「開けていいか?」
「あ、はい。もちろんです」
 箱に手を当てたまま彼女を見ると、フローリングへ膝をついてから俺を見た。
 誇らしげというよりは、心底嬉しそうな顔。
 その顔を見て、ついこっちも笑みが浮かぶ。
「……っ……うわ。すげ」
「あんまり上手じゃないんですけれど……」
「何言ってんだよ、全然! それどころか、すげーじゃん! 店のと遜色ねーぞ?」
 中から出てきたのは、デコレーションケーキ。
 濃い茶色のクリームが全体に塗られており、甘い香りに頭が即うまそうだと判断する。
「……すげ」
 チョコレートクリームでのデコレーション。
 そして、『HAPPY BIRTHDAY』と白い字で書かれてもいる。
「……これも?」
「はい。一応、全部そうです」
「……うわ。すげーな、マジで」
 改めてまじまじ見つめてから葉山を見ると、少し照れたような顔をしてうなずいた。
 チョコレートケーキと、苺のデコレーションケーキ。
 そのふたつが並んでいたら、俺は間違いなく前者を選ぶ。
 理由は簡単。
 単に、チョコが好きだから。
「……葉山」
「はい?」
「もしかして、俺がチョコ好きだって……」
「覚えてました」
「うわ、どんだけだよ!」
 記憶力がいいのか、はたまた俺を喜ばせるツボを網羅しているのかはわからないが、素直に嬉しい。
 笑顔でうなずかれると、なんかこう……お前、ホントすげーな。と言いたくなる。
「おめでとうございます」
「ありがとな。……あー。誕生日でよかったって思うの、ホント何年ぶりかだ。すげぇ嬉しい」
「よかったです。無理矢理お祝いするような形で、ご迷惑じゃないかと思ったんですが……」
「いや、全然。逆だって、むしろ。ホントにありがとな」
 ケーキの箱に添えられていたロウソクを弄りながら苦笑を浮かべた葉山に、首を振って手を伸ばす。
 ――……が。
「…………」
「……? どうしたんですか?」
「いや……」
 ついうっかりまた頭を撫でようとした手に気付き、すんでのところで止めることができた。
 無意識ってのは怖い。
 つーか、タチ悪い。
 ある意味習慣になってしまってるからこそ、簡単に抜けないモンなんだな。
「頭撫でるのは小さい子に対するもんだ、って言われて」
「え?」
「ンなことされても喜ばない、って言われたんだよ。クラスの子に」
 思い返すのは、今日の帰りの会終わりの出来事。
 ふつーにうっかり頭を撫でまくってた俺は、葉山にも内心いい加減にしろと思われていたんじゃないかと思うと、やっぱり切ないモノがあって。
 だが、頭に置きそうになった手を引っ込めると、葉山はゆっくり首を横に振った。
「そんなことないです」
「ん?」
「……私は、嬉しいです。とっても」
「そうか……?」
「はい」
 くす、と笑った彼女にわずかに丸くなった瞳のまま手を伸ばし、こちらも笑みを浮かべる。
 そして、引っ込めた手を再度彼女の頭へ。
 ぽん、と置くと相変わらずつやつやしている髪が心地よくて、そのまま髪を撫でるように手が背中へ下りそうになった。
「……あの。鷹塚先生、今何か欲しいものありますか?」
「誕生日プレゼント、か?」
「はい。いろいろ考えたんですけれど、鷹塚先生はもういろんなものを持ってる気がして……。だったら直接聞いて、1番欲しいものを差しあげたいと思ったんです」
 俺にとっては、これこそ1番のプレゼントだ。
 だが、贈る側の葉山にとってはカウントされないらしい。
 ……プレゼント、ね。
 この年になると欲しいものは大概買えるし、ほぼ確実に手に入る。
 だから、どうしてもってモンはないんだが……しかし。
 彼女の気持ちを無碍にするってのも、ナンだな。
「……んー……。物じゃなくてもいいか?」
「あ、はい。私にできることなら」
「んじゃ――……とっとく」
「……そう、なんですか?」
「ああ。権利として、それはいつか使わせてもらうな」
「わかりました」
 にっと笑ってみせると、目を丸くした彼女もつられてくすくす笑いながらうなずいた。
 もしかしなくても、きっとこんな俺の姿は子どもみたいに映ってるだろう。
 でも、いい。
 コイツに飾ったところを見せたって、どうせ全部バレてるんだから。
「葉山、明後日ヒマか?」
「はい。特に用事はないです」
