「ありがとうございました」
「いえ。そう仰っていただければ、何よりではありますが」
 土曜日の朝いち。
 営業開始の10時きっかりに事務所のドアを叩いた奥さんは、先日と同じ整った服装と顔立ちで現れた。
 テーブルの上には、これまでかかった費用の明細書と、彼女が置いた銀行の封筒がある。
「……あの。結局、ご主人は帰ってこられたんですか?」
「ええ、もちろん。やはり良さがわかったんでしょうね。今朝方まで泣いて謝ってましたから、少しは反省したんじゃないですか?」
 にっこり、と音が聞こえそうな表情で首をかしげられ、反射的にごくりと生唾を飲み込む。
 ……怖い。
 そうか、わかった。
 この人、完璧すぎて怖いんだ。
 なんでもパーフェクトな超人すぎるから、かえって何を考えているかわからないっていうか、読めないっていうか。
 そう。
 言うなれば、この私の隣に座っている鳴崎さんみたいな感じ?
「っ……」
 なんて考えていたのがバレでもしたのか、ちらりと冷たい視線を向けられ、慌てて目を逸らす。
 考えてません、考えてませんとも、恐れ多いことはひとつとして何も。
 うっかり乾いた笑いが出そうになるのを押しとどめるかわりに咳払いをひとつすると、奥さんはにこりと笑って席を立った。
「もう二度とないでしょうけれど……もし、またあったときには改めてお願いにまいります」
「そうならないことを願っております」
「ええ。どうも」
 あの笑顔は絶対嘘だ。
 だって、怖い。
 鳴崎さんが、いつもと同じように両手を身体の横へ沿わせて一礼したのを見てから自分も習うと、『それじゃ』とひとこと残して彼女は事務所をあとにした。
 ……うぬぬ。
 結果として、旦那が浮気してるという事実を把握するためにかかった費用は、当初の倍まで膨らんだ。
 だけど、ねぎることなくポンと置いていったあたり、余裕なのか意地なのかよくわからなくなる。
「片付いた?」
「ああ。領収も済んだ」
「さすがだね。やっぱ、やること違うよあの人」
 昨日とは違ってジーンズにカットソーを着込んだセンリさんが、肩をすくめてからドアを見つめた。
 結局、昨日の夜は藤沢駅前で昼メロみたいな愛憎劇が繰り広げられることになったけれど、私たちは一切手を出すことなく見守るしかできなかった。
 女の取っ組み合いって、怖い。
 きっと、そう思ったのは旦那さんだけじゃなくて、あの場にいた多くの男性陣が共通だったことだろう。
「……あの旦那さん、もう浮気しないんですかね」
 気になったのは、そこ。
 二度としません、と誓ってもヤる人はヤる。
 現に、この事務所でも同じ人からの浮気調査以来が舞い込むことは珍しくない。
「まぁ、あの奥さんが亜沙の半分くらい計算できなくなったら、旦那は浮気しないと思うよ」
「……どういう意味ですか」
「ん? そのまんま」
 センリさんに、にっこりと笑われ、たちまちイラっと感情が昂ぶる。
 だけど、鳴崎さんはまったく目もくれずに判の押された書類と封筒を手にすると、誰よりも早く出勤していた社長のデスクへ向かった。
「社長、どうして男の人って浮気するんですか?」
 書類をめくりながら確認していた彼女に、遠くから訊ねてみる。
 すると、眼鏡を直してちらりと私を一瞥してから、小さく肩をすくめた。
「男っていうか、女も一緒でしょう? そこは」
「それは……まぁ」
「結局、我慢できるかできないか、じゃないの?」
「……我慢」
「まぁ、あとは本人に遊びと本気の区別がつくか、ってところね」
 犬猫じゃないんだから。
 トン、と書類をそろえてからクリップでまとめ、引き出しのファイルへしまう。
 その一連の動作を見守っていたら、センリさんが『そーゆーこと』とまた意味深に笑った。
「…………」
 それが大人になるってことなのかな。
 でも、大人だから浮気するんじゃないの?
「…………あーもー……」
 こういうとき、ちゃんと答えを教えてくれる人がいればいいのに。
 っていっても、瑞穂さんだって答えを教えてはくれないけれど。
 教えてくれるのは、答えの出し方だけ。
 だから、どうしてもわからないときは寝ても覚めても頭を使うハメになって、まぁ、多少活性化するといえば活性化するんだろうけれど。

 ちなみに、あれから1ヶ月。
 今のところ奥さんからの連絡はないので、もしかしなくても……これから、が本番ってヤツらしかった。


 ひとつ戻る   目次へ