田代先生のマンションまではすぐ近くなので、しばらく歩くとすぐに目に入ってきた。
 入り口で部屋の番号を押すと、聞きなれた絵里の元気な声。
 それとともにオートロックを開けてくれたので、エレベーターで部屋のある階まで上がる。
「いらっしゃーい」
「お邪魔します」
 軽く頭を下げると、にっこりと中へ通してくれた。
 今までいた、彼の家とは違う匂い。
 そんなことを考えながら歩いて行くと、広々としたリビングに突き当たった。
「お茶でいい?」
「うん。ありがとう」
 グラスに麦茶を注いで、絵里が持ってきてくれた。
 丸いテーブルに置かれた拍子に、氷がぶつかって音を立てる。
「しっかし、台風すごいわねー。何? あの荒れ模様」
「ねー! びっくりしちゃった。先生、今日は出張で京都に行ってるんだ。……だから心配」
「え? なんだ、祐恭先生も京都に行ってるの? 純也も京都行ったのよ」
「そうなの? じゃあ、化学の先生の集まりなのかな」
「かもねー」
 そんな他愛もない話をしていたのは――……腰を下ろして5分もなかった。
 突然、絵里が声を潜めてにやりと笑みを浮かべたから。
「……? どうしたの?」
「うふふ。実はねぇ……じゃーん」
「……わっ!? え、絵里っ。どうしたの、これ……」
「えへへ。友達に借りちゃった」
「かっ、借りたって……これって……。えぇー!?」
 そう。
 彼女が目の前に見せたそれは、いわゆるAVと呼ばれる物のDVDだった。
 まさか、こんな物を持っているなんて思わなかった。
 だからこそ、顔が赤くなる。
「なっ、なんで……?」
 モノがモノだけに、声が自然に小さくなった。
 別に誰に聞かれるというワケじゃないのは、わかってるんだけれど。
「ほらぁ。この前、海行ったときにスワッピングがどうのって言ってたじゃない? でさぁ、友達と話してるときに聞いてみたのよ。そしたら……これ、貸してくれたの」
 そういえば、そんな話をしていた気がする。
 ふたり揃って意味を訊ねたとき、ふたりともものすごく慌てたんだよね。
「だから、これ見たらわかるんじゃないかなぁって思って」
「あー、なるほどね。……でも……え、AVでしょ……? なんか恥ずかしい……」
「何言ってるのよ! どうせ純也は泊まりで帰ってこないんだし、大丈夫だってー。ねぇねぇ、早速見てみない?」
「……う。でも……。…………わかった」
 絵里の迫力と、そして自分の好奇心には勝てず、ついついうなずいてしまった。
 ――……でも、このあとすぐ、うなずいたことを後悔するのだった。
 だって…………。

ごくっ。

「…………」
「…………」
 思わず絵里と顔を見合わせる。
 ……だって……あまりにも内容がすごいんだもん。
 さすがの絵里も、頬を赤くしていた。
 多分、自分はもっと赤くなっていたと思う。
 目の前で繰り広げられる、男女の営み。
 女優さんの声がすごくって、そりゃあもうどうしようかってくらい。
 声もそうだけれど、なんていうんだろう……男の人の声?
 結構、意地悪に彼女を追いやっていく。
 ……なんか……先生みたい。
「っ……」
 思わず、想像してしまい、恥ずかしくなった。
 いつの間にか雨が降り出し、窓に強く当たるようになっている現在。
 台風が、いよいよ近づいてきている証拠だ。
 雨の大きな音に混ざって響く――……濡れた音。
 そして、女性の喘ぎ声。
 男の人の、意地悪な言葉。
 どれもこれもが、初体験。
 ……AVって、こんなにすごいんだ。
 思わず喉が鳴る。
 これを男の人が見てドキドキするのは、よくわかる。
 だって、自分だって見てるとすごくドキドキするんだもん。
 ……なんか、変な感じ。
 身体が熱くなる。