「そっか。んじゃ、一緒に江の水行こうぜ。割引券貰ったんだよ」
「え……いいんですか? 私……」
「もちろん。今日の礼を兼ねてな」
 せっかく貰った、新江ノ島水族館の割引券。
 これがまた割引率がいいので、あるなら使ったほうが得。
 ただ、さすがにあそこへ男同士で行くなんてことは、俺はしたくない。
 どうせ行くなら、葉山みてーな若くてかわいい子を連れて行くほうを選ぶ。
「ありがとうございます」
「っし。んじゃ、明後日は江ノ島な」
「はい」
 こくん、とうなずいてくれた彼女は嬉しそうに笑った。
 その顔。
 それが見られるのが、自分は嬉しいんだなと思う。
 だからいろんなことを教えてやりたいし、いろんなところへ連れて行ってやりもしたい。
 喜ばせたい。
 コイツを。
 ……もしかしたら、葉山も同じことを考えてくれているのかもしれない。
 俺に喜んでほしい。
 そんな気持ちから、今日のこのサプライズを考えてくれたんじゃないか、という思いも浮かぶ。
 …………自意識過剰か。
 ふとそこで思考が止まり、苦笑が漏れた。
「鷹塚先生、ライターお借りできますか?」
「あ? あぁ、火な」
 いつの間にやら丁寧に並べてくれたロウソク。
 太めが3本と、細いのが5本。
 きっちり俺の年だけ表されていて、なんともいえない気分になる。
「……あ、いいぞ。付けるから」
 先日同僚にもらった、LED付きのライター。
 側面に某パチンコ台の武将ラベルが貼ってあるが、まぁ別に気にはならない。
 俺は。
 ……それにしても、ロウソク立ててのお祝いとはな。
 ほんと、記憶にあるのは小学生のころまでだ。
 中学になってからは、お袋がロウソクの数も揃えず適当に並べて火をつけたっけか。
 もちろん、バースデーソングなんて歌われることはなかった。
 ま、男ばっかだったしな。ウチの兄弟。
 ロウソクはいいからとっとと切って食おうぜ、と言ったら怒られたような記憶がなきにしもあらず。
「……ん?」
 ロウソクに灯った小さな火を見ていたら、葉山が小さく笑って手を合わせた。
 彼女にしては珍しい、何か考えているような顔。
 ……なんだ?
 そう思った次の瞬間、小さいながらも葉山がバースデーソングを口ずさんだ。
「Happy Birthday to you,Happy Birthday to you」
「……うわ、すげぇ久しぶり」
 手拍子と、その歌。
 誰もが知っている、誰もが歌える曲。
 ……だが、こうして1対1で歌われると、ちょっぴり……いや、割と恥ずかしい。
 手持ち無沙汰というよりは、なんかこう、むず痒いよな。
 笑ってしまいそうになるよりも先に思い切り顔が笑ってしまい、口に手を当てながら首を横に振る。
「Happy Birthday dear……壮士さん」
「っ……」
「Happy Birthday to you」
 パチパチパチ、と最後のシメで響いた拍手。
 あぁ、そうか。消すんだよな。
 促がされるままひと息でロウソクの火を消し、おめでとうございます、と口にしてくれた葉山と同じように手を叩く。
 だが、どうしても頭に残ってるのは今しがた呼ばれたばかりの、名前。
 ……壮士さん、か。
 そういや、そんなふうに呼ばれたことねーな。
 “さん”付けで名前を呼ばれたのも初めてなら、こんなふうに手作りのケーキで祝ってもらったのも初めて。
「……お前は、俺の初めていっぱい持ってんだな」
「え……?」
「教師になって受け持ったのも初めてだし、こうして――……家に上げるのも、初めてだ」
 男は上げたことがある。ザラに。
 だが、女を上げたのは初めて。
 結婚していたときに住んでいたのは、ここじゃなかった。
「…………」
「…………」
 ……それだけじゃない。
 見た瞬間から、“ど”が付くほどストレートに俺好みだったのもそう。
 完璧だと思ったのは、お前だけ。
「せ、んせ……」
「……お前だけだ」
 まっすぐに目を見たまま、笑みが漏れた。

 先生みたいな先生になりたい。
 私が大きくなったとき、まだ先生がちゃんとしたごはん食べてなかったら、私がごはん作ってあげるね。

 そう言ってくれたのも、何もかもお前が初めてだ。
 この年で『初めて』を経験するってのは、結構レアだぞ?
