あたたかい朝だった。
 柔らかいものがすぐ隣にあって、包まれるように眠っている。
 外からは、小さな鳥の鳴き声。
 それで、今が『朝』なんだと理解できる。
「……ぅ……」
 まぶたに、光が当たっていた。
 カーテンの隙間からだろう。
 眩しい白い光でたまらず手を当てると、少しだけ温もりが消えた気がした。
「……ツカサ……?」
 掠れた声で名を呼び、もぞもぞと身体を動かす。
 ――……だけど。
「ッ……ツカサ……!?」
 がばっと跳ね起きるように布団を払い、隣を見る。
 でもそこには、ツカサの影も形も残っていなかった。
「うそ……っ……」
 ……一瞬だけ、よぎった嫌な考え。
 アレは、夢の中だっただろうか。

 もしも明日、朝起きて――……ツカサがいなかったら。

 ツカサの言葉を思い出してしまったせいか、一度だけ、そんな嫌な考えがよぎったのだ。
 ……でもまさか。
 まさか、こんなことになるなんて。
「……やっ……!」
 ぞくっと嫌な感じが身体をめぐり、居てもたってもいられず、階段を駆け下りていた。
 ツカサは、居る。
 絶対に、この家のどこかに。
 きっと、先に起きて顔でも洗ってるに違いない。
 もしくは、お父さんやお母さんのところで、ご飯を食べてるとか。
「……ッ……」
 とにかくもう、今はただ不安をすべて払いたくてたまらなかった。
 そんなことない。
 そんなこと、あるはずがない。
 ただひたすらに、そう信じ込みながら。
「お母さんっ!!」
 バタン、と大きな音でドアを開けると、そこにはいつもと変わらない光景があった。
 ソファに深く腰かけて新聞を読んでいるお父さんと、そんな彼にコーヒーを渡している、エプロン姿のお母さん。
 ……でも。
「ツカサっ……ねぇ、ツカサは……!?」
 そこに、ツカサの姿がない。
 彼がいつも座っていたソファにも、好きだった日の当たる窓際にも。
 この部屋にもやっぱり、ツカサはいなかった。
「ねぇっ、ツカサは!? ツカサはどこ!?」
 何も言わずに、驚いた顔のまま顔を見合わせる両親。
 ……やだ……。
 やだよ、そんな。
 まるで、『何も知らない』みたいな顔をするのは、やめて。
 お願いだから、ちゃんと言ってよ……!!
「っお母さん……!」
 そんな願いをこめて、力強く彼女の腕を引っ張っていた。
「……美空……」
「やだっ……やだ……!! ツカサは!? ねぇ、ツカサは!?」
「美空」
「いやだっ……!」
 困ったような母の声と、落ち着いている父の声。
 だけど、ふたりの声にうまく反応できない。
 ……嫌だ。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ……!
 だって、ツカサは言ったのに!
 絶対にどこにも行かないって、私のそばに居てくれるって……!
 そう言ったのに……!!

「いやだぁっ……!!」

 ぎゅうっとお母さんへしがみつくように抱きつくと、涙と嗚咽が大きく零れた。

「…………」
 支度しなさい、と言われて連れて来られた場所。
 ……ここは、どこだっただろう。
 さわさわと少し冷たい風が吹く、緑の深い場所。
 ここに来るまでに、幾つもの石段を登った。
 石の灯篭と、石の畳。
 やけに和やかで、厳かで。
 なんともいえない雰囲気が、あたりを包んでいた。
「……美空」
 その場に立ったまま空を見上げていたら、袖を引かれた。
 見ると、少しだけ心配そうなお母さんで。
 ……ああ、そうか。
 今日は、私がここに来ようって言ってたんだっけ。
 今ごろそんなことを思い出すと、少しだけおかしかった。
「……だいじょぶ」
 緩く首を振り、柔らかく笑う。
 ……そう。
 そうだ。
 …………今日は、大切な日だから。
 私にとっても。
 そして――……。

