何も言わず、何も残さず。
 アイツは、そういう道を選ぶ。
 自分が勝手にしたことだから、連絡はしない。
 押し付けがましいことも一切しない。
 強要したくない。
 ……そんな思いが、あったんだろう。
 いつまで経っても帰ってこない俺を、どうして文句ひとつ言わずに待ち続けてくれたんだ。
 もし、マスターが教えてくれなかったら、俺は一切知らないまま普通の顔で普通に接していたはず。
 ……そして、それは葉山も同じ。
 何もなかったかのように、自分の中にしまいこんだものをおくびにも出さず、笑顔で接するだろう。
 実はあのとき、帰ってくるのを待ってたんです。ひとりで、ずっと。
 ……そんなことは口にせず、笑顔で普段通りの話をする俺に笑いかけてくれていたに違いない。
「っ……」
 残酷というよりも、もっとひどい。
 知らないとはいえ、葉山を傷つけるに違いない。
 ……だから、マスターには本当に感謝する。
 俺の知らない所で起きた、俺に関する出来事。
 しかも、かわいい女の子が……というおまけつき。
 まぁもっとも、だからこそ教えに来てくれたんだろうが。
「……はー……」
 開いたままの携帯を置き、階段へ座り込む。
 ……なんで、もっと早く帰って来なかったんだ、俺は。
 花山なんかに付き合ってる場合じゃなかった。
 やっぱりアイツはほったらかしておいて、とっとと家に帰ってくるべきだったんだ。
 …………何考えてんだよ。
 小川先生なんて全然関係ねーじゃねーか。
 アイツは、いつだって俺のことを考えてくれていたのに。
 思ってくれていたのに。
 ……なのに、俺は……。
「…………馬鹿だな」
 頭に手を当てたまま呟いた言葉は、何よりの本心。
 馬鹿だ、俺は。本当に。
 また、小川先生とツルんでるんじゃないかと勘ぐった自分が、馬鹿だと思う。
 同時に、恥ずかしくて情けなくなった。
「ッ……! もしもし!」
 響いた着うたに、携帯を掴んですぐ耳に当てる。
 すると、聞こえた穏やかな声で思わず胸が熱くなった。
『すみません……運転中だったので、遅くなってしまって……』
「いや、そーだろなとは思ったんだけど。……ごめん。今どこにいる?」
『えっと、今は国道沿いのミスドにいます』
 場所がすぐ頭に浮かび、ここから車で5分ちょいという時間が弾き出される。
 ホント、タッチの差だったんだな。
 ……あー。とっとと帰ってくればよかった。
 そうすれば、こんな我侭発揮しないで済んだのに。
「……なぁ、葉山。ひとつ頼みがあるんだけど」
『はい? なんですか?』
「…………誕生日っつーのをたてにしたら、なんなんだけどさ……もっかい来てくれないか? ウチに」
 とんでもねぇ頼みごとだな、ってのは自分でも承知してる。
 だが、どうしても。
 この箱を持って来てくれた本人を、このまま帰すワケにはいかない。
 ……まだ、感謝してない。
 葉山に対して、ありがとう、と。
 大切な言葉を伝えてない。
 なのにこのまま帰られるのだけは、御免だ。
 もし、彼女の口から無理だと言われたら、俺がそこまで車で行く。
『……え、と……いいんですか?』
「ったりめーだろ。……頼む。葉山に祝ってほしい」
『っ……』
 いつもとは違う、本当の頼み。
 いわゆる、懇願てヤツ。
 想いが伝わるように静かに呟くと、電話の向こうで息を呑むのがわかった。
『……わ、かりました。伺います』
「サンキュ。……恩に着る」
 静かな声。
 それでも、多分浮かべているのはいつもと同じ笑みに違いない。
 目を閉じて感謝を口にし、それじゃ、と携帯を耳から離す。
 来る。これから、アイツがここに。
「……っ……! やべ、部屋きたねぇ!」
 携帯を閉じてぼんやりしている暇もなく、1番大事なことを思い出し、慌てて自宅へ小走りで戻る。
 ヤバいヤバい。
 ここ最近、ずっと誰も来てないのをいいことに、掃除らしい掃除をしてなかった。
「……うわ!」
 玄関を開けて靴を蹴飛ばすように脱ぎながら中へ入ると、自覚症状のない汚れっぷりに一瞬眩暈がした。
 リミットまで、5分。
 その間に、せめてぱっと見て多少乱雑でも俺の尊厳を保てるような空間にせねば。
 ……って、それは無理かも。
 脱ぎ散らかされた服と、恐らく洗濯が終えられている服。
 そのどちらがどちらか見わけがつかず、結局一緒くたにして洗面所の洗濯機へ。
 あとで見わけがついたら、まぁ、仕分けとく。
 とりあえず今は、部屋の見栄えこそが第一。
「っ……やべ」
 テーブルの上に置いてあった教科書と、集めた問題集。
 ついでにこの間の出張で貰った分厚い発表論文を揃えようとしたら、手が滑っていっぺんに雪崩が起きた。
 ……あーあーあー。
 もうダメだ。つか、無理。
 仕方なくそこは諦め、テーブルの上に置きっぱなしだったグラスとペットボトル、発泡酒の缶をキッチンの流しへ。
 こういうとき、手がデカいってのは便利だよな。ホント。
 簡単にウェットティッシュでその上を拭きながら、ついでに床へ落ちていた煙草のフィルムと紙くずを拾う。
 ……意外と、俺ってやればできるのかも。掃除とか。
 なんて、窮地に立ったことで発揮された力を勘違いしつつ、まぁ、なんとか――……って、玄関!
