「先生、よく知ってましたね。あの水槽前で、ふたりがキスしたなんて」
「さっき、純也さんが教えてくれたんだよ。山中先生を見て、『俺もああいうときがあったな』って」
絵里と田代先生が付き合いだしたのは、高校1年のちょうど今ごろ。
水族館でキスをしたというのは聞いていたけれど、まさかあそこがそうだなんて知らなかった。
「……絵里、幸せそうでよかった」
あのふたりは、なんだかんだ言っても、お互いを必要としていることがすぐわかる。
口では強がっている絵里も、田代先生と喧嘩したときはやっぱり寂しそうにしているし、何よりも元気がない。
いつも元気な絵里の源は、きっと田代先生にあるんだろうなぁ。
なんて、最近特によくそう思う。
「……熱帯魚?」
そろそろ出口間近というとき。
壁に埋め込まれた、小さめの水槽が目に入った。
そのすぐ上にある、魚の名前が刻まれているプレートを見てから思わず彼を振り返る。
「これって――」
見上げた途端、彼の唇が触れた。
……もちろん、私の唇に、だ。
「っ……!」
「ん?」
にっこり微笑まれ、みるみる顔が赤くなるのがわかる。
そんな私に構わず、祐恭先生は壁に左手を当てたまま顔を近づけて水槽を覗いた。
「……もぅ……こんなところで……」
「アシストばかりじゃ、おもしろくないし。それに、せっかく来たかった水族館なんでしょ?」
「……です」
そう。
ここは前回、山中先生としーちゃんの仲をとり持つために一緒に来て、今度は彼と一緒に来たいと話していた場所。
……確かに、期待していなかったと言ったら、嘘になる。
だって、最後のほうでようやく本当のふたりきりになれて、やっぱり嬉しかったから。
「……隙、ありました?」
「ん?」
水槽の一番奥が鏡になっていて、覗き込んでいる私たちの顔が映って見えた。
鏡の中の彼と目を合わせると、気づいた彼が笑う。
「そうかもね」
「う……そんなに隙ばっかりじゃないと思うんですけど……」
「いいんだよ。俺の前では」
「っ……」
彼を見上げると、小さく笑ってから耳元に唇を寄せた。
きっと、わざと。
笑いを含んで呟かれた言葉に、吐息が含まれてくすぐったい。
「ほかの男の前で気を許されるのは困るけどね」
「もぅ。そんなこと……しないです」
照れながらもうなずくと、顎に右手を当てた彼が目を閉じた。
そんな彼を見て、反射的に目が丸くなる。
「だ……めですよ……! 誰かに、見られちゃう……」
「平気」
その言葉は、どういう意味だったんだろう。
誰も見ていないから平気なのか、見られても平気なのか、それとも……。
「……っ……」
きゅっと唇を結んでから目を閉じる。
『キッシングフィッシュ』
きっと、この水族館に来るたび思い出すんだろうなぁ。
この水槽の前でキスをしたことは、ずっとずっと忘れられるはずない。
「あー、楽しかった」
外に出てしばらくすると、それぞれのペアが姿を現した。
私たちは、すでにお土産の売店に入って物色を終えていたけれど。
「んー……お昼か。結構、長く見てたわね」
「そうだね。でも、いいこといっぱいあったでしょ?」
伸びをした絵里に微笑むと、一瞬眉を寄せたものの、ぷいとそっぽを向いてから絵里が小さく咳払いした。
「まぁ……ね。ありがと」
「かわいいなぁ。絵里ってば」
「っ……うるさいわね」
照れくさそうにしている絵里の頭を撫でてから、しーちゃんたちに視線を移す。
――と、仲睦まじく手を繋いでいて、つい頬が緩んだ。
よかったね。
ふと目が合ったしーちゃんに、絵里と揃って笑みを見せると、恥ずかしそうにしながらも微笑んだのが見えた。
「……あの……」
「え?」
同じころ。
そんな女性陣から少し離れて話し込んでいた祐恭と純也の元へに、昭が近づいてきた。
「今日は、無理を言ってしまって本当にすみませんでした。でも、おかげで……なんとか……ええ」
照れながら頭を下げた彼は、詩織を優しく見つめて微笑む。
その顔はやはり嬉しそうで、わずかながらも自信めいたものがあった。
「それじゃ、もう大丈夫ですよね。……この先は」
「え? ……あ、は、はい」
一瞬なんのことだろうか、といった表情をした彼が、祐恭の意図を読み取ってさらに顔を赤くしたものの、しっかりうなずいた。
