「さー、いよいよ遠足ね。丹精込めてふたりが作ってくれたしおりは、みんなしっかり熟読しておくのよー」
日永先生のうきうきした声に、周りからも楽しそうな返事があがる。
「せんせー。バナナはおやつに入るんですかー?」
定番の質問に、日永先生が苦笑した。
そういえば、この質問は去年も聞いた気がする。
さすがに、担任の先生は違うんだけど、ね。
「どしたの? 羽織。大丈夫?」
「……え? うん。大丈夫だよ」
「何かあった?」
頬杖をついたまま、どこかぼーっとしていたせいかもしれない。
心配そうな絵里に顔を覗きこまれ、首を振りながら笑みを浮かべるも、彼女の表情はすぐれなかった。
ついさっき、ってほどでもないんだけど……瀬尋先生の電話での会話を聞いてから、彼を見るたびに思い出してしまい、少しだけ苦しくなる。
でも、それを言えば絵里は心配するとわかっているから言わなかったんだけど、やっぱり顔には出ているらしい。
「おやつ、何にしようかなーって」
「……ほんとにー?」
「あはは。ホントだよ」
うりうり、と肘でつつかれながら少し笑うと、若干絵里の顔も緩んだ。
そうだよね。
いつまでも落ち込んでいたって、しかたがない。
遠足で、この気持ちにも踏ん切りをつけよう。
そう決めると、再び自分らしい笑みが浮かんだ。
「明日、楽しみねー」
「うん。お寺が楽しみ」
「……羽織、アンタ本当に行く気? 一緒に買い物行けばいいのに」
「だって、どうしても行ってみたい所だったんだもん」
口を尖らせる絵里に首を振ると、盛大にため息をつかれた。
たしかに、買い物だって嫌いじゃないし、むしろ行きたい。
だけど、以前CMで見て以来、一度でいいから行きたかった場所なんだもん。
CMは所詮CMと言われちゃうかもしれないけど、でも、本当にきれいだったの。
ひらひらと赤い紅葉が舞う、玉砂利の敷き詰められた庭。
季節は違うけれど、でもきっと今の時期だってきれいに違いない。
わびさびはわからないけど、きれいだなぁ直接見てみたいなぁって思った景色だった。
「まぁいいけど。それじゃ、明日また学校でね」
「うん。じゃあね」
HRを終えて扉に向かう途中で、日永先生と話す瀬尋先生に思わず目が行った。
うっかり足を止めて見てしまったものの、目が合いそうになり、慌てて教室を出る。
「…………」
昇降口に向かう道中も、考えるのは今日の出来事。
少しずつ彼に惹かれていたせいか、見たくなかった……と今さらながらに思う。
――と、そこではたりと足が止まった。
そっか。
私、瀬尋先生のこと……好き、なんだ。
だから、余計つらく思ってるんだ。
……やだ。
先生を好きになることなんて、きっともう二度とないと思っていたのに。
「…………」
下駄箱の前に立ち、靴を出して履き替えてから、そっとフタを閉める。
いよいよ明日は、遠足。
ため息をついてから外に出ると、ゆっくりと日がかたむき始めていたのが目に入った。
「おはよー! んもー、昨日から眠れなかったわよ、私!」
「あいた!」
学校に着くなり、絵里がバシンと肩を叩いた。
遅れてジンジンと痛みが広がり、眉が寄る。
だけど、相変わらずな絵里を見ていたらいつしか笑っていた。
「朝から元気だね、絵里って。えっと、教室じゃなくてバスに直接行っちゃっていいんだよね?」
「そーそ」
門で待ち合わせていたので、そのままロータリーへ移動する。
すると、そこにはすでに数台のバスが停まっていた。
学年ごとに出発時間が違うため、今停まっているのは3年8組までのもの。
3年2組という札がかかっているバスを見つけてドアへ向かうと、そこには日永先生と瀬尋先生の姿があった。
「おはようございまーす」
「おはようございます」
「おはよう。早いわねー」
「えへへ。やっぱり行事だと気合入っちゃって」
あはは、と笑う絵里の隣に並び、ふたりに頭を下げる。
けれど、視線は落ちたままだった。
「おはよう」
「っ……おはよう、ございます」
瀬尋先生が声をかけてくれたものの、どう返していいのかわからず、一瞬躊躇した。
すると、不思議そうに顔を覗きこまれ、不意なことに思わず喉が鳴る。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「あ……え、っと……」
「あーだいじょぶ。羽織、ちょっとバス酔いがあるからブルーになってるんです。ねー?」
「っえ……あ、そう。そうなんです」
乗り物酔いの心配をしたことは、今まで一度もない。
でも、咄嗟に助け舟を出してくれた絵里に感謝し、こくこくうなずく。
……ありがと、絵里。
おかげで、助か――。
「そうなの? 俺の席、前だから来る?」
「え!?」
「そうね。瀬尋先生の隣、空いてるから座らせてもらいなさい」
「えぇえ……!?」
彼だけでなく、日永先生にまでうなずかれ変な声が出た。
ま、まさか。
だって、そんなことにならないように……と思って、あえて絵里にのっかっただけなのに。
こんな展開になるだなんて、思いもしなかった。
「あー! それいい! ちょーいい! 羽織! あんた、そうさせてもらいなさいよ!」
「えぇ!? ち、ちょっと絵里! いえ、あの、大丈夫ですから! ホントに!」
ぱちんと手を叩いて『これぞ運命ね!』とでも言わんばかりの顔をした絵里は、ひたすらに肯定。
そんな彼女が脇をつつき、こそこそと耳元で『よかったじゃない』と続ける。
っ……もぅ!
