なぜ、なんて理由はわからない。
 ただ、気づいたときにはこうなっていたとしか言えないのだ。
 ――……なのに。
「大丈夫かい?」
「ええ。まぁ」

「……かわいそうに……記憶をなくすなんて」

 なぜか目の前には、うるうると今にも泣いてしまいそうな顔をしている、お父さんとお母さんの姿があった。
 おかしい。
 おかしいよ、ふたりとも。
 ……何!?
 何を言い出すの、いったい!!
 それこそ、どこの馬の骨だかわからないようなヤツなのに!!!
 なのに、なんでそんな人間をひょいひょいとリビングに上げてるの!?
「…………」
 そもそも、マッパよ!? マッパ!!
 この時代にそんな格好でヨソの家の庭に立ってるなんて、それこそ変質者以外に考えられないのに!
 それなのに、どーしてこのふたりはこんなにも平然と、あるがままに受け入れることができているんだろう。
 ……おかしい。
 いくら、普段からのほほーんとしているからって言っても、これは絶対の絶対におかしいっていうのに……!!
「っ……」
 キッ、とテーブルを挟んで向かいに座っている男を見ると、こちらに気づいて、一瞬びくっと肩を震わせた。
 ……むむむむむ。
 やっぱり、絶対絶対おかしいわよ。
 明らかに、挙動不審だもの。
 だいたい、『記憶がない』とか言っておきながら私の名前を覚えてるのも妙ならば、ウチの勝手を知ってるっていうのも変。
 ……やっぱり、ストーカー以外に考えられない。
 のんきに――……というよりは、それこそ『悲劇の主人公』を見るような眼差しの両親に代わって、私だけはしっかりしておかなくちゃ。
「ねぇ、お母さん。警察とかに言わなくていいの?」
「え? あ、ええ。一応ね、さっき……そこの駐在さんには言ってきたけれど……」
 ……『一応』ってあたりが、どーもしっくり来ない。
 だって、お母さんってば『ねぎを買ってくる』って出て行って、『ニラ』を買って帰ってくるような人なのよ?
 何か、違う人と間違えてたりしないかしら……。
 ちょっと不安。
「あぁ、そうだ。君、名前はなんて言ったっけ?」
「……ツカサです」
「あらぁ、ウチの猫ちゃんと一緒だわ」
「そうだなぁ」
 ちょっと……!
 ちょっとちょっと!!
 なんでいきなり、和むの!?
 名前を聞いた途端『そうか、一緒かぁ』とか言いながら笑顔を見せたふたりに、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
 ……って、ちょっと。
 なんで、アンタが手を挙げてんのよ。
 挙動不審。
 やっぱり、おかしい。
 目が合った途端に慌てて手を下ろした彼を見ていたら、一層、疑惑は深まっていった。
「ねぇ、美空」
「……え? ……あぁ、えっと……何?」
 そっぽを向いたまま頬杖を付いていたら、『あ、そうだ』なんて手を打ったお母さんに呼ばれた。
 ……って、何……?
 なんでそんなに、嬉しそうな顔してるの?
 にっこにっこと嬉々とした表情を浮かべているのが、なんだか逆に怖い。

「ねぇ、この街のこと案内してあげたら?」

 がちゃーん
 …………次の瞬間、持っていたコーヒーカップは音を立てて床に砕けた。

「…………」
「…………」
 何も言わず、何も見ず。
 ただひたすら前を見ながら歩き続ける、寒空の下。
 つかつかと足早に歩くものの、一向に隣に並んだ靴は離れることがない。
 ……なんで私が……。
 どうして。なんで。
 不機嫌なのも当然ならば、こんな機嫌が直るはずもない。
 どーしてこの私が、こんな被疑者とふたり揃って街を歩かなければいけないんだろう。
「…………」
 ちらりと隣を見上げてみると、まるで、自分の庭でも歩くかのように平然と歩を進めていた。
 ……なんなのよ、コイツ。
 記憶喪失なんて、ホントは嘘なんじゃないの?
 ただ、身元がバレないようにするために、言っただけなんじゃ……。
 …………。
 ……そう思うと、なんだか怖かった。
「…………」
 金に近い茶髪。
 そして、ソレと同じ色の瞳。
 ……日本人、じゃないってワケじゃないわよね……。
 だって、普通に会話はできるんだし。
 だけど、服装はお父さんのシャツとジーパンだから、イマイチぱっとしない。
 …………なんなんだろう、この人。ホントに。
 っていうか、お母さんもお母さんよ!
 こんな、得体のしれない人とふたりきりで……もしも私に万が一のことがあったら、どうするつもりなんだろ。
 そりゃあ、『歩けば何か思い出すかもしれない』って言い分はわからないでもないけど……。
 でも、だからって……なんだか……なんだなぁ。
「美空ー」
「……え?」
 はぁ、とため息をついた横断歩道。
 信号が赤で止まったら、向こう側から私を呼ぶ声がした。
「……あ」
 これまで、ずっと曇りっぱなしだった心が、ぱっと晴れたように感じた。
仁志(ひとし)だぁ……」
 そう。あれは、間違いなく……えへへ。
 私の、彼氏君なのだ。
 へにょん、と顔が緩む。
 彼は、つい先月から付き合うようになった私の彼氏。
 おっちょこちょいで、ちょっとだけ気が弱いところが玉にキズだけど、私にはとっても優しい。
 ……えへへ。
 昨日は学校で会ったんだけど、今日の約束はしてなかったんだよね。
 なんでも……家の用事、だったかな。
 そんなんだから、偶然に会えてすごく嬉しい。
「ひと――ッ!?」
 信号が、赤から青に変わったのを見て、手を振った瞬間。
 すごい力で、引き止められた。
「……なっ……!?」
「美空!?」
 丸くなった瞳の先に居るのは、当然彼しかない。
 ……例の、変質者男だ。
「なっ、ちょ……!? ちょっと! ちょっと!!」
「おい!! なんだよお前!!」
 慌てたように走ってきた仁志が、彼の腕を掴んだ。
 だけど、その途端。
 怖いくらいの眼差しで、彼は仁志を睨みつけた。

