「ワリ。一服してた」
「……あ。いえ」
「お帰りっす」
仕方なくテーブルへ戻り、杉原の隣へ座る。
そして、すっかり水溜りを作っているアイスコーヒーをひとくち。
予想以上に手が濡れて、紙ナフキンを掴む……と、目が合ったとき葉山は静かに首を振って、『なんでもないです』となんでもなくなさそうな顔で呟いた。
「つーか、先生も聞いてくださいよ!」
「ん?」
「っ……杉原君……!」
「いや、だってさ。絶対遊ばれてたと思うんだよ。お前……純粋だし、まっすぐだから」
いったい今の今までなんの話をされていたのかわからないが、やおら杉原が話し始めた途端、また葉山が表情を曇らせた。
まるで、聞いてもらいたがっていないような顔。
普段鈍いとはいえ、さすがに教え子の反応とあらばすぐにわかる。
「いや、葉山がずっと好きなヤツがいるって言うんですよ。それも、すげー年上のヤツ」
「……ふぅん」
「んで! 高校ンときも俺、好きなヤツがいるからってフられたんスけど、今も同じ理由でフられて……」
「何? お前、今告ったの?」
「ッ……や! 違うんス! 違うんすけど!!」
違わねーだろ、お前。
そうか。やるヤツだとは思っていたが、いきなり告ったか。
……順序踏むとかはしねーんだな、今の若いヤツは。
再会したんだから、連絡先聞いて徐々にヤればよかったのに。
…………まぁ、わからないでもないんだけどな。
目の前に座る彼女は、問答無用で手を出したくなるオーラがある。
かわいいだけじゃない。なんつーか……触りたくなるんだよな。
男にとって、たまんねぇ存在。
どうやら、それは俺だけじゃないらしい。
「で?」
「いや、だから、俺のことはいいんすよ! そじゃなくて、葉山がずっとそいつを好きだって言うから……。ねー、先生。遊ばれてますよね、コイツ。絶対」
「絶対ってことはねーだろ? いくら年上っつったって、本気の場合もある」
「いや、でも! ダメっすよ! だって、好きなのに相手にしてもらえてないんすよ? そしたら、絶対ヤバいじゃないすか!」
息巻いて俺に力説する杉原は、どうやら本当にそう思っているようで、怒りにも似た感情を葉山へ向けているのがわかった。
まぁ、いきなり告るほうも告るほうだとは思うけどな。
でも、その心意気は買う。
よくやった、と言ってやる。
だが、大事なところがちょっと抜けてるんだよな。
それは――……仮にも好きな女の前で、そいつの好きな人間をけなしているということ。
そんなことされて喜ぶ人間が、どこにいる。
まぁ、確かに杉原は何も知らないから仕方ないとは思う。
それでも――……。
「…………いけないの?」
「……え?」
「遊ばれてたら、いけないのかな」
カチャン、と小さく音を立ててカップをソーサーに置いた葉山が、静かに杉原を見つめた。
これまでと雰囲気がまるで異なり、わずかに喉が鳴る。
怒ってるわけじゃない。
どちらかというと――……思いつめて、泣き出しそうにも見える顔。
だが、はっきりとした強さがあった。
「……私は、その人のそばにいられるだけで嬉しかった。……それだけでよかった。それ以上何かを求めたわけじゃないの」
「……葉山……?」
「ただ。……ただ、そばに居られるだけで、幸せだった」
瞳を伏せがちに呟いた彼女は、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
告白、まさにソレ。
……いや。
これは、コイツがずっと抱き続けて誰にも伝えることのなかった、何よりの本音だろう。
「遊ばれてたとしても、同じなの。……遊ばれていたらいけないの? いけないこと?」
「……それは……」
「たとえそうであっても、私は……っ……幸せだったよ?」
「っ……」
「……そばにいられたことが、嬉しかった」
テーブルを見つめた彼女が、小さく笑った。
嬉しかった、と。
幸せだった、と。
理由を知らない誰かが聞いても、きっと『そうなのか』と思うような……そんな表情で、思わず目が丸くなった。
何よりも――……自分に向けられている、言葉。想い。表情。
切々と伝わってくる気持ちを実感して、逆に俺は彼女をまっすぐ見られなくなる。
何をしてるんだ、俺は。
コイツに、何をしたんだ。
……気持ち、わかってたんじゃないのか。
あんなことを言ってもなお、俺にいい感情しか抱いてくれてなかったのに。
いったい何を安心してたんだ。
コイツが諦めるとでも?