「ツカサ、寂しくないよね」

 抱えていた、小さな白い箱。
 それを見てからお母さんに言うと、儚くも、だけどしっかりと微笑んでうなずいてくれた。

「お願いします」
「承ります」
 深い紫色の袈裟を着たお坊様。
 じゃらりと音を立てる大粒の数珠を持つ彼にその箱を渡すと、手を合わせてから、深々と頭を下げてくれた。
「…………」
 ツカサ。
 私ね、本当はわかってたの。
 ……本当は、もっと早くこうしてあげたほうがいいって。
 人と違って、動物は何度も会うと天国に行けなくなるんだって。
 ……名残惜しいっていうのかな。
 ううん。
 そうじゃなくて、人の未練にも似た強い思いが、引きとめようとしてしまうから。
 そうすると……ちゃんと安心していけないんだって。
 だから、会いに来るのも、これが最後にしたほうがいいとまで言われた。
「……ツカサ」
 着々と進む作業を見ながら、ぽつりと名を呼ぶ。
 四十九日の今日。
 ……今日まで、ツカサはこの世に留まるんだって。
 ねぇ、これまで見れなかった沢山のモノ見てきた?
 大切な仲間にもお別れしてきた?
 ……ちゃんと……。
「っ……」

 私にも、言ってくれたよね……?

 箱から取り出された小さな骨壷が目に入った瞬間、こみ上げるものがあった。
 さようなら、なんて簡単に言えない。
 だって、ツカサは私にとって大切な存在だから。
 子どもであり、弟であり、兄であり、祖父であり。
 そして――……恋人。
 今まで、沢山のものをありがとう。
 長い間、そばにいてくれてありがとう。
 ……ねぇ。
 もしも叶うならば、今度もまた私のそばにいて。
 読み上げられ始めたお経を聞きながら、自然に瞳が閉じた。

 ――……昨日のあれは、夢だったんだろうか。
 昨日の朝、人間になったツカサに会い、そしてそういう世界があることを知った。
 お父さんやお母さんもわかってくれて、そして、もう二度とどこにも行かないと言ってくれた。
 ……あれは……。
「夢だったのかな……」
 石畳の道を歩きながら、ぽつりと言葉が漏れた。
「なぁに? 美空」
「え? あ……ううん、なんでもない」
 すぐ前を歩いていたお母さんが振り返ったのを見て、我に返る。
 ……いけないいけない。
 確か、あまり思い出すのもよくないんだっけ。
 ツカサのため。
 それが、あの子のためになる。
 そう思い直し、軽く頭を振ってみる。
 ……でも、そう簡単にうまくいくはずもなくて。
 きっと暫くはまだ引きずるんだろうな、なんてちょっと思った。
 ……でも……。
「…………」
 最後の最後に、私に会いに来てくれたのかもしれない。
 ……ううん。
 きっと、そうなんだ。
 ツカサは、1番最後にちゃんと私のところにも来てくれた。
 …………つまりは、それほど心配させてるってことなんだろうな。
 重たいと怒られそうな思いを感じて、ツカサもさぞや悩んだんだと思う。
 だって、最後の最後に……あんなに手の込んだお別れをしに来てくれたんだから。
「……ねぇ、どこに行くの?」
「ん? ああ。せっかくだからな、ツカサの卒塔婆を拝みに行こうかと思って」
「……卒塔婆……」
 1番先頭を歩いていたお父さんに声をかけると、足を止めずに振り返ってから、にっこりと笑った。
 ……ああ、そうか。
 ツカサを大切に思ってたのは、私だけじゃないんだ。
 お父さんも、お母さんも。
 そして、ツカサをかわいがってくれた沢山のお客さんも。
 みんなみんな、ツカサを愛していたんだよね。
 柔らかな笑顔ながらも、ほんの少しだけやっぱり寂しそうな顔をしているふたりを見たら、少し寂しくなった。
 もう、今日で最後。
 ツカサにお別れを言うのも、ツカサを思い出すのも。
 ……それが、ツカサのためになるなら。
 誰も声に出したりはしないけれど、でも、それが本音なんだ。
「……あら……?」
「え……?」
 いっぱいに茂っている木々を見ながら歩いていたら、すぐ前を歩いていたお母さんが、小さな声をあげた。
 それと同時に顔がそちらへ向き、視線が前へと向かう。
 ――……前へ。
「……え……っ」
 瞳が丸くなると同時に、喉が鳴った。

