「……やー、わかりやすいなー」
「え?」
 泰仁さんがくすくす笑ったのを見て、鏡越しに彼を見る。
 すると、ふっと微笑んでから小声で続けた。
「祐恭ってさ、独占欲強いでしょ」
「………あ……、それは、ある……かもしれないです」
 苦笑交じりに呟くと、やっぱりね、と言ってからハサミを動かし始めた。
 シャキシャキ、と響く小気味いい音。
 この音、結構好きなんだよね。
「俺が、羽織ちゃんの髪に触ってるのが気に入らないんだよ」
「……え? そ、そんな! だって、泰仁さん……美容師さんだし。それに、先生の従兄弟で――」
「そうなんだけどねー。ま、男なんてそんなもんだよ。所詮我侭だし、嫉妬深いし」
 シャキシャキといい音を立てながら、彼が続ける。
 すると、鏡越しに先生を一瞥してから、私へ視線を合わせた。
「……本当はね、初めて羽織ちゃんに会ったとき、今度アイツに会ったら絶対いじめてやろうと思ってたんだ」
「……え? どうしてですか?」
 目を丸くして訊ねると、苦笑を浮べながら続ける。
「あいつ、前ここへ来たときに『年下は興味ない』とか『教え子に手を出すような不良教師じゃない』とか、散々言ってたんだよ」
「えぇっ、そうなんですか? ……知らなかったです」
「だろうね。アイツがそんな話を羽織ちゃんにするとは思えないし」
 髪に櫛を入れながら目線を下げ、もう1度こちらを見る。
 だけど、今度は……優しい笑みを浮かべていた。
「……でも、今は気持ちちょっとわかるかなー、って思う」
「え? そう……なんですか?」
「うん。なんていうかさ、羽織ちゃんってかわいいんだよねー」
「かっ……!? かわいくなんて、ないですっ」
「あはは。そういうところが、かわいいんだよ。こう……見てて守ってやりたくなるし。それに、なんか一緒にいると落ち着くんだよね」
 先生に似た笑みを向けられ、思わず頬が赤くなった。
 顔立ちは少し違うとはいえ、やはりこういう仕草はどこか彼に通じるものがある。
「アイツ、今まで絶対に年下とは付き合わなかったし、興味もないヤツだったんだよ。だから、そんなアイツを惚れこませた羽織ちゃんって、どんな子なんだろうって思ってたんだけど……」
 ハサミを動かす手を止め、視線を鏡越しに合わせてから、彼がにっこりと微笑んでうなずいた。
 その、笑顔。
 とても優しくて、カッコよくて……どきっとする。
 ……なんてことを先生に言ったら、怒られてしまうかもしれないけれど。
「祐恭が好きになるのも無理ないなーって、今まで話しててわかったよ」
「……そんな……。でも私、先生に何もできなくて……」
「そんなことないよ。じゃなかったら、アイツがそこまで嫉妬したりしないって」
 ないないと手を振ってから、泰仁さんが苦笑交じりに彼を見た。
 すると、その視線に気付いて怪訝そうな顔を見せる。
「……なんだよ」
「別に」
 くすくす笑いながら肩をすくめた泰仁さんが、仕上げのカットを終えて大きな鏡を取り出した。
 開かれる、両面の鏡。
 うしろが見えて、つい笑みが浮かぶ。
「うしろ、こんな感じだけど。どうかな?」
「うわぁ……すごい。ありがとうございます!」
「いーえ。どう? 少しは、イメージに近いものになった?」
「はいっ、すごく!! ……これで少しは、変わってくれるといい……なぁ」
「あはは。大丈夫でしょ」
 まさかここまで髪型が変わるとは思わなかった。
 だけど、これだけ変われば……えへへ。
 少しは彼に釣り合うような気がして、嬉しかった。
「はい、お疲れさまー」
「ありがとうございます」
 にっこり笑って立ち、頭を下げてから――……先生のほうへ身体ごと向き直る。
 ついつい浮かんでしまう、笑み。
 そんな私を見た彼が、気付いてすぐに目を合わせた。

「……どうですか?」
 少し照れたように髪を触る彼女は、先ほどまでの彼女とはまったく違って見えた。
 大人びた面影。
 短時間の間に、変わるものだと感心する。
「………ずいぶん、大人っぽくなったね」
