彼が家を出てしばらく経った、今。
 ひとり、この部屋の留守番を任されながら、ガラスの外を見つめる。
 夕暮れどきの今、彼は何をしてるんだろう。
 あ、まだ新幹線かな。
 冬瀬駅から新横浜まで出て、そこから新幹線。
 京都へは、のぞみなら2時間で着いてしまう。
 早いなぁ……と、つくづく思った。
 そのぶん、彼が早く帰ってきてくれると思うと、自然に頬が緩む。
 ――……昨晩。
 抱いてくれた彼はいつもよりも優しかったけれど、いつもよりも責められた……気がする。
 あんなふうに言ったからかな。

『先生の声が聞きたい』

 我ながら、大胆なことを口走ったなぁと思う。
 でも、あれは本音。
 いつもいつも私だけ声を出してしまっている気がしたから。
 でも、ちょっとやそっとじゃ彼が声を出してくれるはずがないことくらい、わかっている。
 だけど、やっぱり……悔しいんだもん。
 いつも彼が座っているソファ。
 つい、くせで彼が座る左側を空けてしまう。
 でも、主のいないその場所は、やけに広く感じた。

「それじゃ、行ってきます」
「うんっ。気をつけてくださいね」
 久しぶりに見たスーツ姿に、自然と顔がにやけてしまった。
「……何?」
「え? あ、あははっ」
 笑って済まそうとしたのだが、彼には通用するはずもなく。
 意地悪そうな瞳で、微笑まれた。
 ……この顔弱いの、知ってるはず。絶対。
「何を考えてた?」
「別に……何も」
「そう? じゃ、行ってきますのキスなしね」
「え!? うぅ……いじわる」
 眉を寄せて唇を尖らせると、今度はにっこりと笑みを浮かべた。
 こういうときの彼は、なんだかとても楽しそうに見えるんだけど、どうしてだろう。
「じゃあ、正直に話したらいいんじゃない?」
「……なんか……スーツ姿って、先生だなぁって感じがして好きなんです。だけど、照れちゃう……かな」
 頬が赤くなるのがわかったけれど、なんとか最後まで言いきることができた。
 すると、少し驚いた顔をした彼が、ふっと笑う。
「じゃあこのままお願いしたら、なんでも『うん』って言ってくれそうだね」
「な! だ、ダメですよそんな!」
「冗談」
 靴を履いて玄関に立ち、私の頬に手を当てながら、いたずらっぽく笑う彼。
 そんな姿を見ていたら、やっぱり頬が赤くなった。
「じゃあ、留守番よろしくね」
「はぁい。ちゃんとやっておきます」
 にっこり笑ってうなずくと、彼も嬉しそうに目を細める。
 この顔も、やっぱり好き。
 ……彼が見せてくれる顔は、どれも好きかな。
 ときどき意地悪な顔をするけど、それはそれで……なんて言ったら意地悪されそうだからやめておくけれど。
「行ってきます」
「ん。……行ってらっしゃい」
 本当は家の前の道まで送るつもりでいたんだけれど、別れにくくなるから、と断られてしまった。
 確かに、下まで送っていったら、自分も行ってほしくなくなってしまうと思う。
「……あ」
 優しい顔が近づいて、彼が瞳を細める。
 それに従って、自分も瞳を閉じた。
 優しい、大好きな口づけ。
 明日までないと思うと、やっぱり寂しくなってしまう。
 ……けれど、それを言えば彼が困ることを知っているから、言えない。
「っ……ん」
 しばらく味わうように舌であちこちを撫でてから、ゆっくりと唇が離れた。
 いつもよりも長い、口づけ。
 別れを惜しむみたいな……感じかなぁ。
 つ、と引いた糸を舌で舐め取られ、どきりと鼓動が大きく鳴る。
 私がどきどきしていることを、もちろん彼は知っているだろう。
 ……だからこそ、こういうことするんだろうから。
「何かあったら、すぐに電話して。わかった?」
「はい。……先生こそ、台風に近づくんだから気をつけてくださいね」
「わかった」
 にっと笑った彼に微笑むと、少し寂しそうに笑ってからドアに手をかけた。
 ゆっくりと押し開け――……もう1度振り向いて、今度は苦笑を見せる。
「……うしろ髪引かれるね」
「もぅ。電車行っちゃいますよ?」
「うん。じゃあ、行ってくるよ」
「はいっ」
 何度目かの挨拶。
 くすっと笑ってうなずくと、彼も微笑んでドアを閉めた。
 しばらく余韻を味わってから鍵を閉め、リビングに戻る。
 だけど、ひとけがなくガランとした部屋は、なんだかいつもとは違う部屋のようだった。
 彼がいないだけで、こんなにも広く感じるんだ。
 そんなことを思いながら、まずは掃除を始める。
 掃除機を出してきて玄関からかけ始めると、ついつい細かいところが気になってしまい、リビングに着いたときは結構時間が経っていた。
「でも、先生がいたらできないもんね」
 ぽつりと呟いてから自分で納得し、ひと息ついてからリビングの掃除。
 彼は物を床に置く癖がないから、とても助かる。
 お兄ちゃんとは大違い。
 床へまかれるように置かれてある本やら書類やらをいちいち拾い集めてベッドに載せてからでは、時間がかかって仕方がない。
 なのに、いつも文句を言うんだから……割に合わないというもの。
 その点、祐恭先生はきちんと整理してあるし、掃除機をかけやすかった。
「先生を見習ってほしいなぁ。……なんで、友だちなのにあんなに違うんだろ?」
 ぶつぶつと文句を言いながら掃除機をかけていると、パソコンラックの下で何か吸い込みかけた音がした。