 ある程度はやり尽くしてきてるんだから。
 なのに……お前にばかりカブる。
 これは、理由なしじゃいられない。
「……チョコって、媚薬だって知ってるか?」
「……え……?」
 チョコは、古来から人を惑わせるといわれてきた。
 媚薬だ、とは今でもなお言われている。
 あの独特の香りと、モノによっても違うが、甘さ。
 少しでも食べれば幸せな気分になる、なんてそれはもしかしたら自分の小さいころの経験だったのかもしれないが、今でもときどき手を伸ばす。
 どうしてもケーキなどの甘い物が食べたくなるようなことはないが、それでもチョコを食いたくなることはあった。
 ……もしかしたら、ある意味中毒になりかけているのかもしれない。
「私を食べて」
「っ……」
「男にチョコをあげるのは、そういう意味があるってこと。……知ってるか?」
「……鷹塚……先生……」
 先ほどまで飲んでいた酒が、まだ残っていたのかもしれない。
 床に手を付いて葉山のほうへ顔を寄せる。
 ……こんなふうに葉山を見たことはなかった。
 どんなときだって、コイツは俺にとって慕ってくれている大切な教え子だから。
 …………いや。
 今は、だった、と言うべきかもしれない。
「っ……!」
 頬に手を当て、距離をいっぺんに詰める。
 目の前でまばたきされ、ほんの少しくすぐったいような感覚があった。
 ……だけど、それ以上に。
 息を呑むのがわかり、まっすぐ見つめ返してくる瞳にも気付き、だからこそ――……俺は正直だな、とも思った。
 なんだかんだ言いながら、ちゃんとコイツを女として意識してる部分がずっとあったんだから。
「……葉山」
「は、い……」
「キレイになったな、お前」
「っ……」
 頬を指先で撫で、囁くように呟いてから――……唇を寄せる。
 刹那。
「ッ……!」
「……ぁ……」
 目の前で彼女の唇が一文字に結ばれたのを見て、ふ、と我に返った。
「うわ、わり。ごめっ……ちがっ……! いや、違わねーけど!!」
「え……っ?」
 ざぁっと血の気が引き、今までの自分がしでかしたことに対して猛烈な反省と恥ずかしさが波打つ。
 ぎゃーー、と言えたら言ってた。
 何してんだお前、と言えたら多分平手打ちしてる。
 だが、頬を染めて驚いたように俺を見つめている葉山を確認したら、ごくりと喉が鳴った。
「悪い!! 違……わないけど、違う! ごめん!」
「……あ……鷹塚先生っ」
「いや、マジで! 許してくれとか言わね――……いっ……!!」
 後ろずさりながら離れたのが悪かったのか、背中と後頭部へ硬い何かがぶつかった。
 ……いや。
 正確には、ヘタこいて背中から柱へぶつかったってだけだが。
「ッ……大丈夫ですか!?」
「いや、だいじょぶ……だけどっ……」
「大丈夫じゃないですよっ……!」
 頭を押さえたまま俯きつつ彼女に手を振るも、慌ててすぐここまで来てくれたらしく、目の前に膝が見えた。
 白くて、恐らく撫でればすべすべであろう肌。
 ……って、こういうこと考えてんからおっさんなんだよな。もう。
「っ……」
「大丈夫ですか?」
「……ワリ」
 ふ、と葉山が動いた途端、いい匂いがした。
 俺の部屋にはない、花のようなフルーツのような匂い。
 ……甘い。
 だが、香水とは違ってキツさがないせいか、また嗅ぎたくなるような残り香に近いモノ。
「…………」
 いつもは、俺がしてた。
 なのに、今は違う。
 コイツが――……頭を、撫でてくれてるワケで。
 頭へ当てていた手を離し、彼女に委ねるようにして両手を下ろす。
 ……そういや、こんなふうに頭撫でてもらうのも多分、コイツが初めて。
