「時間になったし、そろそろ出るか」
田代先生が立ち上がったのを機にそれぞれが立ち上がると、少し慌てたように山中先生たちも立ち上がる。
「あ、純也さん。これで」
「はいよ」
先にレジへ向かった田代先生へ、祐恭先生が当たり前のようにお財布からお札を抜いたのを見て、一瞬意味がわから……なかったけど、慌てる。
だって、あれじゃ私のぶんも入ってる額だもん!
「ダメですよっ、自分のぶんはちゃんと……」
「いいんだって。そんな、高いものじゃないんだし」
「でもっ……!」
彼に頭を撫でられ、うまくはぐらかされる。
でも、安いとか高いとかって問題じゃなくて!
なんて思っていたら、すぐ隣へきた絵里が祐恭先生を見上げた。
「ねえ。祐恭先生だったら、羽織と水族館のどこでキスする?」
「えぇ!?」
「ずいぶん唐突な質問だね」
とんでもない質問に目を丸くしたのは、どうやら私だけらしい。
祐恭先生は苦笑を浮かべたものの、どちらともいえない表情を浮かべた。
……うぅ。このギャップ、いつまで経っても慣れません。
思わず眉を寄せながら彼を見つつ……でも、ちょっとだけ気にはなるんだよね。
先生は、どこって答えるんだろう。
う、いや、あの、別に期待するとかそういうんじゃないんだけど。
「水族館って基本的に薄暗いし……とりあえず、人が少なくなればチャンスだと思うけど。あとは、向こう側が見えない壁にはめ込まれた水槽のところとか、深海魚コーナーとかかな」
「ふぅん。つまり、隙あらばってことね」
「ま、そういうこと」
「……ふたりとも……」
聞いてから、少し後悔。
少し頬を赤らめながらふたりを見ると、絵里はにっこりと微笑んで彼に呟いた。
「羽織なら隙ありまくりだし、いつでもいけるんじゃない?」
「まぁね」
「な……っ!? なんでそんな! 私、別にそんな隙だらけなんかじゃ……」
これでも、一応は抗議を兼ねて少し怒ってるんだよ?
でも、ふたりはまったく気にしていない様子。
……うぅ、なんでこんなに似てるのかなぁ。
ふたりそろって似たような笑みを浮かべたのを見て、ちょっとだけ困惑した。
水族館へ移動すると、やっぱりここでも彼は先にチケットを買ってしまい、手渡されるのを見ながらつい唇がとがる。
「何か不満?」
「……だって。先生、先に買っちゃうんですもん」
「ああ、なんだ」
「っあ……!」
なんだ、じゃないですよ?
渡してくれたチケットを受け取ると、苦笑を浮かべながら手を引かれた。
途端、驚きから声があがる。
「いいんだよ、社会人なんだから。羽織ちゃんが働くようになったらワリカンね」
「……当分先ですよ?」
「出世払いなんてそんなもんだよ」
先に入ったしーちゃんたちを追い越さないようにゆっくり館内に入ると、ひんやりした空気が流れていた。
……ここからは、それぞれが別行動。
それでも、なるべくならば例のふたりを何とかくっつけたい、という方向で話は進んでいるけれど。
「わぁ……!」
少し進むと、早速正面に大きな水槽が飛び込んできた。
そこは回遊魚のコーナーになっていて、たくさんの魚がきらきらと光を鱗で反射しながら止まることなく泳いでいる。
「……すごい。たくさん」
まるで、自分が子どもみたいにはしゃいでいることに、気付かなかった。
……彼が、隣にくるまでは。
「まさに活魚」
「もぅ。先生ってば、お兄ちゃんみたい……」
「あぁ、ごめん」
水槽には“マグロ”も泳いでいる。
……本マグロ。
水槽の上にあったプレートを見てから彼を見ると、苦笑を浮かべた。
「一生泳がなければいけないなんて、少し大変かもね」
「え? 魚って寝ないんですか?」
「マグロは止まったら死んじゃうんだよ?」
「え!? そうなんですか?」
そうだったなんて、知らなかった。
普通にびっくりして、彼をまじまじ見てしまう。
「マグロは回遊魚だからね。泳ぐ勢いでエラに水中の酸素を取り入れてるから、止まると同時に酸素の供給がストップされるんだよ」
「……そうなんだ……」
彼の話を聞いて、眉を寄せてから水槽を泳ぐ魚の大群をもう1度見つめる。
ずっと、泳いでいる魚たち。
回遊魚なのだから、といわれればそうかもしれないけれど、でも……。
「……なんだか切ないですね」
「そうかもね」
上まで続く水槽を見つめていたら、彼が背に手を当てて次を促した。
小さくうなずいてから、彼に笑みを見せる。
……人間って、特別なんだよね。
当たり前のようでそうでないことがふと頭に浮かび、彼の隣に並んでいる今の自分は幸せなんだと改めて思った。
「あれ?」
しばらく進んでいくと、幅10mはあるんじゃないかという大型の水槽の前に、田代先生がひとりたたずんでいた。
「絵里はどうしたんですか?」
「ん? ……あそこ」
彼が少し呆れたように笑ってから指差した先には、深海魚のコーナーに入ろうかどうしようかと悩む、しーちゃんと山中先生の姿があった。