「えへへ」
 思わず、息を呑んだ。
 表情も口調も……そして、もちろん声も変わってはいないのだが、髪型が違うだけでこれほどイメージが変わるとは。
 正直、驚いた。
 髪の両側に入ったシャギーがさらりと揺れて、彼女の頬に沿う。
 少し彼女が首を動かすだけで揺れる髪は、あまりにも魅力的で……。
「……もぅ……そんなに見られたら恥ずかしいですよ」
「え? ……あぁ、ごめん」
 ついつい、じっと彼女に魅入ってしまった。
 なんか……落ち着かない。
 これまではすんなりと撫でていた頭が、今はなんとなく手をやりにくい感じがする。
 ……すごいな。
 ある意味、参った。
 泰兄は、もしかしたらスゴいのかもしれない。
「おい、祐恭。お前も早くこいよ」
「あ……あぁ。わかった」
 言われるままに泰兄のところへ行くと、さっさとケープを巻かれた。
 時計を見ると時間も結構迫っているようで、ざっと髪を濡らされたあと、すぐにハサミの音が響く。
「イイ女になっただろ」
「……ああ」
「へぇ。珍しいな、お前が否定しないなんて」
「当たり前だろ。すげー、びっくりした」
 鏡越しに彼女を見ると、何やら和哉に訊ねられて笑顔で答えていた。
 誰に対しても優しいのは、知ってる。
 だからこそ、子どもに優しいのを見てもなんら違和感はない。
 ……まぁ、多少カズがでれっとしてる感じに見えなくもないけど。
「お前が教え子連れてきたら、めいっぱい馬鹿にしてめいっぱい笑ってやろうと思ってたんだけどさー」
「…………」
 何も言わないでいたら、ハサミを止めずに続けた泰兄が、にやっとした笑みを鏡越しに向けてきた。
「……羽織ちゃんなら、その気持ちわかるんだよな」
「なっ……! だ、ダメだからな!」
「ばぁか。俺には妻も子どももいるの」
 苦笑を浮べてにやにや笑う彼から視線を外すと、くっくと喉で笑う声が聞こえた。
 ……くそ。馬鹿にされた。
「まっ、お前が俺にまで嫉妬するなんてな。……今までの彼女は連れてこなかったのに、どういう風の吹き回しだ?」
「別にいいだろ」
「だって、彼女は冬瀬なんだぞ? それなのに、わざわざ車で連れてきて……相当惚れてんのな、お前」
「うるさい」
 毒づいてから雑誌を手にし、暗黙の『話聞きません』オーラを出してやる。
 だが、そんな姿を見ながらも、泰兄は笑いながら続けた。
「羽織ちゃん。最初、俺になんて頼んだか知ってるか?」
「……え?」
「『先生に少しでも釣り合うように、大人っぽくしてください』って。そう言ったんだぜ」
「な……」
「ったく。ふたりしてノロケられるこっちの気持ちにもなってもらいたいモンだね」
 ……知らなかった。
 まさか、そんなふうに頼んでいたとは。
 だが、納得もできる。
 そうか、と。
 ……どうりで、と。
「それにしても、見事に羽織ちゃんから出る話はどれもお前のことだったなー。ついつい、俺も昔のこととか、いろいろ喋っちゃった」
「なっ……! 何話したんだよ!」
「なーいーしょ。あー、昔、俺がいじめて泣かせたときの話もしたけど」
「……ばっ! そんなガキのころの話なんて、しなくてもいいだろ!」
「いいじゃん、別に。すげー楽しそうに笑ってたし」
「……ったく……!」
 まさか自分がネタにされているとは思ってもいなかっただけに、結構ショックだった。
 というか、これから彼女があらゆる場面でその弱みを少しずつ出してきそうな気がして、気が重たくもある。
 ……まぁ、そのときは力づくこちらの有利な状況に持ち込ませてもらうのみだけど。
「これから、実家行くんだろ?」
「……そのために来たんだよ」
「そっか。いよいよお披露目かー」
「ちっが……! そんなんじゃなくて!」
「いい、いい。別に照れるなってー」
 あははと笑いながら肩を叩くと、前髪を切るためか泰兄が前に現れた。
「そこまで大事な彼女泣かせたりすんなよ?」
「……わかってるよ」
 ぼそっと呟いてから、鏡越しに彼女を見る。
 ……って、おい!!