「…………ツカ、サ……」

 全身が一瞬にして粟立った。
 声が掠れているのも、震えているのも、気のせいなんかじゃない。
 ……嘘。
 ううん……嘘じゃない。
 だってコレは夢の続きなんかじゃないし、目の前のふたりにも確かにその姿が見えているから。
「っ……」
 こちらに背を向けて、大きな仏塔の前に佇んでいる人。
 金に近い茶色の、短く、少しクセのある髪の毛。
 細くしなやかな身体。
 ぴんと伸ばされた背筋。
 ……そして――……。
「ッ……!!」

 ゆっくりとこちらを振り返ったのは、確かに、見紛うことなきあのツカサに間違いなかった。

「……うそ……」
 両手を口に当て、足をしっかり地に着けて震える身体を支える。
 まるで、音もなくこちらに歩いてくるようにも思える彼。
 口元に柔らかな笑みをたたえ、だけど確固たる意思を持っているかのような鋭さを持つ瞳。
 ……ツカサ。
 何度も何度も、その名が浮かぶ。
 だって、間違いようがないんだもん。
 ……昨日の夜、眠るときまでずっと一緒だった――……人間になったツカサと同じで。
「美空」
「ッ……」
 びくっと身体が震えた。
 ……その声。
 それもまさしく、あの、ツカサと一緒。
「……うそ……」
 どくどくと鼓動が早くなり、涙が目元に浮かぶ。
 すぐ、ここに居る人。
 それはやっぱり、間違いなく、ツカサだと思った。
 ――……だけど次の瞬間。
 思ってもなかったことが起きた。

「久しぶりじゃないか」

「……え……?」
「お久しぶりです」
「んまぁ……こんなところで会うなんて。本当に偶然ね」
「ご無沙汰してました」
「っな……!?」
 まず彼に近寄ったのは、父だった。
 満面の笑みを浮かべ、まるで旧知の友人と出会ったかのように、その肩を組む。
 ……そして、次に。
 お母さんまでもが、なんの躊躇なく彼に近づいて、にこやかに手を差し出した。
「……え……?」
 わからないのは、私だけ。
 まるで、そう態度で示されているかのように。
「……ん? どうした? 美空」
「っえ……。え……!?」
「……んもう、この子ったら……。どうしたの? ほら、あなたが1番会いたがってたんじゃないの?」
「え、えっ……!?」
 きょとんとした顔をした両親。
 だけど、むしろそんなふたりよりもずっと、私のほうが驚いているのに。
「ほらっ。久しぶりに会ったのに、何もあいさつはないの?」
「……あ……」
 お母さんにぐいっと両肩を後ろから掴まれ、差し出されるように彼の前へと身体を向けられる。
 ……同じ、だ。
 その柔らかい眼差しも、その瞳の色も。
 何もかもが、同じ。
「……ツカサ……?」
 恐る恐る、だけど確かに。
 唇が彼の名前を、はっきりと告げた。

