「……はぁ」
ハンドルを握りながら、ため息が漏れた。
視線を隣に向ければ、かわいらしいキャミソールにカーディガンを羽織って、ミニスカートを穿いている彼女が、車内に流れる曲を小さく口ずさんでいる。
そんな姿はとても愛らしくて、ついつい手を出したくなるのだが……今はそんな気分じゃなかった。
現在向かっているのは、平塚市。
実家と祖父の会社などがある、自分にとっての中枢といえば中枢。
……だが。
今日だけは、どうしても気が乗らなかった。
せっかく、こうしてふたりきりの車内も、これから向かう先を思うと非常に切なくなってくる。
……このままどこか違う場所へ。
そんな考えが頭をよぎるが、あとのことを考えるとそうもいかないのが現実だった。
いわゆる、しがらみだらけの相手。
……ああ、めんどくさい。
「先生、どうしたんですか? ……さっきから、なんだか浮かない顔ばかりですけど……」
「……まぁ、ね」
「もしかして……これから泰仁さんのところに行くから……?」
「…………それもある。ていうか、それ」
信号が変わって前の車が動き出すのにあわせて、こちらもアクセルを踏み込む。
そう。
彼女と向かっているのは、従兄の泰兄が経営する美容室なのだ。
「……はぁ」
平塚市の境界看板を過ぎてしばらくすると、左側に海が見えてきた。
今日の天気は良好で、きらきらと海面が光を反射させている。
「わぁ、気持ちよさそうー」
無邪気に呟く彼女に小さく微笑んでから、駅方面へと交差点を右折すると、ほどなくして住宅街へと町並みが変わり――……。
……見えてきたというか、見慣れたというか……な、美容室。
…………はぁ。
今朝から数えて、何度目のため息になるだろうか。
確かに自分も髪が伸びてきたとは思っていたが、まさかあんな場所で泰兄と会うとは思ってもいなかっただけに、なんとなく気が滅入る。
別に、髪を切るだけならどこでもいいんだよ。
それが正直なところだが、ほかの美容室へ行ったことが彼の耳に入ると……。
「…………はー」
末恐ろしくて実行することはできなかった。
車を駐車場へ停めてから降りると、むっとした重たい外気に眉が寄った。
……暑い。
夏だから、仕方ないんだけど。
「……やっぱり暑いな」
「夏ですもん」
こちらの呟きに苦笑を浮かべた彼女がうなずき、隣まで歩いてきた。
……これから、改めて彼女を紹介しなくてはならない。
以前会ったときに簡単にはしたものの、今回が正式に会わせるかたちだ。
前回髪を切りにきたとき、『教え子に手を出したら指さして笑う』と言われているだけに、やっぱり気が重かった。
いや、彼女と付き合っていることを隠したいとかそういうわけではなくて。
単に、泰兄がどんなリアクションをするかが恐ろしいというだけ。
……なんて、いつまで考えてても変わらないか。
仕方なくガラスのドアに手をかけ、小さく息を吸ってから中へ入ることにした。
「いらっしゃいー」
すぐに飛んできた、相変わらず元気なというか、商売人っぽいというかな声。
そんな泰兄の声に、一瞬眩暈がする。
「よ。きたな」
「……ああ」
思い切り嫌そうにうなずくが、泰兄は俺ではなく、すでに彼女を見ていた。
それはもう満面の笑みで。
……く。
すげー感じ悪い。
「いらっしゃい、羽織ちゃん」
「こんにちは」
にっこりと彼女に笑みを浮かべて頭を下げ、早速椅子へと手招きするのを見て、思わず目が丸くなった。
「なっ……! おい、泰兄! そんないきなり――」
「いいだろ、別に。お前もあとで構ってやるから」
「ちょ……!」
それだけ言うと、しっしとばかりに手で追いやられた。
……なんなんだよ。
つーか、まず俺からじゃないのか?