「っ……!」
 慌てて玄関に脱ぎっぱなしだった靴を揃えに向かうと、なんかもう、なんだコレと言いたくなるような光景が。
 長靴、いつ使ったんだよ。俺。
 確か、田植えのときじゃなかったか?
 未だに出しっぱなしのそれと、スニーカー。革靴。ついでにサンダル。
 ひとりしか住んでねーのにどんだけ靴出してんだ、という状況を見ながら慌てて靴箱にしまい、なぜ落ちてるのかわからない木の葉を拾――……ったところで、チャイムが鳴った。
「っ……!」
 ドアの向こうに居るであろう、人物。
 ……やべ、全然片付かなかった。
 だが、もう今さらと言えば今さらか。
 人を表すと言われている自分の職員室の机の上は、かなりの乱雑っぷりを見せてるんだから。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
 ガチャ、とサンダルを手に引っかけたままドアを開けると、夕方見たときとは少しだけ雰囲気の違う彼女が立っていた。
 笑みは同じ。
 ……あー、服が違うのか。
 紺色のスカートに、白いブラウス。
 胸元にあしらわれたリボンが、葉山らしいなと素直に思った。
 ……なんでだろうな。
 最近、リボンを見ると葉山を思い浮かべる。
 それは、小物であっても服であっても、靴であっても。
 全然違う人が身につけているモノでも、ふと葉山の顔が頭にはあった。
「どーぞ。……ワリ、呼んどいてナンだけど、相当片付いてない」
「そんな、気にしないでください」
「いやいやいや。かなりきたねーぞ? 多分、予想超える」
「大丈夫です」
 くすくす笑いながら首を横に振る葉山を招き入れ、リビングを手で示す。
「適当に座ってていーぞ。何かモノあったら、どかして」
「お邪魔します」
 キッチンの棚を覗きながら、案の定な結果に小さくため息を漏らす。
 ……あー。コーヒーしかねぇな。
 しかも、缶の。
 生活感のない家だ。我ながら。
「……ん? どした?」
「あ、いえ。……鷹塚先生の匂いがするなぁ、と思って」
「俺の? 煙草じゃなくて?」
「はい。煙草は、そんなに匂わないですよ?」
「そーか?」
「車もそうでしたけれど……煙草より、鷹塚先生の匂いがします」
「……ふぅん」
 リビングに立ったまま俺を振り返った葉山にソファを勧め、コーヒーを2本テーブルに置いてからフローリングへあぐらを掻く。
 そういうモンなのか。
 まぁ確かに、外から帰って来るとする匂いってのはあるけど。
 いわゆる、人の家の匂いってヤツ。
「マスターから聞いたよ。ずっと待っててくれたんだって?」
「あ……でも、私が勝手にしたことなので……。すみません、気を遣わせてしまって」
「全然。むしろ、こっちこそごめんな。……花山なんかに付き合ってる場合じゃなかった」
「花山先生とご一緒だったんですか?」
「ああ。アイツさー、ひでーんだよ相変わらず。絶対飲みに行くなよ? 断りきれなかったら俺の名前出していいから」
 アイツの絡みっぷりはハンパない。
 女性に対してどーかはわからないが、少なくとも俺に対しては最悪。
 二度と飲みに行きたくない。
 ……とは思うんだが、奢ってくれるとなると話は別。
 ゲンキンな人間だ。俺は。
「あっ。実は、お店のマスターに飲み物をご馳走していただいてしまって……」
「そうなのか?」
「そうなんです。アイスカフェモカを頼んだんですが、飲み終わってしまったらおかわりをくださって……しかも、お代はいただけないと……」
「……うわ。マスターのやりそうなことだ」
「そうなんですか?」
「そーなんだよ。あのマスター、俺の知り合いだって知って、ピンと来たんだろうな」
「……え?」
「彼女だと思われてる」
「っ……!」
「ワリ。あとで訂正しとくから」
「あ、いえ、そんな……」
「困るだろ? 俺みてーなフラフラしてるヤツが彼氏じゃ」
「……そんなこと、ないですよ?」
「ホントに?」
「っ……ホントに……です」
 眉を寄せて俺を見上げた葉山が、最初とは違う顔で俺を見た。
 高さでいえば、床へ直置きのソファに座ってる葉山の方が少しだけ高い。
 だが、なぜか目線は俺のほうが高く思えた。
「…………」
「…………」
「……はー……。やっぱ俺、教え子とは相性いいんだな」
「え?」
「いや、こっちの話。サンキュ」
 まじまじ見つめていたら、大きな瞳からその唇へとうっかり目が行きそうになった。
 目を閉じてそれを阻止し、片手をひらひらと振る。
 いつもと違う時間帯に、いつもと違う場所でのふたりきり。
 ……そうか。ふたりきりなんだな、今は。
 しかも、俺の家というある意味1番のテリトリー内。
「…………」
 迂闊だった、といえばそう。
 だが、計算のうちだったんじゃないのか、とも思う。
 ……さて、どちらだ。
 答えの出ない――……というよりは、出てほしくない計算を始めそうになった頭を軽く振り、それも阻止。
 今は何も考えない。
 余計なことはしない。
 俺が何よりも努めるのはソレだと思うから、敢えて明るい声を出しながらテーブルに置いたままの箱へ両手を伸ばした。


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