「瑞穂」

「っ……!」
「瑞穂。……俺のモノになれ」
 瑞穂、か。
 昔も今も呼んだことのない名前を口にし、唇を親指でなぞる。
 不思議なモンだな。
 こんなふうに名前を口にするだけで、まるで自分の所有物のように感じる。
 ……単純なのか、俺は。
 とっくの昔にそうしたこともあったのに、自分でふりだしに戻したクセに。
「っ……あ」
 再度、置いたままの携帯が震えた。
 暗闇に光る、パネル。
 ふと彼女を見下ろすと、困ったように眉を寄せてそちらを見つめていた。
「あ……」
「…………」
 指先で引っかけ、掴んでから目の前へ下げてやると、俺とそれとを見比べてから、ゆっくり両手で掴んだ。
 パネルに触れ、おずおずと耳へ当てる。
 そのとき、液晶の明かりで彼女の濡れた唇が見え、ぞくりと身体が反応した。
「……もしもし。ごめんなさい、えっと……あの……あ、そうじゃなくて、っ……違うんです。えと、すぐ……戻りますね」
 ざわざわしている音に混じって聞こえる、低い声。
 それは間違いなく男で、どう聞き間違えても女のモノじゃない。
「…………」
「…………」
 静かに通話を終えた彼女が、改めて俺を見つめた。
 通話を終えたため、先ほどまでの明かりはない。
 外灯もないここじゃ、互いの顔を見るために相当近づかないと見えない。
 出たいのか? ここから。
 行きたいのか? ……そいつの元へ。
 ……俺と散々キスしたのに?
 お前はいったい、どんな顔でその男のところへ戻る気だ。
「……あの……すみません。待ち合わせが……」
「…………」
 おずおずと俺を見つめた彼女が、携帯を握り締めたまま小さく囁いた。
 会って、どうするんだ。
 同じように、甘い声を聞かせてやりながら唇を重ねるのか?
 俺に舐められた、その唇で。
 ……いや。
 むしろ、それ以上のところまで……か。
「……っ!」
 ごめんなさい。
 もう1度そう呟きながら視線を落として立ち上がった彼女が、俺の隣をすり抜け――……たところで腕を掴んで引き、後ろから抱きしめる。
「た、かつか……せんせ」
「行くな」
「っ……」
「……なぁ。行くなよ。……頼むから」
 後ろから抱きしめ、ぎゅ、と力を再度込める。
 彼女の肩口へ目を閉じて顔をうずめると、あの甘い香りがした。
 強く、優しく、俺を惑わせるハッキリとした香り。
 ……甘い、たまらなくイイ香りだと思う……彼女の匂い。
「…………すみません」
「……そうか」
 わかった。
 小さく呟き、閉じていた瞳を薄っすらと開く。
「っ……!! ひゃ……ん、あっ!」
 ふっと力を緩めた次の瞬間、再度腕に力を込めて離れようとした彼女を引き寄せる。
 そのまま白い首筋へ顔をうずめ、吸い付くように唇を押し当てて口づける。
 ワザと、圧をかけて。
 消えないように。落ちないように。

 コイツが、困るように。

「っん……!」
 ちゅ、と音を立てて唇を離し、彼女をがっちりと抱きしめていた腕も解く。
 すると、前のめりに崩れてしまいそうになりながら、よろけるように彼女が立ち上がった。
「悪いな」
 まったくそう思ってないのに、さらりとそんな安っぽい言葉が漏れた。
 驚いたような顔をして振り返った彼女をまっすぐに見つめたまま、ゆっくり立ち上がる。
「一度諦めた以上、引き下がってやる。……今はな」
「……え……?」
「気が変わった。……お前をほかの誰かにくれてやるつもりはない」
「ッ……」
 もっと早くこう言っておけば、違っただろうに。
 ほかの男に取られてからやり返すなんて、ガキと同じだ。
 ……そうはわかる。頭では。
 だが、これ以上コイツが俺以外の男にどうにかされると思ったら、言わずにはいられなかった。
 奪えるなら奪う。
 これまでの自分の経験上まずしなかったし、やろうとも思わなかった外道にも似たコトを、やってやろうと思うほどにまでなった。
 ……コイツがそうさせたんだ。俺を。
 変えたのは、彼女。