ため息をついてふたりの楽しそうな姿に背を向け、ソファへ座ってテレビのチャンネルを変える。
いつものことながら、人が少ない。
というか、単にまだ昼休み中だからというのもあるんだろうが。
自分が来るときもそうだが、彼は大抵こうして自分ひとりのときにプライベートな客を対応していた。
普段は結構繁盛しているらしく、なかなか自分がカットすることができないかららしいが……別に、泰兄にカットしてもらわなくても、いいっつーの。
口には出せないことを思いながらため息をついてソファへもたれると、相変わらず視線はどうしてもあのふたりへと向かう。
「…………」
彼女の頬すぐ近くへ顔を寄せて、鏡を覗きながら髪をしっかり指でつまんでいる。
長さを見ていることはわかるのだが、やはりいい気分はしなかった。
……しかも、なんか楽しそうだし。
様々な表情を見せる彼女と、それに答える泰兄。
その組み合わせが、ぶっちゃけものすごく気に入らない。
ったく、どいつもこいつも人の彼女に気安く触りやがって。
見ていてもおもしろくないし、見ていたくもないので、視線を逸らしてテレビを見始める。
すると、目の前にアイスティーのグラスが置かれた。
「……あ」
「いらっしゃい、祐恭君」
「お邪魔してます」
グラスを持ってきてくれた美紀さんに姿勢を正してから挨拶をすると、彼女も目の前に座った。
「今日は眼鏡なんですね」
「ええ。やっぱり、眼鏡のほうが楽なのよねー」
「あはは、わかります」
自分もコンタクトがあまり好きじゃないせいか、その気持ちはよくわかった。
早速、アイスティーをいただこうと手を伸ばす……と、彼女が何かを探すようにキョロキョロとあたりを見回した。
「……? どうしたんですか?」
「ええ。実は、和哉を連れてきたんだけれど……どこ行っちゃったのかしら、あの子」
……忘れてた。
そういえば、前回来たときに『今度は和哉の勉強を見る』という約束をしたのだった。
……頭痛の種がまだあった。
どいつもこいつもというよりかは、親子揃ってという感じだ。
「とぉーー!」
「うわっ!?」
軽く頭に手をやったその途端。
いきなり、うしろから何かがぶつかってきた。
「うーきょーー。ぃようっ、久しぶり!」
「こら、和哉っ!」
その塊というのは、案の定和哉だった。
走ってきて、そのままソファを乗り越えたのだろう。
いくら体重が少ないとはいえ、結構な衝撃だ。
慌てて美紀さんが和哉をたしなめるものの、聞く耳を持っているはずもなく。
ぐりぐりと人の頭を弄り倒したあとで、ようやく首から両手を離した。
「……お前は……!」
ふつふつとこみ上げる怒りを抑えながら彼を見ると、やっぱり反省の様子はなかった。
子どもというのは、どいつもこいつも、みんなこんななんだろうか。
…………。
…あー、なんか頭痛い。
思わず、重たすぎるため息が漏れる。
「なあ、祐恭ー。夏休みの宿題が終わんなくてさぁ」
「自分がやらないから悪いんだろ」
「そう言わないで教えろって。お前、先生なんだろ?」
「あのな。それが人に物を頼む言い方か?」
少し呆れながら呟くと、口を尖らせて隣に腰掛けた。
手にしていたのは、懐かしい気さえしてくる“夏休みのドリル”とでかでか書かれているもの。
国語、算数、理科、社会が1冊にまとめられているアレだ。
――……が。
「……あれ?」
「ん?」
「カズ。お前、理科と社会は?」
「はぁ?」
ぺらぺらとめくりながら和哉に訊ねると、怪訝そうな声が返ってきた。
「なんだよ」
「祐恭、お前ってさー。先生だよな? 一応」
「一応とか言うな」
開いて感じた、違和感。
その理由は、ドリルの薄さと教科の少なさにあった。
俺が和哉と同じころは、国語、算数、理科、社会が1冊にまとまったドリルをやったもんだ。
だが、今手元にあるこれには、国語と算数しかない。
あとの教科はどこへ消えたんだ?
「あのなー。俺たちは社会とか理科っていう教科は学校でやらないの」
「は!?」
「馬鹿だなー、お前知らないのか? 今は、生活っていう教科があるんだぞ?」
「………あ」
そう言われれば、数年前に取った初等科の教職課程でそんな話があった気がする。
……そうか。
今はもうこの年の子どもに、理科や社会はないのか。
そう考えると、自分がずいぶん年を取ったような気がして、少しばかり切なかった。
何よりも、自分が1番興味を持った教科だけに。
「おい。だからー、そんなことはどーでもいいんだよ。宿題!」
「あ? あぁ……そうだな」
しみじみと昔を懐かしんでいたら、和哉につつかれた。
そこでようやく我に返る。
……でも、そうだよな。
俺と17歳も違うんだもんな。
時代も大きく変わったもんだ。
「……はー。で? どこがわからないんだ?」
小さくため息をついてから、改めてドリルを開く。
……だが。
パラパラめくって算数のページを開くと、汚れていない白いページばかりが目に付いた。
「……なんだよ、全然やってないじゃないか」
「当たり前だろ? 祐恭がくるっていうから、わざわざ取っておいたんだぞ」
「そんな気の遣い方はしなくていい」
ため息をつきながら彼を見ると、やけに大きい筆箱から鉛筆を取り出してこちらに渡してきた。
「……なんだ」
「やって」
「馬鹿か。お前の宿題を俺がやってどうする!」
「いいじゃん。こんなのすぐだろ?」
「そういう問題じゃないんだよ! 教えてやるから、ちゃんとやれ!」
「ったく、ケチだなー」
「ケチとかそういう問題じゃないだろ!」
ソファにもたれてため息をつくと、和哉が服の端を引っぱった。
その顔は少しばかり先ほどまでとは違って、幼さが強い。
「じゃあ、やるから。教えて」
「ったく」
ゆっくりと身体を起こしてドリルの問題に目を落とすと、なんとも簡単な数字が目に入った。
はー、眩暈がするほど簡単だな。コレ。
羨ましい。
いや、当然基礎中の基礎なんだから、こういうモノであるべきなんだが。
「いいか? 2+4はいくつになるか、っていう問題はだな……ほら、たとえばスイカが4つあって、そこにお隣さんから2個貰う。な? そうしたら、スイカは全部でいくつになる?」
「…………6こ」
「だろ? そうやって考えていけば、別に詰まることなんてないじゃないか」
ちゃんとできるのに、悩みすぎなんだよ。
などと思った途端、不意に和哉が顔を上げた。
「でもさ、それっておかしくねぇ? だって、家にスイカが4つもあることなんて、ありえないじゃん」
「そ……そりゃあそうだけど。あー、ほら、あれだ。田舎のばーちゃんがスイカ作ってて、3つ送ってくれたんだよ。で、もうひとつは母さんが買ってきた」
「えー? そんな偶然ないだろー? だいたい、隣のみえちゃんちから2個もスイカ貰うなんて、ないもん」
「……み、みえちゃんでも誰でもいいけど、たまたま福引で当たったんだよ。ダンボール1箱とか」
「だからって、俺の家に2個もくれないだろ? だったら、1個ずつみんなに配る」
「……だーかーらー。スイカの話はいいんだよ! あくまで、たとえなんだから」
「はーん。たとえだったら、もっとありふれた物にすればいいだろ? 飴とかさぁ」
「う」
7歳児につっこまれた……!