ああ言ったから、もう大丈夫だとでも?
……ふざけんな。
お前は何もわかっていない。
何もわかろうとしないで、見ないで、気づかないフリして安心して、最低のことばかりしてるんだ。
「絶対に叶わないと思ってたから、幸せだったの。……そばにいられるだけで、本当に本当に幸せだった。だから……そんなふうに言わないで」
「…………」
「私にとって、一緒に過ごせた時間は奇跡なの」
はっきりと言い切った彼女が、最後に杉原をまっすぐ見つめた。
その目元に……涙を滲ませながら。
「……ごめんなさい。お先に失礼します」
「! ……俺、そんなつもりじゃ……!」
立ち上がってぺこりとお辞儀した彼女が、バッグを手にドアへと向かった。
振り返らず。誰とも目を合わさず。
慌てて杉原が彼女を呼ぶが、その足は止まらない。
「っ……葉山!」
反射的に立ち上がってあとを追い、ふたつ目のドアをくぐったところで階段を下りた彼女に再度声をかける。
だが、足こそ止めてくれたものの、やはり同じように俺を振り返ってくれることはなかった。
こちらに背中を向けたまま、両手を身体の前にしてバッグを握り締める。
普段、いつだって俺を見て話してくれた彼女が背中しか向けてこないだけで、ひどく焦りを感じた。
「……葉山。俺は――」
「…………私、もう子どもじゃないです」
「……え……?」
「誰のそばにいたいかは、自分で決めます」
「っ……」
静かにそう言った彼女が、ゆっくりとこちらを振り返った。
泣いていない。
だが、泣きそうでもある。
……涙をいっぱいに溜めて、必死でこらえているように見えて。
どうしたって眉が寄り、彼女を傷つけたんだと全身で実感した。
「……こんなこと、しないでください」
「っ……」
「自分のことは、自分でできますから」
切々と伝わってくる彼女の気持ちに、何も言えずただ愕然とする。
深々と頭を下げられ、小さく聞こえた『すみません』の言葉。
……お前は、まだこんな俺でも恩師として扱ってくれるのか。
そんな権利ないのに。
もう、ついえたのに。
お前にそう思ってもらう義理はないんだ。
――……今日、お前を誰よりも傷つけたのは俺なんだから。
俺のせいで、お前がつらい思いしかしなかったんだから。
「……っ……葉山。送る」
「大丈夫です。独りで、帰れます」
くるりと背を向けて歩き始めた彼女に慌てて声をかけるも、首を振るだけ。
だが、数歩歩いたところで……静かに足を止めた。
「鷹塚先生」
「っ……なんだ?」
「今先生の前で泣いたら、慰めてもらえますか?」
「ッ……!」
「…………ごめんなさい。悪い教え子ですね」
「葉山……!」
「……今日のお金、月曜日でもいいですか? ……すみません。失礼します」
顔だけで俺を振り返った彼女は、精一杯我慢しているような顔で笑った。
儚くて、切なげで。
……堪らない、笑顔。
静かに歩き始めた彼女は、その後、俺を振り返ることはなかった。
どうしても戻らない、眉間の皺。
……当然だ。
俺は――……取り返しのつかないことをした。
馬鹿だ。
何が、とっくになかったことになってる、だよ。
全然、なかったことになんてなってないのに。
俺に対するとき、ものすごく勇気がいったに違いないのに。
……なのに俺は、無神経なほど簡単に声をかけていた。
普通を保とうとしていた。
…………何もわかってなかったんだ。
そのたびにアイツは笑顔を見せてくれながら、必死に我慢して精一杯取り繕ってくれたんだから。
「………………」
小枝ちゃんのほうが、よっぽどアイツをわかってる。
泣きそうになるのを堪えてる笑顔ね。
彼女の言葉が頭に響き、またため息が漏れた。
まだ明るさの残る空。
だが、今もし雨がパラついたところで、この空に虹は出ない。
……出そうにないな。
もしかしたら、俺の前にはもう二度と現れないかもしれない。
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