「んっ……んんっ」
「……そう……上手だ」

「「わあっ!?」」
 思わず、絵里とふたりで口を押さえてから顔を合わせてしまった。
 だ、だって、だって……!
 ……お、女の人が……彼の……いわゆる、そこを……口で……きゃーーー!!!!
「こっ、こんな事ことするの……?」
「………まぁ……らしわよ……?」
 思わず泣きそうだった。
 だって、は、恥ずかしくて!
 あぁもう、なんかやだーー。
 恥ずかしいよぉーー。
「ね、ねぇ。絵里」
「……何よ」
「何じゃなくって! ……ねぇ、もう終わりにしない?」
「何言ってんの! せっかくのチャンスなのよ? この日に見ないで、いつ見るの!」
 つんつん、と絵里をつついて提案するものの、彼女は頑として首を縦に振らなかった。
「だってぇ……。す……すごい恥ずかしいんだもん」
「……恥ずかしいとか、恥ずかしくないとか、そういう問題じゃないのっ!」
「……でも、絵里も顔赤いよ?」
「っ……! いいから!! ほら、ちゃんと前を向いて――」
 ―――……その瞬間。

「……お前ら……」

「ぎゃーーーー!!!!?」
「きゃああーーー!!?」
 聞き慣れた声が響いて、思わずふたりで抱き合っていた。
 な、何? 何事!? ていうか、誰……うわぁ!!?
「せっ……先生……!!?」
「純也ぁ!!? なっ……なんで!!?」
 少し怒ったような、呆れたような。
 そんな顔をしたふたりが、すぐそこに立っていた。
 顔がふたりとも赤くて、ものすごく気まずそうで。
 ……でも、当然だ。
 リビングで彼女ふたりがAVなんて見てたりしたら……。
 わぁーーー! ま、マズいっ……!!
「っ……!」
 田代先生がテレビの電源を乱暴に切った途端、ものすごい怖い顔で振り返った。
 その横に、祐恭先生も並ぶ。
 その顔は、同じように見たこともないくらい怖かった。
「……な……なんで?」
「新幹線が名古屋で停まって、そこから先へは川の増水で行けなかったんだよ。しばらく待ってみたけど、結局動かないっていうから、こうして引き返したんだ。……そしたら……」
 はぁ、と大きなため息をついてから、田代先生が絵里をキっと睨む。
 途端に、絵里は小さく身体を震わせた。
「お前は……何してんだ!!」
「ごっ、ごめんなさいっっ」
 ぎゅっと目を閉じて俯くと、そのまま何か思い立ったように絵里が祐恭先生へ顔を向けた。
「あのね、羽織は悪くないのよ!! 私が誘ったんだから! だから、羽織は違うの!」
「え、絵里!」
 かばってくれた彼女を驚いて見ると、ごめんね、と小さく呟いて苦笑を浮かべた。
 ……だけど、そうじゃない。
 違うもん!
 慌てて、自分も彼を見上げる。
「違うのっ! あの……私も悪いの。うん、って言ったのは私だから。ごめんなさい……」
 眉を寄せて彼を見ると、何も言わずにDVDのケースを拾って眺めた。
「……こんな物見て。どうするつもりだったんだ? だいたい、これは女の子が見る物じゃないだろ?」
「……ごめんなさい……」
 私たちにはただ、謝るしかできない。
 …………でも。
 ふと顔を上げると、何やらふたりが顔を合わせて頬を染めているのが見えた。
「……先生……?」
「え!? ま、まったく。こういう勉強はしないでよろしい」
 ごほごほと咳き込んで彼がそれを田代先生に渡すと、彼も同じような反応をした。
 ……?
 どうして、先生たちまで顔を赤くしてるの?
 なんて思っていたら、ふたりを見ていた絵里が少し眉を寄せて呟いた。
「……けど、おかしくない? だって、男の人だけが見てもよくて、女が見ちゃダメなんて……そんなのっておかしい」
「なっ、何を言い出すんだよお前は! だいたい、こういう物は――」
「だって、別にダメなわけじゃないんでしょ? だったら、見てもいいじゃない」