内心傷ついている俺とは違い、大げさに肩をすくめた和哉はそのあと、つかえることなく問題を解いていった。
……いいだろ、別に。
スイカだろうと、飴だろうと。
イチイチ細かいところに触れるな。
「なんだよ。できるなら俺に頼るな」
「馬鹿だなー。これくらい、できるの俺は」
だったら、溜めないでさっさとやれよ。
などと思いながらテレビを見始めると、途端に和哉がまた服を引っ張った。
「……なんだよ」
「遊んで」
「……はぁ?」
「遊んでくれよ」
ふつーに言いやがったなコイツは。
「お前、まだ宿題終わってないんだろ? それが終わったら遊んでやるよ」
「今がいいんだよっ。祐恭、たまにしかこないだろ!」
「……面倒くさ」
「こらっ! お前はいつからオッサンになったんだよ! 別に海に連れてけとか言ってるんじゃないんだから、遊んでくれればいいだろ!」
「うるさいなー、たまにはゆっくりさせてくれ」
「お前は毎日休みだろうが!」
「それはお前だろっ!」
「――……あのなー」
「え?」
「あ?」
ぎゃーぎゃー大声で和哉と騒いでいると、鏡の前にいた泰兄がシャキシャキとハサミを鳴らしながら近づいてきた。
その顔は、なんとなく……なんとなくだぞ?
気持ち、恐いように見える。
「……お前ら、もう少し静かにできねーのか? 気が散る」
「っ……」
「う」
その瞳は真剣そのもので、何か口答えでもすれば、問答無用で切り付けられそうな勢いだった。
「……ごめん」
「なさい……」
小さくハモって呟いたのを見て、ようやく満足そうにうなずいてから泰兄が彼女の元へと戻って行った。
鏡越しに見える、顔。
それは今俺たちに見せていたモノとはまるで違い、それはそれは明るい優しい人懐っこい笑顔だった。
人はここまで変われるのか、と改めて実感する。
「……こわ」
「パパ、仕事してるときは絶対許してくれねーもん」
お互いに大人しくしていよう、と顔を見合わせてうなずくと、和哉は黙ってドリルの続きを始めた。
しばらく黙って和哉を見ているも、やはり目の前のふたりのほうがよっぽど気になるワケで。
「…………」
………って………寝てる、だろ。あれ。
鏡越しに彼女を見ると、しっかり瞳を閉じてうっすらと唇を開いていた。
……寝てる。絶対寝てる。
起こしてやろうと立ち上がると、気配を察したのか先に彼女が目を開いた。
「……あ……」
「起きた?」
泰兄がにっこり微笑むと、慌てて彼女が申し訳なさそうに呟く。
「すっ、すみません……眠っちゃって……」
「あはは、いいよいいよ。髪触られてると、眠くなるもんねー」
「そうなんです。すごく気持ちよくて……」
すみません、と再度呟いた彼女は、どこかうっとりとしていて……なんか、エロくて。
非常に気分が悪い。
……気持ちいい、だ?
意味合いが違うとはいえ、男の手によって得たモノだろ?
……クソ。
なんか腹が立つ。無性に。
「……ん? 祐恭、何か用?」
「別に」
視線を外して呟いてから、首を振ってそのままソファへもたれる。
……あー、ちくしょう。
やっぱり、連れてくるんじゃなかったな。
「なぁなぁ、これってさー。どうやんの?」
「……どれ?」
目を閉じていたら、和哉が再び算数の問題を聞いてきた。
気になる。彼女と、泰兄がものすごく。
だが、ここであからさまに態度へ出すのはなんだか大人気ないような気がして、その行為は自然と阻まれた。
……ちくしょう。
じいっと見つめたままだった彼らから視線を外し、仕方なく和哉へと半ば無理矢理戻すしかなかった。
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