我輩は猫である。
名がない彼が語るその話は、我々の間でも逸話になっている。
多くの、名前を持つ猫たちに崇められているほど。
それこそ、名こそ持たぬものの、もっとも有名だといえよう。
我々の間では、『猫様』と呼ばれ、それこそ神のような地位におられるのだから。
「…………」
我々は、人間たちと違って視線が低い位置にある。
その上、あまり視力もよくない。
確かに、犬たちに比べればいいと言われているが、それはあくまでも人間が我々のことを調べて得た情報。
実際なんて、我々にしかわからないのに。
それが少し、愚かにも思える。
……まぁ、人間はそうやって進化してきたといえるから、あざ笑うようなことではないのだろうが。
それが彼らの進化の過程であり、進化の術。
探求をやめたが最後、恐らく彼らは先に進むことができなくなるだろうから。
「…………」
ふと見上げれば、いつものように遠く高い空が目に入った。
だが、今日だけは少しいつもと違う。
……気分があまりよくない。
これはずっと、朝から続いていた。
いや…………もうずっと前から続いていたような気もする。
ゆっくりと足を見つめてから、地につけてみる。
長い間親しんだ、この地。
だが――……もしかしたら、今日で最後になるかもしれない。
本能的にそれを感じると、少しだけ寂しい気がした。
……最後。
そのことを伝える術もないが、しかし……。
ただひとつ。
これまでの長きに渡って歩んできた我が人生ながらも、ひとつだけ、どうしても気がかりなことがあった。
あれをなんとかするまでは、どうしても離れられない。
あの子だけは。
どうしても、あの子だけは……我が力で救ってやらなければ。
少し長く生きすぎたのだろうか。
……いや、むしろまだ少ないほうだ。
人間に比べれば、まだ足りない。
もっと生きることができたら、と毎日望む日々だったのに。
「…………」
力のあまり入らない足を動かし、ゆっくりと闇に向かって歩を進める。
暗闇。
そこに居ると、本当に落ち着くものだ。
いろいろな感情が高まり、治癒力も増す。
……だから。
あそこに行けばきっと、救われる。
そう思いはするのだが――……。
「……なぉ……」
か細く、声が漏れた。
……あぁ。
こんなときに、ひとりになるとは。
いつもは、あたたかい空気に包まれているのに。
沢山の声も、温もりも、あるのに。
チリン、と首に付いている鈴が透き通る音を鳴らせた。
――……最後か。
くたっと身体から力が抜け、まぶたが閉じそうになった。
まだ。
まだ、足りないのに。
「…………」
だが、時というのは酷なもので。
名残を惜しむ時間もないのか。
すぅっと瞳が閉じたそのとき、遠くで、我を呼ぶあたたかい声が聞こえた気がした。
――……いったい、どれくらいの時間が経ったんだろうか。
さく、さく。
微かに、何か音が聞こえる。
……あれは、誰かが歩いている音。
いや、むしろ『誰か』なんかじゃない。
あんな歩き方をするのは、間違いなくただひとりしかいないから。
「……ツカサー」
少し遠くから、呼ぶ声がした。
……あぁ。
なんだ、まだ生きながらえているのか。
うっすらと瞳が開くと、先ほどと何ひとつ変わらない世界が見えた。
音も、匂いも。
何もかもが、同じ。
――……だが。
「美空」
その言葉は我々『猫』同士で遣う言葉ではなく、耳慣れた、人間たちが遣う言葉に違いなかった。
…………。
………………。
はっとして、手を見る。
1、2、3、4、5。
そこには、5本の指が見えた。
……指。
ということはつまり、足じゃなくて、手。
ぷにぷにとした肉球も毛も生えていない、すべすべとしたまっ平らなアレ。
…………。
……手?
「…………」
まじまじと見つめてから、恐る恐るその『手』とやらを動かして頭へ持っていく。
ふに。
いつもよりずっと低い位置に、何かが付いていた。
……む。
これは確か――……人でいう、『耳』とかいうモノか。
指と同じく、毛の生えていない、やけに気持ちの悪いモノ。
「……ごくり」
ぎょろり、と普段よりずっとよく見える瞳を下に向けたら、何やら見慣れないモノが見えた。
……なんだコレは。
ほかの部位にはまったく生えていないのに、そこにだけなぜか毛が生えていた。
そして、まるで覆われているかのように生えている、ぶ――。
「っきゃぁあああああぁ!?」
間近で、鋭い金切り声が聞こえた。
バッと弾かれるように見ると、そこには、それはそれはよく見知った顔。
「なっ……ななっ……なっ……!?」
だがなぜか、今だけは両手で頭を抱え――……ではなく、両の瞳を押さえていた。
「ちょっと! ちょっ……あなっ……アナタね!! いったい、人のウチの庭で何してるの!?」
「……へ?」
必死に視線を逸らしながら指差され、ぽかんと口が開いた。
……まただ。
漏れたのは、知らない音。
自分が発することのできなかった、モノ。
「……あれ……?」
どんなに願っても、することができなかった唯一の伝達手段。
それを今、なぜだかしらないが容易く手に入れていた。
「ちょっ……ちっ……近づかないで!!」
「……え?」
「え、じゃなくて!! うぅっ……や……いやぁああ! 誰なのよ、だから、アンタはーー!!!」
ぶるぶると首を振られ、ようやく自分が拒否されているんだと分かった。
……しかし。
なぜ、拒否するのか。
その理由もわからず、ただただ無性に悲しくなる。
「いやっ! こないで!! ヘンタイーー!!!」
「あっ!?」
一歩そちらに近づいた途端、ひっと肩を震わせてから、彼女が背を向けて走り出した。
「まっ……待てよ! 美空!!」
「っ……!?」
咄嗟に出た言葉。
それで、間違いなく彼女が反応を見せた。
驚いたように丸くした瞳を、しっかりとこちらに向けて。
「……な……んでっ……!? っていうか、え……!? なっ……なんで、アナタっ……私の名前知ってるの……!?」
みるみるうちに、恐怖におののくような顔をした美空。
だが、言う言葉が出て来ない。
……本当に、つい、出たのだ。
これまでの長きに渡って親しんできた飼い主の名前が、何に阻まれることなく。
それはあくまで、自然に。
「まっ……まさかっ……! ストーカー!?」
「……え?」
「そうね、そうなのね!? そうに違いないのね!?」
「美空……?」
「いっ……いやぁあああぁあ!!!」
「あっ!?」
青ざめた顔をした美空は、再びこちらに背を向けて思い切り走り出した。
……どうしたものか。
思わず、猫のときにはできなかった『腕組み』をしながら、美空が走って行ったその先を見つめる。
……あぁ。
やけに視線が高いと思ったら、そうか。
自分は立っていたのか。
遠くに見えるドアがやけに近く感じられて、少しだけ嬉しかった。
「…………」
しかし、どうしよう。
待てどくらせど、美空は店のドアから一向に出てこようとしない。
……あぁ、そうそう。
美空が走って行ったのは、彼女のパパさんがやっている喫茶店なんだ。
恐らく、あそこにはママさんもいるんだろう。
いつも、『ダメだ』と言いながら残り物を食べさせられた、少しだけ苦い思いが蘇った。
「…………困ったな」
まだ慣れない、『声』と言うもの。
……だが、ただひとつ。
どんなことよりもまずわかったのは――……猫であった自分が、今は『人』としてこの場に立っているということだった。
|