「そうなんですか?」
 ふふ、と笑って口元に当てられた右手の薬指。
 そこにある指輪が、きらりと光る。
 かわいらしいデザインの、それこそアイツが好きそうなモノだ。
 見せびらかすようにアピールしてるワケじゃないのは確か。
 それでも、俺にとってはこれ以上ない印。

 近付くな。

 男が、無言のオーラを纏わせることのできるモノ。
 それが、あの小さな輪。
「…………」
 肩よりもずっと下まであった長い髪は、アレ以来当然だが失せたまま。
 くすくす笑いながらさらりと揺れる髪は、頬に沿って流れる程度。
 ぱつん、と音もなく消えた髪。
 ……いつだったっけな。
 最後にこの手で触れたのは。
 今からすれば、もうずっと過去の話のようだ。
 カレンダーで数えれば……たいしたこともないのに。
「…………」
 ほかの先生と話していた葉山が、俺の前の自席へ戻った。
 だが、立ったまま机にあったらしい携帯を取り――くす、と笑う。
 メール、か。
 ……最近。
 いや、昨日からその姿を見かけるようになった。
 そのときの顔が、正直イラっとする。
 以前までは、俺に向けられていたモノ。
 笑顔だけじゃない、普通のときもそうだ。
 何が違うって……まず眼差しが違う。
 まるで愛しいモノを見るかのような穏やかな目でかつ、やたらかわいい顔をしてるんだよな。
 メールだぞ、メール。
 たかが字の集合体。
 ……それなのに、ンな顔するとはな。
 どんだけだ、と正直つっこみたくなる。
 ――……と同時に芽生えるのは、殺意にも似た感情。
 男ができた。コイツに。
 相手は、恐らくでしかわからない相手。
 ……俺の知らない、優男。
「………………」
 脳裏に浮かぶのは、あのバッティングセンターでこちらに背を向けたまま彼女に腕を伸ばしていたアイツ。
 ……くそ。
 ほっせークセに、生意気なんだよ。
 男だったら、しっかり鍛えろっつの。
 ひょろひょろで何ができる。
 いざってとき護れんのか?
 例えば――……俺みたいなヤツに絡まれたとき、とかな。
「…………はー」
 彼女が髪を切ったのも昨日なら、指輪をしてきたのも昨日。
 ……俺が久しぶりの風邪で伏せたのも昨日のはずなんだけどな。
「…………」
 アイツが帰ったのは、今朝方。
 なのに、今目の前にいる彼女はまるで別人のように思える。

 心配だったからに決まってるじゃないですか……っ。

 彼女にしては珍しく、声を荒げての主張。
 ……そう。
 主張だった、アレは。コイツの素直な思い。
 本音……か?
 だとしたら、いろいろと不可解でたまらない。
 どっちなんだ、お前。
 男がいるんだろ? できたんだろ?
 だったら、なんで俺を構ったりするんだよ。気にかけんだよ。
 ……ほっとけばいいのに。
 お前を傷つけるだけ傷つけて、救いもしなかった俺なんか。
「…………」
 アイツが帰ったあとの部屋で感じたのは、まず違和感。
 あれ、って思った。正直。
 ここ数日自分もイライラしてたし、やらなきゃならないことが多すぎて、家のことは何よりもおろそかになっていたから。
 食ったモンは食いっぱなし。
 ゴミを流しへ置きはしたが、そのまんま山に重ねるだけ。
 洗濯もひとり暮らしでそう多くないせいか、数日に1度回して、干して――……で、取り込んだらそのままほったらかし。
 だから、リビングのソファあたりには、服とタオルの山ができていた。
 皺になったところで別段困るような服じゃないという、今の職業。
 タオルだって結局そこから取って使えばいいだけだし、わざわざ畳んできちんとしまって……なんて発想は俺にはなかった。
 もっと、時間がありあまっていて家のことでも少しはやるかと思えるような心境だったら、また違ったかもしれないけどな。
 ……ま、俺にはそんな時間こねーだろ。
 暇がありゃ、間違いなく外に行ってる。
 家にこもるのは趣味じゃない。
 何もすることなくても、だったら車でどっか走ってるに決まってる。
 外に出れば、何かしら見つかるし、刺激になる。
 人間、こもってちゃダメだ。外に出ないと。
 自分のテリトリー以外とも触れ合わなければ、それは健全とは言えない。
 そう、ウチの学校のスクールカウンセラーが言った言葉には、確かにと俺も大きくうなずいたモンだ。
 ――……だから。
 食いっぱなしだったコンビニ弁当の空容器がキレイに洗われて袋に纏められていて、放りっぱなしだった洗濯物が実家にいたころのようにきちんと畳んで種類ごとに重ねられていたのを見たときは、正直驚いた。
 ……と同時に、ほっとしたというか、ものすごく嬉しかったのは確か。
 生活感のない部屋に生まれた、感触。
 ひとり暮らしの部屋にはあるはずのない、“誰か”と暮らしているというあの感じ。
 それを作ってくれたのは、葉山その人。
 彼女がしてくれたということが、予想以上に自分の中で大きく反映されて、感情はより一層強く反応した。
 ありがたかった、嬉しかった。
 ……アイツの心遣いが。
 だから、思ったんだ。
 アイツがここまでしてくれたのは、どうしてだと。
 優しさだけじゃないんじゃないか、と今になってもまだ思うところがある。
 ……だから、だ。
 俺の前で携帯を嬉しそうに眺めたり、ときおり指先で指輪を弄ったりする姿が、イコールにならない。
 ……ならどうして、俺の家に来た。
 俺を心配した。
 よその男だぞ?
 自分の彼氏じゃない相手に、どうしてそこまで優しさを配る必要がある。
 そんなモン、デメリットにこそなってもメリットにはなり得ないモノだ。
 俺の気を惹こうとしてのことならまだしも、いくら心配で駆けつけてくれたからとはいえ、翌日仕事があるのに帰らず俺の世話焼いてくれるなんて、いったいなんでだってなるだろ。
 ……だから、お前が悪い。
 彼氏がいる? だからなんだ。
 1度手離した? だからどうした。
 獲りに行くと決めた以上、それは実行あるのみ。
 ……そう。
 昔から俺はいつだって、有言実行でやって来たんだから。


目次へ 次へ