「そうじゃなくて! ……だからぁ、男と女は身体の構造が違うんだよ! だから、こういうものが必要なんだろ?」
「なんで? なんで必要なの? こんなの、見なくてもいいじゃない」
「そ……そうは行かないときって言うのが、男にはあるんだよ」
「どういうとき?」
「う!? ……だ、だからそれは……なぁ、祐恭君!」
「え!? お、俺ですか!? ……だから……その……。ねぇ?」
「そうなんだよなぁ! あはははははは」
「ははははは」
 ばしばしと肩を叩いて笑い合う姿は、いかにも何かを隠していますといった感じ。
 ……いったい、どういうときなんだろう。
 しばらく不思議に思って見ていたんだけれど、結局ふたりはそれ以上会話をしなかった。
 でも、そんなふたりを見ていた絵里が、小さくため息をついて先に口を開く。
「そもそもね、ふたりがスワッピングのことをはぐらかして教えてくれないから悪いのよ? これ見ればわかるって友達に言われたから、見たんだし」
「なっ……お、お前まだそんなこと言ってたのか!? だから、それはふたりは知らなくていいことなんだよ!」
「なんで? なんで純也たちは知ってるのに、教えてくれないの? 教えてくれないから、こうして見てたんじゃない。元はと言えば、ふたりが悪いんだからね!」
「そんなこと言われても……なぁ?」
「……ですよね」
 困ったように言葉を濁すふたりを見ていたんだけれど、やっぱり……気になる。
 どうして、そこまで隠すんだろう。
 そう思い、彼らに訊ねてみることにした。
「……知ったら、まずいことなんですか?」
「え!?」
「な……!」
 きょとんとした私に対して、ふたりは困ったように焦り始める。
 ……なんだろう……。
 すんごい気になるんだけど……。
 あのAVを見ればわかるらしいけれど、先ほどまでの部分ではそれらしいことが出てこなかった。
 ということは、この先に出てくるんだろうけれど……さすがに、4人で見るわけにもいかないし……。
 うーん。
「そうよ。教えてくれないなら、それ返して。ふたりはどこかに行ってればいいでしょ? 私たちだけで見るから」
「……だっ、だから!! こんな物見なくていいんだよ!」
「なんでよ! だって、気になる!!」
「あぁーーもぉーー!! いいんだったら、いいんだよ! いいからもう、おしまい! おひらき!!」
 ぱんぱんと手を叩いた田代先生が祐恭先生に目配せした途端、彼が小さくうなずいてから私の腕を取った。
「わっ! せ、先生っ! だって、まだ――」
「まだも何もないの。ほら、帰るよ」
「で、でもっ!」
「いいから!」
 ぐいっと下から持ち上げられて無理やり立たされ、否応なしにそのまま玄関へ連れて行かれてしまった。
「せ、先生ってばぁ!」
「あーもう、静かに!」
 ずるずると引きずられるかたちで玄関につくと、さっさと靴を履かされてから外に出される。 ……うぅ。
 先生、強引すぎです。
「ご迷惑おかけしました」
「いやいや、うちのが悪かったから。じゃあ、気をつけてね」
 彼が申し訳なさそうに頭を下げ、私の腕を掴んだままエレベーターへ。
 だけど、エレベーターに乗り込んだあとも、沈黙は続いていた。
 ……さっきから、ずっと顔を見てくれていない。
 …………腕も、取られたままだし。
「…………」
 こんなふうに無理やりなことを、彼はこれまでしなかった。
「せ、先生……痛い……」
「っ……あぁ、ごめん」
 小さく呟くと、やっとのことで離してくれたけれど、顔はどこかまだ怒っているような気がした。
 ……うぅ。
 あんなDVD、見るんじゃなかった。
 ちょっと……どころか、だいぶ後悔。
 ……ホント、『後悔先に立たず』ってこのことだ。


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