「どうして、家に帰るって言い出したとき、止めてくれなかったんですか?」
「ん?」
「……たしかに、自分勝手だとは思いますけれど……」
翌朝。
といっても、もう昼近かったが。
遅めの朝食をとったあとで新聞を読んでいたら、隣に座った彼女がおもむろに訊ねてきた。
「……どうしてって。まぁ、いろいろと」
「いろいろって?」
「…………だから、いろいろはいろいろ」
こほん、と小さく咳払いをして彼女に背を向けると、ぐいっと腕を絡めて顔を覗きこんできた。
……なんだね、いったい。
いつもとは違う強気な眼差しに、たまらず一文字閉口。
「……何かな?」
「何かな、じゃないですよ! ……だって、すごく寂しかったんですよ?」
「……それは、悪かったと思ってるけど。でも、ご両親に勉強を――」
「ふたりは関係ないですっ! ……どうして? 勉強と一緒に暮らすのと、なんの関係があるの?」
………。
……いつになく強気だな。
もしかしたら、昨日求めすぎたからだろうか。
お陰で、罪悪感のせいか強く出れない。
「……はぁ」
新聞を畳んでからテーブルに放り、ソファにもたれてテレビを見る。
ちょうど旅行の番組がやっていて、なかなか気持ち良さそうな温泉が映っていた。
「あー、温泉いいね。今度行こうか」
「もぅ! 話をはぐらかさないでください!」
両手で頬を挟まれたまま彼女のほうを向かされ、眉が寄る。
……なんで、そんなに聞きたがるかな。
少し呆れながらも、しかたなく身体を起こす。
「制服姿の羽織ちゃんを見てると、問答無用で襲いたくなったから」
「……え……」
小さく息を吐いてから、一気にまくしたてる。
真顔で。
しっかりと目を見て言ってやると、ぽわん、と頬を染めて眉を寄せる。
「本当のことだよ。だから、家に帰したの」
「……だ、だって! 今までは普通に――……」
「夏休みに入ってから羽織ちゃんを抱いたから、テスト中は平気だったんだよ」
「っ……。……そんな……理由?」
「そんな、って失礼だな。俺にとっては重大な理由だよ? こっちが必死で我慢してるのに、うなぎを食わそうとするわ、焼肉をすすめてくるわで、大変だったんだよ」
「……? どうしてですか?」
…………鈍い。
だがまぁ、これが彼女という人だから、しょうがないんだけど。
「だから、俺が元気なかったのは夏バテじゃないんだよ。なのに、そういう精がつく物ばっかり食わせようとするから! 俺をどんだけ苦しめるつもりだった?」
「……そ、そんなつもりじゃ……。……あの。そんなに我慢……してたんですか?」
「してました」
きっぱりと言ってから瞳を閉じ、ソファに頭を預ける。
すると、小さく笑い声が聞こえた。
「……何がおかしいんだよ」
「ううんっ。なんか……先生らしいなぁって思って」
「……俺らしい? 何が」
「そうやって、勉強は勉強ってちゃんと考えてくれてるところが」
嬉しそうに笑った彼女が、なぜか頭を撫でてきた。
……ったく。
「俺は子どもじゃない」
「子ども扱いじゃないですよー。えへへ。……っわ!?」
にまにまと笑う彼女を抱きしめ、膝の上に座らせてやる。
すると、驚いたように瞳を丸くした。
「羽織ちゃんは、1日ここ」
「えぇ!? どうしてですか?」
「2週間いなかったから」
そう言ってから彼女の前に新聞を広げ、読み途中だったところから読んでいく。
「で、でも! お昼作らないと」
「いいよ」
「と、トイレとか……」
「連れてってあげる」
「もぅ! 先生っ!」
ああだこうだ文句は言っているが、あぐらをかいた上に座らせているので、なかなか身動き取れないようだった。
……これはこれで、なかなかイイこと思いついたな。俺。
「……ウマそう」
「え?」
テレビのCMを見ると、これまたうまそうなチキンが映った。
とあるファーストフードのCM。
毎回毎回というわけではないが、たまに食べたくなる。
「……よし。昼はこれで」
「えぇっ? もぅ、そうやって買って――」
「いいの。さ、出かけるよ」
「えぇー!?」
とん、と彼女を床に下ろして立ち上がると、なぜか不満そうに見られた。
「……先生。私がいない間、何食べてました?」
「何って?」
「ごはんですよ! おかずとか……何食べてたの?」
なぜか不機嫌そうに見られ、眉が寄る。
……別に、ちゃんと食べてたぞ?