「こら! カズ!!」
「……ん? なんだよ」
「なんだよ、じゃねぇよ! おまっ……何してんだ!!」
「休憩」
「馬鹿やろ……!! 離れろ!!」
「いいだろー、別にー。なー、羽織ー?」
「あはは。そうだね」
 言われるままに、笑いながらうなずく彼女。
 ……なんなんだよ。
 親子揃ってここのヤローどもは……!!
「んー? 何怒ってんだよ、お前は……って、あーあ」
 立ち上がって和哉を見た泰兄が、苦笑を漏らした。
「……そりゃー、祐恭怒るぞ」
「祐恭が怒ったって別に怖くねーもん。いざとなったら、羽織になんとかしてもらう」
「だからっ! くっつくなって言ってんだろ!!」
「もぅ。和哉君、まだ1年生なんですよ? そんなに怒らなくても……」
「なっ……!」
 めっ、とまるで子どもを叱るような顔をされ、あんぐりと口が開いた。
 なんだよ。
 今度は、そいつの肩を持つのか?
 小学校1年ってことは、もう7歳なんだぞ?
 物事の判断が十分にできていなきゃマズい年なんだよ!!
 だいたい、膝の上に乗っけて頭を撫でて――……って……!
「ッ……このマセガキが!! どこに手を回してんだお前は!!」
「わぁっ!?」
「あー……羽織柔らかーい」
「あははははっ、やだっ、く、くすぐったいよ!」
「くすぐったいとか言ってる場合じゃなく――っぐぁ!」
「あーもー、うるさいうるさい。7歳の子供に妬くんじゃねぇよ。えぇ? いくつだお前はー」
「ちょ……! やすにっ……それとこれとは、ちがっ……」
 いきなり、首の方向を無理やり変えられた。
 明らかに今、音が鳴った。
 鈍い、嫌な音が。
「だっ……! 泰兄! 父親だったら、もっとちゃんと――」
「妬くなって、だから。ほら、仕上げすんだからじっとしてろ」
 呆れたように呟いた彼は、ハサミを大雑把に入れてすき始める。
 動くなと言われても、鏡越しに和哉の横暴さが目に入るわけで。
 じっとしてなど、いられるはずがない。
「動くなってば」
「っ……」
 だが、そのたびにごきごきと首を動かされ、いつしか耐えるしかできなくなった。
 ………容赦ねぇな、ホントに。
 でも、どーかと思うぞ? 和哉のあの行動は。
 目に余るってのは、こういうことだ。

「……よしっと。ほい。どうだ? こんなもんで」
「あぁ、別に」
 相変わらず、俺のときには襟足を見せるようなサービスはない。
 どうだ? とか聞いておきながら、文句を言わせないようなカットだってことだ。
「お疲れさん」
 ばさっ、とケープとタオルを取ってもらってから、向かうのは彼女の元。
 散々見せ付けられていて、いい加減許してやるだけの気持ちの余裕はない。
「ほら、カズ。どけよ。もう帰るんだから」
「えぇ? 祐恭だけ帰ればいいだろ。羽織は残していけよ」
「馬鹿なこと言うな。これ以上お前の好きにさせてたまるか!」
「うわっ!?」
 睨みつけていた和哉をひょいっと持ち上げ、そのまま泰兄のところへ運ぶ。
 何やら文句を言っていたが、この際構いはしない。
「ま、そういうことだ。諦めるんだな、和哉」
「……ちぇー」
 ぽんぽんと頭を撫でられてようやく納得したかのように渋い顔を見せると、それ以降は和哉も何も言わなかった。
 カウンターで会計を済ませ――…たところで、今まで和哉と喋っていた彼女が慌てたように駆けてくる。
「あの、私……!」
「あぁ、いいよ羽織ちゃんは。もうこいつにもらったし」
「で、でもっ!」
「いいんだよー。気にしないで、これからもおいで。ね?」
 にっこりと泰兄が微笑むと、困ったように俺と彼とを見比べてから小さくうなずいた。
 ……ちょっと待て。
 これからも、だと?