「…………」
そのそばの柱に、絵里が身を潜めている。
おおかた、『うじうじしてないて、早くしなさいよ』とでも思っているに違いない。
「っ……! 羽織か」
「もぅ。田代先生ほったらかしでいいの?」
こっそり絵里の後ろに行ってから背中にもたれると、驚いたように私を振り返った。
「だって、こっちのふたり見てらんなくて……あぁもう、早く入りなさいよ!」
やっぱり。
あまりにもその通り過ぎて、思わず苦笑が漏れた。
「……? 絵里?」
山中先生がようやく入ったのを見て、絵里がしーちゃんの後ろに近づく。
中は暗室のようになっており、ところどころ赤いライトで照らされている水槽がある以外に、光はない。
そのせいか、彼女はまだ入ろうかどうしようか迷っているらしく、入り口のところにいた。
「ごめんね」
「え?」
絵里が小さく呟くと、しーちゃんがそちらを振り返った。
――……途端。
「きゃっ!?」
「! し、詩織ちゃんっ……!?」
いきなり、絵里が彼女を山中先生のほうへと突き飛ばした。
びっくりして目が丸くなったのは、私よりも山中先生のほう。
でも。こういうのを、怪我の功名? っていうのかもしれない。
慌てて彼がしーちゃんを抱きとめたお陰で、自然にふたりが近づく格好になったから。
それこそもう、鼻先はつくくらい。
「……あ……」
小さな声が聞こえたかと思ったら、より一層ふたりの距離が近づいた。
それを見てから絵里が戻ってきて、にっこりと笑みを浮かべる。
「任務完了。さ、ふたりにも報告するわよ」
「もぅ……絵里ってば強引」
「あれくらいしなくちゃ、キスなんてできないわよ」
ひらひら手を振った絵里に、思わず苦笑が浮かんだ。
「でも、ちゃんとキスできたんだし、すべては丸く収まったわね」
「そうだね」
うんうんとうなずいて満足げな顔をした絵里に微笑むと、彼女が小さくピースをした。
しーちゃん、きっとすごく喜んでるだろうな。
彼女らしい、照れた嬉しそうな笑みが頭に浮かび、やっぱりこちらまで嬉しくなった。
「ふっふっふ。大成功よ」
「……お前、強引すぎ」
彼らのところまで戻ると、絵里がダブルピースを作った。
だけど、『あぶねーだろ』と続けた田代先生に眉を寄せたかと思いきや、なぜか私を振り返る。
「揃いも揃って同じこと言うわね」
と、絵里がため息を漏らした。
あれ、それってさっき私が思ったことなんだけど。
思わず田代先生を見ると、肩をすくめてから小さく笑った。
「さてと。それじゃ、私は羽織と回るから」
「……は? 何言ってんだ、お前」
「いいじゃない。任務終了だし、それに私、買い物したいもん」
「あのな、お前はよくても羽織ちゃんはよくないだろ。ほんっと、空気読めねーな」
「……な! そこまで言うことないでしょ! だいたい、純也が買い物に付き合ってくれないから悪い!」
「何!? 待たされるこっちの身にもなれ! そもそも、お前の買い物はムダが多いんだよ!」
「空気よめないのはアンタのほうでしょ! 一緒に見て『へぇ』とか『ふーん』くらい言ってくれてもいいじゃない!」
「そんなふうに言ったって、どうせお前は文句言うだろ? だから俺はイヤなんだよ!」
なぜか、急に喧嘩になってしまったふたり。
いつものことだけど、本当に前触れというものがない。
「実はさ……」
「え?」
どうすべきか困りながら眉を寄せていたら、祐恭先生が耳打ちをした。
ほんの少しだけ吐息がくすぐったくて、どきりとしたのは内緒。
「え、そうなんですか?」
「うん」
まったく知らなかったことを伝えられ、思わず驚いて彼を見上げると、笑ってから大きくうなずいた。
……なるほど。
それじゃあ、ここは――あれしかない。
「ごめんね」
「は?」
ぎゃいぎゃいと喧嘩を続けていた絵里の背後に回り、そのまま田代先生に向かって、先ほど絵里がしたのと同じように背中を押す。
「きゃあ!?」
「危なッ……!」
絵里を、慌てて田代先生が受け止めてくれたのを見て、思わず笑みが浮かぶ。
驚いたように振り返った絵里へ、両手で『ごめん』のポーズをすると苦笑が漏れた。
「忘れちゃダメだよ」
「……え?」
「初めてのときのこと」
「…………は!? え、ちょ、なんで!? なんでそれ!」
怪訝そうな顔をした絵里が、何かを思い出したかのように目を丸くした。
ちょっぴり、頬が赤くなっているようにも見える。
「……もー……」
小さな呟きとともに、絵里が困ったように笑った。
そんなふたりを見た祐恭先生が私の肩を取り、目が合った田代先生ににっこり笑う。
「……やられた」
それに対して田代先生が苦笑を浮かべたのは、そのすぐあとのことだった。
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