米だって、珍しくといだし。
「牛丼とか」
「とか?」
「中華丼とか」
「……とか?」
「んー……あ、ハヤシライスも食べたな」
「……先生。それって、レトルトばかりじゃないですかっ!」
「コンビニよりはいいだろ? しかも、この俺がだよ? ちゃんと米といで、飯炊いたんだから。ものすごい進歩だぞ?」
「それは、そうかもしれないですけど……。でもっ」
「いいの。ほら、出かけるよ」
「あっ!」
ぐいぐいと肩を押して廊下まで向かわせると、苦笑を浮かべた彼女が振り返った。
結局こうして許してくれるあたり、やはり彼女だと思う。
助かるし、こんな俺を許容してくれるのは素直に嬉しい。
「もうっ。今日はちゃんと作りますからね」
「よろしく。……楽しみにしてるから」
にっと笑った俺を見て、嬉しそうに微笑む。
その顔が好きだから、どうしたってそばにいたいんだよ。
……ってことを、彼女は知ってるだろうか。
まぁ、知らなくても別にいいんだけど。
財布とキーケースを持ち、スマフォをジーパンのポケットにねじこんでから玄関に向かうと、ひとりでに笑みが漏れた。
例のごとく向かったのは、近くのショッピングモール。
やっぱり楽でいいな。
それに、規模が大きいぶんここだけですべて揃うのもラクだ。
1階の食料品売り場近くにあるファーストフードの店を見つけてから、ほどほどの行列に並ぶ。
すると、看板をまじまじ見ていた彼女が俺を見上げた。
「何を食べるか、決めてるんですか?」
「うん。とりあえず、ね」
「早いなぁ。うーん……何がいいだろ……」
メニューを見ながら顎に手を当てた彼女。
……が、ふいに足元へ視線を落とした。
「ん?」
そんな彼女の視線を辿る――……と、そこには小さな女の子がいた。
それこそ、まだ2,3歳くらいじゃないだろうか。
あたりを見回してみるが、親らしき人は見当たらない。
「……知り合い?」
「ううん。従兄妹にも、こんな小さい子いないです」
慌てて首を振ってから困ったように俺を見た彼女とともに、列から外れる。
……迷子か?
どちらにしても、ほうってはおけない。
「迷子……かなぁ」
「かもね。土曜日だし、結構混んでるから」
ふたりそろってしゃがみ、その子の目線に合わせてやる。
すると、おどおどとした表情ながらも、ようやく顔を上げた。
「パパかママ、どうしたの?」
「……パパ」
「え?」
「……っ……パ、パっ! パパぁ!!」
「へっ……!?」
顔を覗きこんだ途端、いきなり抱きつかれた。
ひしぃっと首へ細い腕が絡み、一瞬息が詰まる。
「ふえーん、パパー!」
「いや、ちょっ……え!?」
焦るよりも前に、すぅっと血の気が引く。
ぱ、……パパって!
え、俺が!?
「っ……! ちょ、待った!」
「うわーん、パパぁー!」
「……どういうことですか……?」
「ちがっ……! これは違う! 断じて違う! 何かの大きな間違いだ!」
慌てて彼女を見るものの、ものすごく疑わしげな瞳を向けていた。
しかも、それだけじゃない。
ひしぃっと抱きついている女の子と同じように、みるみる半泣きへと表情が変わる。
「ち、ちょっと待ってくれ! 俺はそんなことしてないって!!」
「……じゃあ、どうしてこの子がパパって呼ぶんですか……?」
「いや、だからそれは……! って、頼むから羽織ちゃんまで泣かないでくれよ……!」
うるっ、と両目が潤み、今にも溢れんばかりの涙が見える。
だが、この子を引き剥がして放置というわけにもいかない。
仕方なく抱っこしたまま立ち上がり、場所を変えるため、フードコートを離れる。
……周りの目が痛い。
子どもをぎゃんぎゃん泣かせてるうえに、一緒にいる彼女まで泣かせるなんて……ああ、勘弁してくれよ。
完璧悪者じゃないか。
「……はー。とりあえず、インフォメーションでも行くか」
悪いが、こんな子を持った覚えはさらさらない。
ましてや、そんないい加減なことだってしてないぞ。