「美空に触るな……ッ……!」

 ぞく、っとするくらいの声。
 びっくりしたのか、仁志も慌てて手を引っ込めた。
「な……に言って……」
「いいか? ずっと言おうと思ってたけどな、俺はお前が大嫌いなんだよ!! 帰れ。……金輪際、美空に近づくな!!」
「ひっ……」
 ドスの利いた低い声で、思わず喉が鳴った。
 ……のは、私じゃなくて仁志。
 瞳を大きく開いて、そのままよろよろと後ろに下がる。
 むっ……っかぁ……!!
「ちょっと!! アンタねぇ、言っていいことと悪いこと――……っていうか、そもそも!! なんなのよ! アンタにそんなこと言われる筋合いないわよ!!」
 仁志が泣きそうなのを見て、悔しかったのかもしれない。
 ぷちん、と何かがキレた気がしたから、確かだ。
「あ、わ!? ちょっ……!?」
 そんな私を一瞥したかと思った、次の瞬間。
 すごい力で引き寄せていた私から手を離すと、今度は、尻餅をついていた仁志に向かった。
「ひぃいいっ……!?」
「いいか! 美空に近づいてみろ! お前なんかなぁっ……お前なんか……!! また引っかいてやる!!」
「うぇえ!?」
「ちょっ……! ちょっと!!」
 ぐいっと簡単に胸倉を掴まれて、少し浮いている仁志。
 あまりに尋常じゃない光景で一瞬我を忘れていたけれど、慌てて彼を止めに入る。
「ちょっと! ねぇ、やめて! やめてってば!!」
「だいたい、猫嫌いのクセしてっ……! よくもまァ、俺がいない間に美空をたぶらかしたな!?」
「ねぇ、ねぇってば!! ちょっと! やめなさいよ!!」
 なんて力だろう。
 両手に思い切り体重をかけて腕を引いているのに、びくともしない。
 それどころか、仁志に加わってる力は一層強くなってるらしく、みるみるうちに彼の顔が青ざめていった。
「っ……!!」
 どうしよう!!
 何もできなくて、それが情けなくて。
 どうにかしなきゃって思いばかりが先走る。
 ……でも、でもっ……!
 でも、私にどうしたら……!?
「……っ……!」
 そのとき、ひとつの単語が、私の中にぽんと浮かんで来た。
 ……なんでか、なんて理由はわからない。
 だけど、咄嗟に口にしていた。

「ツカサ、やめて!!」

「っ……!」
「あぐっ!?」
 途端。
 まるで、これまでのことが嘘だったみたいに、彼が仁志から手を離した。
 少し高い位置で落とされたせいか、お尻から落ちた仁志は、情けなく目に涙をいっぱいにためている。
「……み……そら……」
 ……その顔。
 それは全然知らない顔に間違いないのに、どこかで……見たことがあるような気がした。
「っ……仁志……!」
 ごくっと喉を鳴らせてから彼に駆け寄り、手を取って立ち上がらせる。
「大丈夫……?」
「……へいき……」
 そうは言いながらも、全然平気そうじゃない顔。
 青ざめていて、私と目を合わせようともしない。
「つっ……」
「……え?」
 そんな彼が、表情を歪めてから腕を押さえた。
「どうしたの? ……怪我した……?」
「いや……古傷が……」
「……古傷?」
 長袖を捲り上げたソコには、うっすらとした2本の線があった。
 ……聞いたことがある、傷跡。
 これは確か――……。br> 「あの……昔、猫に引っかかれたっていう……?」
「……うん。なんか、急に……あいててて。すげ……痛い……」
 そう言うと、仁志はまた表情を歪めて、再びそこを押さえた。
「そ、それじゃっ……俺、帰るから……!」
「あ、えっ……!? ちょっ……! 仁志!?」
「ごめんっ!!」
 暫く沈黙が続いていたかと思ったら、急に仁志が立ち上がった。
 これまで来た道を引き返すかのように、背を向けて走り出す。
 その姿は、言うまでもなく――……私から逃げているように思えた。
「…………」
 残されたのは、ものすごく嫌な雰囲気の……私と彼だけ。
 ふと視線を彼に向けると、両手を見つめたままなんだか寂しそうな顔をしていた。
 ……あ……。
 …………そう、だ。
 さっき思った、『似てる』って思ったこの顔。
 この、拗ねてるみたいな……反省してるみたいな、そんな表情。
 これはまさしく、あの、初めて仁志を家に連れて来たときの、ウチのツカサみたいな。
「…………」
 そういえば……あのときも、ツカサがいきなり飛びかかったんだっけ。
 それで、怒ったんだよ……ね。
 ……私。
「…………」
 口元に手を当てたまま彼を見ていたら、ふいに視線が合った。
 ……だけど。
 さっきまでの勢いとはまったく違って、今にも泣き出しそうな顔。
「……帰るわよ」
 そんな表情をしたのがびっくりしたのか、もしくは……良心が痛んだのか。
 きびすを返して彼の顔を見ないようにするだけが、今の私には精一杯だった。


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