方をしなかったから。
でも……でも、だめ。
今回ばかりは、力がこもりすぎた。
わかってほしくて。
義理なんかじゃなく本心なんだって、伝えたかった。
「だからっ……だから、来たんです。鷹塚先生があんなに具合悪そうにしてるの、初めて見たから」
「……葉山……」
「だから、です。恩師だからとか同僚だからとか、そんなんじゃない。素直に、鷹塚先生が心配だったからです」
夕方、彼とすれ違ったあとで、金谷先生が私のところへ来た。
いつもはいたずらっぽく言う彼女も、今日ばかりはそんなことせず、本当に心配そうにしていた。
そのとき聞いたのだ。
午前中保健室へ来たときからすでに、熱があったんだと。
そう聞いて、いてもたってもいられなかった。
終業時間すぐに学校をあとにし、家に帰るよりも先にドラッグストアへ寄ってそのまま電話をかけた。
1秒でも早く会いたかった。
無事であってほしいと……ただそれだけの思いしか、なかった。
「私、これでも先生のことわかってるつもりです」
ぽつりと呟いた言葉が、少しだけ響いて聞こえた。
『俺の何がわかる』
もし今、彼の体調が万全だったら、そう突っぱねられてるに違いないだろうことも、もちろんわかる。
……だから、ずるいのかもしれない。私は。
彼が何も言わないのをわかって、静かに言葉を続けることを選んだんだから。
「ぎりぎりまで強がって、自分のことあと回しにして……それで具合が悪くなったんじゃないですか?」
誰かのことを優先して。
……だって、やっぱり彼は優しい人だから。
自分はいいけど、目の前にいる人間を放っておけない。
そういう人だってことは、私もよく知っている。
「きっと、ごはんも食べないでお薬飲んで寝ちゃうんだろうなって思ったんです。……違いますか?」
「…………違わない」
「……だから、そばにいたかったんです」
目を閉じてため息をついた彼が、小さく『お前はよくわかってるな』と呟いた。
その言葉が、すごく嬉しくて笑みが浮かぶ。
「鷹塚先生は、ひとりだけの身体じゃないんです」
「…………」
「だから、早くよくなってもらわないと困るんです。……私」
私、か。
最後の付け足しは、もしかしたら余計だったかもしれない。
きっと、いつもの彼なら『それはどういう意味だ』なんて眉を寄せただろうなと思うだけに、視線が逸れる。
「……そうだな」
だけど彼は、掠れた声で小さく呟くとそれ以上何も言わなかった。
正確には、困る人間はもちろん私だけじゃない。
……そう。
彼の今の教え子たちも、同じ気持ちだろうから。
ううん、もしかしたらあの子たちのほうがよっぽどそうかもしれない。
…………そして、子どもたちだけじゃない。
彼が帰ったあと、金谷先生を始めとした沢山の先生方が、同じように私に声をかけてくれた。
『心配だよね、鷹塚先生』
『あんなに具合悪そうにしてるの、見たことないよ』
『いつだって健康優良児並みだったのに、何かあったのかな』
『そういや、ここ最近ずっと彼らしい顔じゃなかったし』
『大丈夫かな、彼。倒れたりしない?』
なぜか私の顔を見るたび、いろんな先生が声をかけてくださって。
でもそれは、彼という人柄を知っている人たちだからこその、言葉。
……本当に、鷹塚先生は沢山の人に好かれている。
大事に思われている。
なくてはならない人だと――……頼りにもされている。
それは素晴らしいことだし、彼が褒められると私も嬉しかった。
……でも、声を大にしてまで言ったりしない。
『私も、鷹塚先生の教え子のひとりなんです』ということは。
「……あー……鍵さ、向こうの部屋のテーブルの上にあんだけど」
「え?」
ふ、と何かを思い出したかのように腕を伸ばした彼が、指先で隣の部屋を指した。
1度入ったことのある、部屋。
……そう。
彼の誕生日の夜、ケーキでお祝いをしたリビング。
「帰るとき、ポストにでも放っといてくれ」
悪い。
もう1度呟いた彼が、腕を下ろして目を閉じた。
疲れというのも、体調を崩した原因だろうとは思う。
身体的な疲れはもちろんだけど――……そうじゃないだろう。
ここ最近の私のせいによる、精神的な疲れ。
もしかしなくても、きっとそっちによる負荷がかなりあったんじゃないだろうか。
……男性としての彼と、私の恩師としての彼。
私の中であった葛藤なんかよりもずっと大きなものが、彼にはあったはず。
だって、鷹塚先生は優しいから。
いつだって誰かのことを考えてくれて、護ってくれて。
そんな人だって知ってたのに――……困らせたのは私。
「………………」
ごめんなさい。
唇でそう呟いてから、触れるわけがないのについ額へ手を伸ばしてしまい、握り締める。
……だめだな、私。
自分で言ったのに、守れてないんだもん。
誰? 諦めるって言ったの。
…………嘘つき。
両手を握り締めて膝に置き、ため息を漏らす。
すると、ほどなくして規則正しい彼の寝息が聞こえ始めた。
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