「…………」
「……そんな顔しないでよ」
「だって……」
しゅん、と肩を落として泣きだしそうな彼女の頭を撫でるも、一向にその表情は晴れなかった。
……はー。
はたから見れば、少し若い夫婦とでも思われているだろう今の現状。
って、彼女の場合は若すぎかもな。
道行く年配のおばさん方が、いかにも『あらあら』的な視線を送ってきて、ため息が漏れた。
「っ……うわ!」
「あ、あー!」
そんなことを考えながら歩いていくと、途中で抱いていた子が急に暴れだした。
落としてしまいそうになるその子をゆっくり下ろし、手を離す――……と。
「志保ちゃんっ!」
向こうから慌てた様子で駆けてきた女性が、むぎゅうっとその子を抱きしめた。
「ママぁ、ママぁーっ!」
「もうっ! どこに行ってたの? 心配したんだから!」
抱きしめられたその子が、嬉しそうに頬を寄せる。
それを見てから、隣の泣きそうな彼女の頭に手をやると、ようやくこちらを見上げた。
「安心した?」
「……うん」
「だから言ったろ? 違うって」
「ですね」
素直にうなずいて苦笑を浮かべ、手を握ってきた彼女。
……まったく。
世話がやける。
まぁ、俺も危うく濡れ衣を着せられっぱなしになるところだったので、かなり安堵していたが。
「申し訳ありませんでした」
「あ、いえ。とんでもないです」
女性に抱かれたままのその子と、また目が合う。
……すると、手を伸ばしながら、相変わらず『パパ』を連呼していた。
そんな姿を苦笑しながら『違うでしょう?』とたしなめる女性だったが――……いきなり、まじまじと顔を見つめてくる。
え。
「……あの。何か?」
「……いえ。本当に、この子の父親に似てらっ……」
はた。
瞳を細めた彼女が、不意に口をつぐんだ。
と同時に、ぱちぱちとまばたきをし、まっすぐに俺を見る。
「……もしかして、祐恭……君?」
「え。……と、失礼ですが……」
「ほらっ、私よ、私」
いきなり名前を言われて驚くと、バッグから取り出した眼鏡をかけた。
途端に、雰囲気がガラっと――……。
「……あ!? 美紀さん!」
「うふふ。久しぶりねー」
いつも眼鏡をかけている姿しか見たことがなかったので、彼女だと気付かなかった。
じゃあ、この子は……もしかして。
「ずっと会ってなかったものね。娘の志保よ。今年で3歳」
「うわ……もうそんなになるんですか。気付かなかった」
「無理もないわ。祐恭君が知ってる志保は、まだ赤ちゃんだったんだから」
くすくすと笑った彼女がその子の頭を撫でてから、視線を俺から隣へ移した。
そちらにはもちろん――……。
「ずいぶん、かわいらしいお嬢さんを連れてるのね。紹介してもらえるかしら?」
「もちろん。彼女の、羽織です」
「っ……あ」
肩を抱き寄せて紹介すると、美紀さんが優しく笑ってうなずいた。
「初めまして、瀬那羽織です。とってもかわいいお嬢さんですね」
「あらぁ、ありがとう! 私は、長瀬美紀です。よろしくね、羽織ちゃん」
軽く頭を下げた美紀さんが、羽織ちゃんの手を取り、きゅっと握手した。
相変わらず、女性同士は打ち解けるのが早い。
「美紀さんは、俺の従兄の奥さんなんだよ」
「そうなんですか?」
「ええ。だから、この子……祐恭君を泰仁と間違えたのね」
ぽんぽんと志保ちゃんの頭を撫で、にっこり笑った彼女。
……でもな。
彼女とは対照的に、こちらは眉が寄る。
「……そんなに似てないと思うんですけど」
「そうかしら? ふふ、祐恭君らしいわね」
思わず眉をひそめて呟くと、苦笑を浮かべられてしまった。
だが、やっぱり思い直してみても似てないと思う。
……俺が、アイツと?
ヤダヤダ。
絶対、だ。
絶対、似てないと言う。俺は。
「美紀?」
「……あらっ」
「っ……」
不意に背後からかかった、軽薄そうな声。
思わずぴくりと眉が動き、瞳が細まる。
「…………」
ぺたぺたぺた、と近づいてくるサンダルの足音。
……何?