「……がんばってくださいね」
「決して焦らずに」
純也と祐恭が苦笑を浮かべて付け加えると、何も言わずに頭をかきながら昭は何度もうなずいた。
これで、一応は一件落着……かに見えた。
いや、ある意味そうであったんだろうが……恐らくは。
「よかったね、しーちゃん」
「本当にありがとう。ふたりのお陰だよ」
一方、変わってこちらは女性陣。
詩織を囲んで、楽しそうに笑顔を浮かべる。
そんな中、絵里が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんね、詩織。いくらなんでも、突き飛ばしたりして……怪我しなかった?」
「ううんっ。大丈夫。絵里ちゃんのお陰で、してほしかったこと、してもらえたから」
「……そっか。よかった」
慌てて首を振る詩織を見て、絵里が安堵の表情を浮かべると、彼女もにっこりと微笑んだ。
「で、このあとはどうするの?」
「……え? あの……今日は、先生の家に泊まることにしたの」
「…………」
「…………」
「……あ、あの。ふたりとも……?」
まったく違う答えをもらう予定で聞いただけに、絵里と羽織は一瞬なんのことだかわからなかった。
「「えぇええええぇえーーー!!!?」
「わ、わっ!? ふ、ふたりとも、声が大きいよ!」
まさに、大絶叫。
そんなふたりを慌ててたしなめるものの、詩織の顔は真っ赤に染まっていた。
「ご、ごめんね。つい、びっくりしちゃって……」
「ホントよ! ちょっと、詩織! 大丈夫なの? そんな急に!」
「……うん。先生から誘われたし……もし何かあったら、すぐに電話するから」
頬を真っ赤にしてうつむきながらもうなずく姿を見て、絵里と羽織は思わず顔を見合わせた。
ついさっきまで、抱きしめることもキスをすることもできなかった彼が、いきなり家に誘うとは……。
あまりの差に、正直面食らう。
なんだかんだいって、やはり彼も男だったということだろうか。
いや、しかし。
その変わりように、正直不安のほうが大きい。
「……いい? 絶対に無理しないのよ? 何かあったら、すぐに電話すること。いいわね?」
「うん、ありがとう。絵里ちゃん」
冷や汗を浮かべながら、まるで母親のように心配する絵里に笑顔でうなずくと、詩織は昭のもとへと戻って行った。
そんな詩織を見て、再度絵里と羽織が顔を見合わせる。
「……しーちゃんって……意外に、意外?」
「ていうか、羽織負けるわよ」
「え。何が?」
「きっと、明日会ったら詩織は詩織じゃなくなってるから」
「えぇ……?」
なんとも意味深な言葉を羽織に呟くと、絵里が眉を寄せて肩を叩いた。
「あんたも、がんばりなさい」
「そ、そう言われても……」
それが正直な感想である。
がんばることの意味は、さすがに聞けはしない。
……なんとなくは、わかる。
自分とて、これまで何度か彼の家に泊まったことがあるのだから。
「…………」
嬉しそうに昭へ寄り添う詩織を見ながら、少し羨ましくあるもののなんとなく不安もあった。
早いのがいいことなのか。
まして、彼女は今日まで何も知らない女の子だったのに。
「……心配」
「うん……」
どうやら同じことを考えていたらしく、詩織に視線を向けたまま絵里も呟いた。
……何もありませんように。
あ、いや、それじゃ寂しがるだろうから、せめて……大変な事態にはなってしまいませんように。
幸せそうなふたりのうしろ姿を見ながら、ふとそんなことが頭に浮かんだ。
結局、先に山中先生としーちゃんは引き上げたので、4人で早めの昼食を取ってから駐車場へと歩いてきた。
……そんなとき。
田代先生の車の前で話し込んでいたら、絵里がふと思いついたように口を開いた。
「ねぇ。海行かない?」
「海?」
「うん。泊りがけで4人で。私、いい場所知ってるんだー。水族館に来たら、本物の海見たくなっちゃったわ」
「行くって……いつ?」
「明日」
「明日ァ!?」
「あら何よ、なんか問題でもあるの?」
平然と呟いた絵里に田代先生が思い切り声をあげてから、それはそれは大きくため息をついた。
……相変わらず、突拍子もないなお前は。
そんなふうに、表情は語っている。