 子どものころ親にしてもらった以外で、誰かにされた記憶はない。
 …………ヤバい。
 顔が赤くなってる気がする。今。
 恥ずかしいというよりは、照れに近いモノ。
 ……ヤバい。葉山のこと、まっすぐ見れねーぞ。
 すごい近くでかつ、ものすっごいイイ匂い。
「……葉山。風呂入った?」
「え?」
「いや……なんかいい匂いがする」
 ぽつりと呟いてしまったあと慌てて顔を上げると、頭から手を離した葉山が驚いた顔を見せた。
「……って、ワリ。おっさんか俺は」
「そんなこと……ないですよ?」
「いやいやいや。セクハラに近いな、むしろ」
 くす、と笑ったその顔が、いつもと違ってものすごくかわいく見えて、思わず喉が鳴った。
 いや、もちろんかわいいのはいつもそうなんだけど。
 つーか、そーゆーかわいさとまた違うっつーかなんつーか…………ヤバい。
 とにかく、ヤバいヤバいヤバい。
 このままじゃ、帰せなくなる。
 無傷で――……コイツを家には。
「葉山!」
「っ……はい!」
「ありがとう。ご馳走さま」
「……あ……はい。よかったです」
 完全に真顔には戻らなかったが、ある程度戻して声をあげる。
 いっぺんにまくし立てながら立ち上がり、誘っておいて申し訳ないが、ご帰宅を促がさせていただく。
 ……だが、そこはさすがの彼女。
 空気を敏感に読み取って、荷物を片手に玄関へと足を向けてくれた。
 …………悪い。
 内心、その後ろ姿に向かってものすごく謝罪しながら。
「それじゃあ、明後日……楽しみにしてますね」
「っ……え?」
「え?」
「あー……あー! いや、なんでもない」
 そんな軽はずみな約束したこと、すっかり忘れてた。
 そうは思うが言うに言えず、ぺこりと頭を下げた彼女を見ながら、乾いた笑みを顔に引きつらせたまま見送る。
「お邪魔しました」
「いや……こっちこそ、お構いもせず」
 ドアから表へ出た彼女が見せたのは、やっぱり笑みだった。
 困ったような顔だったり、どこかよそよそしいような顔だったりすれば、また違ったのに。
 ……なのに。
 あんなことがうっかり起きたあとでもなお、俺に見せてくれるのは笑顔。
「…………やべ」
 ぱたん、と閉まったドアを見ながら本音が漏れた。
 ヤバい……だろ、間違いなく。
 つーか絶対。
 もしも今アイツとふたりきりという状況に陥ったら、過ちを犯す自信がある。
 ……いや、自信満々に言ったらもちろんダメなんだろうが、予想できる。
 アイツが泣く。
 俺を見て、怖がる。
 …………そんな、妙な自信が。
「……うーわ」
 どうしよ。
 ヘンな約束するんじゃなかった。
 つーか、いや、あのだな。
 あのときはまったくそんな思いがなかったからこそ、簡単に誘えたんだよ。
 それこそ、教え子だから。
 俺にとって、かわいい子どもと同じだから。
 ……なのに、だ。
 途中でうっかり変わってしまった。
「…………」
 ……いや、正確には『変えた』か。
 自覚したんだ。
 ごとり、と大きな音を立てて礎が動いた。
 彼女が、俺の好みど真ん中ストライク直球の女だと認知された。
 …………俺の、本能に。
 多分もう、逃げられない。
 ……アイツは俺から。

「……っ」
 彼女を見送ってリビングに戻って気付いた。
 ロウソクが刺さったままの、6号チョコレートケーキワンホール。
 ……うわ。
 違う意味で、ヤバい。
 ――……結局、それはこの日の夜と翌日の朝メシ……そして、夕飯。
 3度に渡って、必死においしくいただいた。


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