「……久しぶり。美空」

 少し低い、だけどすごく心地いい声。
 それが耳に入った瞬間、まるでこれまでこらえていた涙が溢れるかのように、急速に瞳が潤んだ。
「つか……さっ……ツカサ! ツカサ……ッ!!」
 まるで、泣きじゃくる子ども。
 溢れた涙をそのままに、彼へぎゅっとしがみつく。
 温かい身体。
 しっかりと抱きしめてくれる、力強い腕。
 ……何もかもがそう。
 これは、間違いなく、あのツカサと一緒だ。
「ずっと……ずっと心配してた……! あれは夢だったんじゃないかって……ッ……もう、もうっ……二度と会えないんじゃないかって……!!」
「……大げさだよ、美空は」
「そんなことない……! すごくっ……すごく怖かったんだから……!!」
 聞きわけのない子どものように首を振り、ぎゅっと彼の服を掴んだまま顔を上げる。
 ……居るんだ。
 ここに、ちゃんとツカサが居るんだ。
 夢じゃない、ホントの話。
 それを実感したら、本当に嬉しくてたまらなかった。
「……もう。美空ったら、そんなにツカサ君に会いたかったの?」
「はは。まぁ、仕方ないだろう。……なんせ、11年ぶりなんだからな」
「…………え……?」
 私と違って、すごくすごく明るい声のふたり。
 ……その、言葉。
 それで思わず、ツカサの服を掴んだままで、ゆっくりと後ろを振り返っていた。
「よかったわね、美空。ずっと会いたかったのよね」
「そりゃあそうだろう。なんせ、優秀な幼馴染なんだからな」
「……っ……な……」
 何をいったい言ってるの……?
 ワケがわからず、ただ、瞳が丸くなるだけ。
 ……何……!?
 どうして、ふたりはそんなふうに笑ってるの……!?
 でも、明らかにわからないのは私ひとりみたいで。
 ふたりはただただ、『よかったね』と私をほほえましく見つめているだけだった。
「ツカサ……?」
 どういうこと?
 そう聞こうと彼を見上げたものの、だけど、彼の視線は私には向かなかった。
「あっ!?」
「それじゃ、行こうか。ツカサ君」
「ええ」
「っ……ちょ……!?」
「外国でのひとり暮らしなんて、大変だったでしょう? さ、ウチに帰ったら沢山話を聞かせてね」
「ええ、もちろんです」
 父も、母も。
 ……そして、ツカサまでもが。
 これまで何ごともなかったかのように、そして、何ひとつ違和感がないかのように、足早にその場から去っていった。
 ……嘘。
 え……?
 っていうか、ちょっ……え……!?
 そもそも、『幼馴染』って何?
 外国でひとり暮らしって……!?
 ぐらぐらと頭が揺らぎ、ワケがわからなくて少し眩暈がする。
 ……何……?
 なんなの、コレ……!?
 どくどくと早鐘のように打ち付ける鼓動のまま瞳を丸くしていたら、数歩先を歩いていったところで、ツカサが私を振り返った。
「っ……え……!」
 しゅっ、と小さな弧を描いて私に飛んできた、何か。
 慌ててそれを両手で受け取ると、口元だけで笑ったツカサは、またこちらに背を向けてしまった。
 ……なに……?
 眉を寄せたままでゆっくり両手を開き、その、何かを見つめる。
 ――……と。
「っ……な……」

 小さな鈴の付いた、古いミサンガ。

 それは、昨日見た物と同じで。
 ――……そう。
 それは、紛れもなく私が猫のツカサにあげた物と、確かに相違なかった。
「っ……ちょ! ツカサ!?」
「俺にはもう、必要ないから」
「……え……っ!?」
 大きな、よく通る声が返って来た。
 ……それに続いて、にっこりとした笑みも。

「俺の願いはもう、ちゃんと叶ったから」

「っ……」
 ……それはいったい、どういう意味なんだろう。
 もしも。
 もしも……私が考えていることが、その通りだったら。
 そうだとしたら――……。
「…………」
 自然と、視線は後ろにあった卒塔婆へと向いた。
 ……ツカサ。
 あなたが、そう願ったの?
 本当に、それでいいの?
 ――……ツカサ。
「…………」
 再び、視線は来た道を戻っていく両親と、ツカサに向いた。
 ……これでいいの?
 これが、ツカサの選んだ道なの?
 本当に――……後悔してない?
 そんな思いを込めて少し離れた彼の背中を見つめると――……。
「……っ」
 私の思いが聞こえたかのように、ツカサが微かに振り返ってからにっこりと笑った。
 ……その顔。
 笑った顔は少しだけ、いたずらが成功したときの猫みたいに見えた。


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