「あのな。お前はいつも唐突過ぎるんだよ。しかも、泊まりで明日からって……祐恭君たちにだって都合ってモンがあるだろうが」
「それはそうだけど。ダメ? やっぱ、急すぎ?」
話を振られて、思わず彼と顔を見合わせる。
これと言って、予定はない。
ただ、海へはふたりきりで行こうと約束していたんだけれど……。
「羽織ちゃんがいいなら、いいよ」
「えっ。あ……でも……」
困ってしまって眉を寄せると、彼は気持ちを汲んでくれたらしく笑みを見せた。
「確かに急だけど、別に予定入ってなかったし。それに、この前水着買ったんでしょ?」
「あ。そうよ! そう! この間買ったのがあるじゃない。せっかくだもん、着なきゃ損よ! 損!」
「うぇ!? でも、あれは……ちょっと……派手……」
「何言ってんのよ。羽織はアレくらいの着ないと、もったいないよ?」
「そんなにスゴいの?」
「せ、先生っ!」
「そりゃあもう。祐恭先生、ヤバイわよ。よだれ出るから」
「絵里っ!」
にやっといたずらっぽく笑う彼女に苦笑を浮かべながらも、小さく彼がうなずいた。
……しかも、まんざらでもない表情のように見える。
うぅ。困ったなぁ。
絵里と違って私、自慢できる身体じゃないのに。
「それじゃ、なおさら早く見たいね」
「よし、決まり! じゃあ、明日は朝早いほうがいいわよね? 早速今から宿取らなくっちゃ。頼んだわよ、純也」
「……やっぱり俺か。でも、ふたりともホントにいいの? アイツ本気だよ?」
眉を寄せて心配そうに呟いた田代先生に、祐恭先生と顔を見合わせてから一緒にうなずく。
彼がいい、と言ってくれたならそれでいい。
だって、海には行きたかったし。
ましてや、4人で出かけるなんて、それこそ初めてのことなんだから。
「大丈夫ですよ。明日、また自宅へ行けばいいですよね?」
「あ、うん。そうしてもらえれば先導するから」
「何よ、車で行く気? 疲れるし、電車にすればいいのに」
「……電車?」
「そ。大体、折角の旅行なんだし。みんなで喋りながら行ったほうが、いいじゃない」
ね? と絵里に賛同を求められ、それもそうかなぁ……なんて思った。
確かに、彼女の言う通りだ。
絵里、いいこと言ったね。
すごく!
「せっかくだし、駅でレンタカー借りたらいいんじゃない? 海以外行かないんだし」
「レンタカーか。まぁ、俺はいいけど」
「同じく」
田代先生に続いて祐恭先生が微笑むと、絵里が嬉しそうにうなずいた。
やっぱり、満足げ。
でも、今回の案は確かに彼女に分がある。
「いよっし! じゃあ、明日は始発で行こう。暑くなるし。じゃあ、ウチに5時集合ね」
「5時!? うー……起きれるかな」
「起こしてあげるよ」
「え!?」
「ん?」
「な……なんでもない、です」
不安まじりに呟いたのを聞かれていたらしく、祐恭先生が意味ありげに笑った。
途端に頬が赤くなる。
彼が、自分を起こしてくれる手段が毎回決まって口づけだから。
「それじゃ、また明日ね」
「うん! またね」
手を振ってそれぞれ別れ、車に乗り込む。
まさか、急遽海に行く計画が出るとは思いもしなかった。
海。
ということは、水着。
……そうなると、やっぱりあの水着を着ることになる。
さすがに今から別のものを買いに行くには、時間もお金もかかりすぎる。
「それにしても、絵里ちゃんはいつも元気だな。……計画も早いし」
「ですね。でも、昔からああでしたよ。思い立ったが吉日ってタイプっていうか……」
「あー、わかる気がする」
エンジンをかけてギアを入れた、祐恭先生の顔を覗き込むように見つめる。
すると、不思議そうな顔をしながらも、小さく笑った。
「でも、本当によかったんですか? 海、急に決まっちゃったのに……」
「別にいいよ。それに……まぁ、ふたりきりは別のときにね」
そう言って何やら含んだ笑みを浮かべた彼の、その意図はさすがにわからなかった。
でも、それ以上聞いても『なんでもない』とただ笑ってはぐらかされてしまって。
……なんだろう。
そうは思ったものの、今はただ、明日の海へのお出かけが楽しみで、ある意味気持ちもいっぱいだった。
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