「……あ……」
「いや、先生ちょっと一服って」
「……そうなんだ」
 ドリンクバーから戻って来た杉原君が、入り口を指さしながら独り戻って来た。
 知ってた、とは言わない。
 ずっと彼の後ろ姿を目で追っていたから、そうだろうなと思った……とも言わない。
 ……一服。
 そういえば、鷹塚先生とふたりきりでいるとき、彼がそう言って私から離れることはほとんどなかった。
 記憶にあるのは、先輩の結婚式の帰り道に、休憩で寄ったSAでだけ。
 気を遣わせていたのかもしれない。
 だけど、一緒に居る時間が減らなかったことが、素直に嬉しい。
 ……我侭だ、私。
 小さいころから、ずっとそう。
「……葉山、さ」
「え?」
「お前、やっぱきれいになったな」
 こほん、と咳払いして背を伸ばした杉原君が、視線を逸らして呟いた。
 ……きれい。
 鷹塚先生がそう言ってくれたとき、彼はまっすぐに目を見て言ってくれた。
 嘘をついてるかどうかなんて、すぐわかる。
 だからこそ、そのときの彼にそんなモノは存在しなかったのが、心底嬉しかった。
「高校ンときも思ったけど、今はもっと……ホント、きれいになったと思う」
「……ありがとう」
 今度は顔を見て言ってくれたので、彼を見ながら小さく笑う。
 当時の自分を知ってる彼にそう言われて、少しだけほっとする。
 お世辞でもいい。
 きれいになったと言ってもらえたら、努力が実ったのかと少し安心できるから。
 これまでがんばったことが、報われたのかと思えるから。
「……あの、さ」
 ジュースをひと口飲んだ彼が、1度視線をテーブルへ落としてから再度私に合わせた。
 ……あ。何か言われる。
 雰囲気が異なったのを見て不意にそう思うと、心がぎくりと固まった。

「もういっぺん、俺とのこと考えてくれないかな?」

 ……やっぱり、とは思った。
 だけど言えない……そんなことは。
 もう1度……か。
 もう1度、あったらいいよね。
 ……私にはもう二度と、口にできない言葉。
 だって、やっぱり二度目はそう簡単に掴めない。
「あんときも言ったけど俺、小5ンときからお前のこと好きだったんだ」
「…………」
「……今、教師になったし。あのときとは違う。もう、大人だろ?」
 …………さあ、困った。
 視線が落ち、合わせた両手を弄る。
 あのときも、こんな感じだったのかな。私。
 杉原君も、困ったような……そんな顔、してるね。
「……ごめんなさい」
「…………やっぱダメか」
 ぺこりと頭を下げると、ふぅ、とため息をついた彼がソファへもたれた。
 がしがしと頭を掻き、外を見つめる。
 ……ごめんね。
 もう1度心の中で思い、冷めてしまった紅茶を含む。
「……ごめんね。ついこの間、私……失恋して」
「え……?」
「ずっと好きだった人だったから、ちょっとまだ、癒えてないの」
「……そっか」
 あれは失恋に入るのだろうか。
 疑問ではあるけれど、でも正しいような気もする。
 失恋。
 そう思えば、傷が軽くなるような気もして。
 自分から諦めた、と言えばまだ……傷が浅いような気がして。
 ……やっぱり、ずるいな。私。
 ずっとわかってたのに、彼を困らせただけじゃなくて、結局あんなふうに自分の傷が最小限で済むように考えて動いたんだから。
「その好きな人ってさ、高校ンときと同じ?」
「……うん」
「年上の?」
「…………ん」
 ジュースを飲んだ彼が、顔を上げた。
 高校のときに告白されたあの日にも、同じように言って断ったんだよね。
 ――……好きな人がいるの。
 ずっとずっと年上の人だけど、でも、好きなの。
 ……すごくカッコよくて……特別で。
 俺は、足元にも届かない?
 杉原君に言われたとき、やっぱり私はまた『ごめんね』と謝っていた。

「……それってさ、遊ばれてたんじゃないのか?」

「……え……?」
「だって、すげー年上なんだろ? 高校ンときって、今からもう6年以上前じゃん」
 そうか。もう6年なんだね。
 ちょうど――……そう。
 鷹塚先生に、年賀状が届かなくなったときと同じ。
「……遊び?」
 ぽつりと彼の言葉を復唱すると、なんともいえない感じが身体に広がった。
 遊び……か。
 なるほど。
 確かに、そういう言い方もあるかもしれない。
 ……でも、杉原君は何も知らない。
 ただ、私だけが彼を好きだったんだということを。
 一方的な片思いでしかなかったことを。
 ……ただの憧れでしかなかったことを。
「…………」
 遊ばれてたなら、まだ関係があったということになる。
 ふたりを繋ぐ何かが。
 ……でも、違う。
 私は彼に想いを寄せていたけれど、彼は私をなんとも想っていなかった。
「つーかさ、そもそも……そいつって葉山の気持ち、わかってたのか?」
「え?」
「お前が好きだってこと、相手にちゃんと伝わってたのか?」
「っ……」
 見抜かれてしまった。
 ……ううん、当然だよね。絶対のことだ。
 2度も思いを告げてくれたのに、2度とも同じ断り方をしたんだから。
 すごく失礼なんだ……私は。
「………………」
 大人になってから、変わった関係。
 ……変われたのかな? あれは。
 彼にとって私は、何か変わったんだろう。
 ぬるくなった紅茶を含むと、唇にカップの感触が心地よかった。
 彼がくれた、口づけ。
 最初で――……最後の。
 でも、本当に特別で、本当に奇跡なんだと思った。
 遊びなんかじゃなかった、とは言い切れない。
 でも、それでもよかった。……本当に。
 彼は私にとって、本当に特別で大切で、手の届かない人だから。
 ありえないと思いながらも、ずっと想い続けた人。
 ……だから、嬉しかった。
 でも、申し訳なかった。
 そのせいでずっと、彼を傷つけ悩ませ続けていたから。

「……っ……」
 目を開けると、ひとすじ涙がこぼれた。
 そのことに驚き、慌てて起き上がってから目元をぬぐう。
 鷹塚先生は私にとって、なんなんだろう。
 私は彼の……何?
 欲しがることはできない。
 だって、私は彼の教え子であり、ただの同僚。
 特別じゃないから。
 ……もう、違うから。
 ううん、ずっとそうだった。
 彼にとって私は、ただの何百人もいる彼の教え子のひとりでしかなかったんだから。


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