いるのか、ここに。
……ヤツが。
「…………」
ため息をつきながら振り返ると、そこにはニヤリとした笑みを浮かべた彼がいた。
「や。久しぶり」
「っうわ!?」
軽く手を上げて近づいてくるなり、いきなり人の髪に手を伸ばしてきた。
「いっ……きなり何すんだよ!」
「ん? いや、髪がずいぶん伸びたのに店にこないなーと思って」
「まだいいだろ!」
「ったく。教師だったらもっと身だしなみに気を遣――……ん?」
――……と、そこで隣の彼女に気付いた。
……しまった。
慌てて彼女を背に回そうとするものの、それより先に泰兄がにっこり微笑む。
だけじゃなく、ちゃっかり手まで差し出していた。
「初めまして。祐恭の従兄弟の、長瀬泰仁です。かわいい彼女さんだね」
「こちらこそ、初めまして。瀬那羽織で……っ!?」
「……うんうん、きれいな髪だ。祐恭がやたら触りたがるでしょ?」
「んなっ……!!」
突然、泰兄が彼女の髪に触れた。
たまらずそれを止めさせようと身を乗り出すが、太い腕に阻まれる。
「せっかくのきれいな髪なのに、こんなヤツに触らせてたら痛んじゃうよ? あ、そうだ。今度店においでよ。安くカットしてあげる」
「えっ、美容師さんなんですか?」
「うん。ちょっと遠いけど、祐恭をアシにして、おいで」
「あはは」
楽しげに泰兄と話す彼女。
……なんか腹が立つ。
「もういいだろ! ……ったく。気安く触るな!」
「へぇ。ずいぶん、大事にしてるんだなー。でも、いいだろ? 俺は美容師なんだから」
「よくない!」
キッと思いきり睨んで言ってやると、くすくす笑いながら美紀さんに歩み寄った。
「志保ぉー! 心配したんだぞ、パパはー!」
「パパぁー。ごめんなさぁい」
ぎゅーっと志保ちゃんが泰兄に抱きついた途端。
彼は、先ほどまでのやらしい笑みではなく、まさに“親バカ”のごとき口調でそれはそれは優しい笑みを浮かべていた。
相変わらず、俺には容赦なしかよ。
ふと幼きころに受けた壮絶な記憶が蘇り、首を横に振る。
「祐恭も近いうちにこい。わかったな?」
「……わかった」
毒づくように小さく呟くと、にやりと笑ってからきびすを返した。
……やっとか。
ものの数分しか経ってないというのに、なんだ。この疲労感。
相変わらず、こっちのペースを思い切り乱すな。
「さ。それじゃあ帰ろうか。またね、羽織ちゃん」
「また今度、ゆっくり遊びにきてね」
「あ、ありがとうございます」
ふたりが手を振り、彼女もまた嬉しそうに手を振り返す。
「ばいばぁーい」
「あはは、ばいばーい」
最後に、志保ちゃんが彼女に対して大きく手を振ると、それを見て優しい笑みを浮かべた。
そんな3人が去ってしばらくしてから、やっとのことで……彼女が俺を見る。
「かわいかったですねー、志保ちゃん。いいなあ、かわいいなぁ」
「……志保はかわいかったけどね」
くるっときびすを返すと、彼女が不思議そうに顔を覗き込んできた。
どうせ、苦虫を噛み潰したような顔をしてるに違いないが、好きなだけなんでも言ってくれて構わない。
「……? 泰仁さんと、何かあったんですか?」
「別に」
どうせ、くだらない嫉妬だよ。
いくら美容師とはいえ、ほかの男に彼女の髪を触れられるのなんて見たくない。
「美容院なんてどこにでもあるんだし、わざわざ泰兄のところに行く必要はないだろ?」
「え? でも、泰仁さん上手だと思うし……」
「……なんでそんなことが、わかるんだよ」
「だって、先生の髪をカットしてるのって、泰仁さんなんですよね? だからです」
「……泰仁泰仁って……。今は俺と一緒にいるんだぞ!」
「……? 先生? え、どうして怒って――」
「怒ってない!」
そうだよ。
俺は別に……別に、怒ってない。
たとえ、彼女が嬉しそうに泰兄の話したり、俺の事は『先生』と呼んでるのに、ヤツのことは名前で呼んでいようとも。
……くそ。
なんなんだよ、今週は。
やけについてないな。
会いたくないヤツには会うし、見たくないものは見るし。
あぁもう。
「ほら。夕飯の買い物して帰るんだろ」
「う、うん」
彼女の背中を押して食品売り場に向かい、かごを持って促す。
すると、素直にそれには従った。
「何が食べたいですか?」
「うなぎ」
「……うなぎ?」
「焼肉」
「……先生……?」
「にんにく満載でね。夏バテしないように、そういうの作ってもらおうかな」
「っも……もぅ! 先生なら夏バテしないから、大丈夫!」
頬を染めて魚売り場に出向くと、彼女があるモノに目をやった。
それから、俺の反応を伺うかのように、顔を上げる。
「……うなぎにします?」
「羽織ちゃんがそう言うなら、そうしようか」
にっこりと、それはもう優しく優しく笑ってうなずくと、なぜかため息をついてから蒲焼を手にした。
なんで、そこでため息つくかな。
別に、どうしてもうなぎが食べたいとは一言も言ってないんだけど。
「でもなぁ。うなぎだけじゃ……ほかのおかずは、何がいいですか?」
「羽織ちゃん」
「っ……! もぅ! 先生っ!」
本気で言ったのに、思いっきり睨まれた。
まぁ、頬が染まっているから、迫力はもちろんないけど。
……それでも、コレくらいはさせてもらいたいモンだね。
俺の前で、散々泰兄と絡んでたんだから。
……フン。
あー、おもしろくない。
|