 誰が連れてくるか!
 絶対、ない。
「ほらほら、そんな顔しないで。代金は祐恭からもらったから、気になるんだったらあとで『よしよし』って慰めてやって」
「え?」
「なっ……! 泰兄!」
 妙なことをさらりと言い出した泰兄に慌てると、手をぶらぶらと振って笑った。
 意味ありげな顔で。
 いや、まったくいい仕事なんてしてないし。
 満足げな彼に、げんなりとため息が漏れる。
 ……ったく。
 ほっといてくれ。
「じゃあ気をつけてね、羽織ちゃん。祐恭も、またな」
「ああ」
「ありがとうございました」
 ガラスのドアに手をかけると、和哉がとことこ見送りに出てきた。
 それはそれは渋い顔で、さぞかしつまらなそうに。
「……じゃーな」
「うんっ。また遊ぼうね」
「ちゃんと勉強やれよ」
 ぽん、と和哉の頭を叩くと、珍しく文句を言わずにうなずいた。
 こういうところはまだまだ子どもだな、と思うんだけどな。
 駐車場へ行って車に乗り込み、エンジンをかける。
 さすがに炎天下にさらされていただけあって、いくらサンシェードをしておいても、サウナのような暑さだった。
 窓を開けてクーラーを最大にして数分後。
 ようやく、涼しい風が車内を満たし始める。
 噴出し口に当てていた手を外し、窓を閉めてから、その手をギアに置く。
 今度は、一路実家に向けて車を走らせる。
 ――……が、その前に。
「っん!」
 助手席の彼女の頬へ手をやってから、そのまま唇を塞ぐ。
 しっかりと味わうようにしてから離してやると、頬を染めて俺を見上げた。
 いつもと変わらない表情だが、やはりどきりとさせられる。
「……もぅ……なんですか? いきなり……」
「羽織ちゃんが泰兄にもカズにも愛想よく振舞うから悪い」
「もぅ。泰仁さんは先生の従兄さんで、和哉君はまだ7歳なんですよ?」
「男は生まれたときから男なんだよ。年齢は関係ないの」
「……もぅ」
 くすっと笑うのを見てから、車をバックさせて店をあとにする。
 いよいよ……実家に向かうときがきた。
 先日、母から電話があってお盆にくらい帰ってこいと言われたのだ。
 ……しかも、彼女を連れて。
 この前さくらんぼの件で電話をしたときに彼女の話になったからか、興味津々という感じだった。
 ……ったく。
 まぁ、お袋なら考えられるけど。
「…………」
 楽しみなのか、それとも……緊張かな。
 隣に座る彼女をちらりと見ながらそんなことを考えると、すぐに見慣れた家が見えてきた。
 俺が高校まですごした、あの、家が。
 ……あー。なんか、俺のほうがどきどきする。
 彼女よりも、もしかしたら。


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