「獲りに行く」

「っ……」
「……お前をソイツから奪ってやる」
 お前が言ったんだろ?
 悩むのは答えが出ないからだ、って。
 どっちか決めかねてるからだ、って。
 ……なら、正直に動けばいいんだよな。
 そうすりゃ、おのずと答えは出るんだ。
 だから、決めた。
 もう一度お前を俺のモノにする。
 今度は、手を出さないなんてヌルいことは言わない。
 本気で狩りにいく。……お前を。
 あと戻りは、しないと決めた。
「……っ……あ」
「通りまでは送ってやる」
 立ち上がり、彼女の肩を引き寄せて歩き始める。
 ふわりと香る甘い匂いに、一瞬くらりと眩暈がした。
 ――……自分より遠い遺伝子配置であればあるほど、いい匂いがする。
 以前、テレビか何かでそんなことを聞き、なるほどと思った。
 だから、欲しくなるのは当然、か。
 人とはいえ、獣と同じ。
 違う遺伝子配列を望むってのは、よりよい子孫を残すための本能ってヤツなんだろう。
 ……フェロモンだな。
 まさに、効果は覿面(てきめん)
 事実、彼女から離れられなくなってるんだから。
「…………」
 薄い浴衣地ごしに伝わってくる彼女の体温が、やけに熱く思えた。
 ちらりと横目で横顔を伺うと、意外にも困っているようでもなく、どちらかと言うと――……笑みすらあるように見えて。
 ……どういうことだ。
 確かに、『?』と思うことは沢山あった。
 キスだってそう。
 無理矢理されたはずなのに、本気の拒みが一度もなかった。
 ましてや、彼女は幼いころから武術をたしなんでもいて、その実力はほんの少しとはいえ身を持ってわかっている。
 本気で逃れようと思えば、俺なんて簡単にねじ伏せられるだろうに。
「……瑞穂」
「っ……! は、い」
 来た道をここまで戻ったので、ぼんやりとしていた提灯の灯りがハッキリと見え、喧騒が大きくなった。
 屋台の群れはすぐそこ。
 通りに入ればすぐ、彼女の待ち人がいるかもしれない。
「っ……」
 腰を引き寄せ、顎に手をかけてわずかに上を向かせる。
 腰が密着したのは、わざと。
 ……彼女の反応を確かめるために。
「…………」
 ゆっくりと、伏し目がちに唇を寄せる。
 目の前で、きゅ、と閉じられた形イイ艶やかな唇。
 ふっくらと柔らかい感触は、先ほど味わってよくわかってる。
 ……が。
「…………」
 寸前で止め彼女の表情を伺うと、ぎゅっと閉じられたまぶたがわずかに震えているように見えた。
 その一方で、待ち望んでいるようにも見える。
 …………どっちだ。
 それよりも、なぜお前は俺を拒まない?
「いいんだな?」
「っ……」
「本気で獲りに行って。……泣くなよ?」
 ちゅ、と頬に口づけてから呟くと、驚いたような目で俺を見つめ返した。
 ごく近い距離。
 息がかかるほどなんだから、恐らく鼓動も身体ごしに伝わっているんじゃないだろうか。
 ……ガラにもなく打ち付けているんだから、もうバレてるだろう。
「どうするかを決めるのは……私ですか?」
 1度閉じた唇をゆっくり開いた彼女が、かすかに笑ったように見えた。
 気のせい、かもしれない。
 だが、その言葉に間違いはない。
「……いや。お前に選択肢はない」
 わずかに掠れた声で首を横に振ると、彼女が小さく『わかりました』と呟いた気がした。
 引き寄せていた腕を解き、彼女から一歩退く。
「じゃあな」
 ひらりと手を振り、ひと足先に喧騒へ飲まれに行く。
 もう、振り返りはしない。
 俺が見据える先にあるのは、ひとつだけ。

 彼女が俺の隣にいる、日常。

 それが当たり前になることしか、考えない。
 ……余計な考えは不要だ。
 獲る、と決めた今はもう。
「…………」
 葉山がそのあとどうしたかは、わからない。
 だが、俺の後ろ姿を彼女じゃないヤツが見つめていたことを、そのときの俺は気づきもしなかった。


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