 慌てて電源を切って見てみると、それは1枚の写真で。
「……? なんだろう?」
 結構古いものらしく、後ろの紙色が少し変わっていた。
 ……けど。
 ひらりと表に返してみてすぐ、どきりと心臓が音を立てる。
「……誰……?」
 そこには、少しだけ不機嫌そうな顔の女性が写っていた。
 金髪の長い髪からのぞいている瞳は、どこか怒っているようにも見える。
 ……彼女さんだった人……?
 それとも、妹の紗那さん……?
 どちらも見たことがないからなんとも言えないけれど、とても気になる。
「……でも、どこかで見たことあるような……」
 そう思い、まじまじと見直してみるけれど、やっぱりわからない。
「……もぅ。先生が出かけてから出てくるなんて、ズルい」
 はぁとため息をついてから写真をキーボードの上へ置き、仕方なく掃除の続きを始める。
 これまでに彼が付き合った人のことは知らないけれど、やっぱりこんなふうに自分の知らない女性の姿を見てしまうと、はっきりいっていい気分はしない。
「……もぅ」
 もやもやとした感情が、頭の中でうずまく。
 ……やだなぁ。
 寝室を片付けて掃除機をかけ終わったところで、ちょうど洗濯機が終了を告げる音を響かせた。
「……あ」
 掃除機を片付けてから洗面所に向かい、早速かごに中身をあける。
 途端、ふわりと柔らかい匂いがした。
「あー……あったかーい。……先生の匂いがする」
 ふにゃんと顔が緩んだ。
 いつもの彼の服の匂い。
 少し甘いようないい匂いが、温かく広がった。
 それらを持ってリビングに戻ったところで――……あることを思い出す。
「……シーツも洗お……」
 昨晩、彼に言われた言葉を思い出したからか、顔が熱くなった。
 私が悪いわけじゃないのに……。
 あれは、先生が悪いんだもん。
 ……そうなんだもん。
 私じゃないもん。
「…………」
 ……うぅ、なんだか恥ずかしい。
 寝室に戻ってシーツをまとめ、手早くそれを洗濯機に押し込む。
 なんだか気恥ずかしくて、やっぱり顔が赤くなった。
 リビングに戻ってからテレビをつけ、洗濯物を畳み始めると、ニュースはほとんどが台風情報だった。
「……わぁ。先生、大丈夫かな……」
 京都駅の様子を映し出した映像で、思わず身を乗り出してしまった。
 ずいぶんと激しい大粒の雨。
 道を通る車がワイパーを激しく動かしているけれど、ほとんど意味をなしていなかった。
 道も結構な量の水が溜まっていて、車はザバザバと波を立てて走っている。
「……大変だなぁ。あ、先生傘どうするんだろ……」
 家を出るときは、持っていなかったと思う。
 ……大丈夫かな。
 駅からタクシーで行くのであれば、大丈夫だと思うけれど……。
 洗濯物を畳みながらそんなことを考えていると、スマフォがメッセージ受信を知らせた。
「先生かな?」
 ふと手にすると、差出人は絵里。
 不思議に思って見てみると、どうやら田代先生も出かけてしまっていて、今ひとりらしいことが書かれていた。
 だから、暇だったらこないか、と。
「……うーん……。確かに、こんなすごい台風になるんじゃ、夜……恐いかも」
 正直、彼にはああ言ったもののやはり恐い。
 そんなわけで、結局絵里の待つ田代先生の家へ泊まりに行くことにした。
「あ。でも、洗濯が終わってからね」
 その旨を絵里へ送ってから、祐恭先生にも同じメッセージを送る。
 しばらくして、そのほうがいいというメールが返ってきたところからして、ひとりで家にいるのが心配みたいだ。
「……はぁ」
 ソファに座っているものの、隣には彼がいない。
 そのせいか、なんとなく落ち着かなかった。
 写真の女性が誰かというのも、気になるし。
 ……でも、メッセージで聞くのはなんだか違う気がする。
 …………。
 かといって、面と向かって聞けるかというと、そうでもないんだけれど。
「……あ、終わったかな?」
 それから1時間ほどテレビでバラエティの再放送を見ていたら、遠くから音が聞こえた。
 立ち上がって洗面所に向かうと、やはり先ほどと同じ温かい洗剤の匂いがした。
「これでよし、っと」
 シーツを手に寝室へ戻ってから、広げてベッドにかけておく。
 ――……そんなベッドを改めて見たら、やけに広く感じた。
 いつも隣に彼がいるからか、余計に切なくなる。
 ベッドへ寄りかかるようにしてひじを付くと、小さくため息が漏れた。
「……先生……」
 いつもの、あの優しい笑みが見えない。
 いつもの、あの優しい声がない。
 それだけで、心が押し潰されてしまいそうだ。
「……ひとりでいるから滅入るんだよね。うん、絵里のところに行こっと」
 ぽん、とベッドを叩いて立ち上がってから、小さめのバッグに着替えを詰めて出かけることにした。
 窓も鍵は閉めてあるし、ガスの元栓も大丈夫。
「よし」
 指差し点検をしてから玄関に行くと、彼の物らしき大き目の傘が目に入った。
「まだ雨は……平気かな」
 京都のほうはすごい雨みたいだけど、まだこのあたりは曇っているだけで雨は落ちてきていなかった。
「いってきます」
 小さく呟いてから玄関を閉め、彼の傘を見送ってからしっかりと鍵をかけて自分も部屋をあとにした。


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