「うん、そうしなさい。皆瀬たち、うしろの席だったものね。なんなら、皆瀬も前にくる?」
「え、いいんですか?」
「うん。先生の隣空いてるし」
「わーい。じゃ、日永センセの隣座るー」
嬉しそうに笑った絵里は、そそくさとバスに乗り込んでいった。
……って、私の意見は……!?
なんだか、ちょっとひどい感じがするのは気のせいだろうか。
「……え?」
思わず眉を寄せて絵里のうしろ姿を見ていると、ふいに肩を叩かれた。
「服とか鞄とか置いてあるけど、適当にどかしてくれて構わないから」
「っ……わ……わかり、ました」
振り返ると予想以上の近さで瀬尋先生の顔があり、かなりびっくりした。
けれど、当然と言えば当然なものの、普通の顔で言われ、私だけがおかしな反応なんだと反省。
……うぅ。いいのかな。
まさかの展開に喜んでいいのか、それとも……うーよくわかんない。
「……はぁ」
できれば、彼とは今回の遠足であまり関わりを持ちたくなかったものの、こうなってしまっては断るのも逆に勘ぐられてしまわないとも言えない。
諦めてしょんぼり席につくと、通路を挟んで隣に座っている絵里がにっこり笑った。
「よかったじゃない、羽織。転機よ、転機! これで一気に形勢逆転じゃない?」
「……転機じゃないよ……もぅ。今回は先生から少し離れたかったのに」
「そうなの? ま、いいじゃない。楽しくなりそうねー」
ひらひらと手を振る彼女は、まるっきりこの状況を楽しんでいるとしか思えない。
ほかの子たちも、私が最前席にいるのを目にすると、楽しそうに声をかけてきた。
――ただひとりを除いては。
「先生! 私も酔いやすいので前がいいです!」
見れば、こちらを指差して騒いでいる中野さんの姿が。
……やっぱり。
日永先生が彼女をあやしているものの、まったく聞く耳を持っていないようで、ぎゃんぎゃんと大きな声が続いている。
「だったら、俺の席に座ったらどうかな? 俺はどこでも構わないから」
「え!? そ、それは……」
さらりと伝えた彼は、『それでは意味がない』と中野さんが言うに言えず困っているとは思いもしないだろう。
が、日永先生が座席表を確認し、意外そうな声をあげる。
「でも、中野は3列目でしょう? だったら、大丈夫よ」
「……そ、それはっ!」
「さ、早く乗りなさい。もうそろそろ出発するわよ」
にっこり笑って肩を叩かれた彼女が、しぶしぶバスに乗り込んでくる。
そのとき目が合いそうになったけれど、窓のほうを見てそらしたので難を逃れた。
「それじゃ、みんないるー? そろそろ出発するわよー」
日永先生がマイクを使わずに声をかけると、車内に元気な声が響いた。
全員がいるのをきちんと指さし確認してから、彼女も席に着く。
「それじゃ、運転手さんお願いします」
はい、と小さな返事が聞こえてすぐ、ドアが閉まった。
「狭くない?」
「っ……大丈夫、です」
狭いというより、こう、肩がぶつかりそうですごいどきどきするんですけど。
座席の真ん中にひじ掛けがないこともあり、うっかりすると付いてしまう。
……うぅ、ドキドキしすぎて着くまでに違った意味で具合悪くなるかも。
当たり前のように座っている彼を横目で見ると、しおりの工程表を見ながらペンで何かチェックしているようだった。
「……はぁ」
いよいよ、京都に向けての出発。
まだ始まったばかりとはいえ、早くも波乱含みのような気がしてならなかった。
高速道路では都度休憩が挟まれることもあり、いかにも旅行めいた旅。
ただ、出発時間がかなり早いこともあって、中には寝ている子もいた。
「どう? 酔わなくて済みそう?」
「え? あ、大丈夫です」
「よかった」
にっこり笑った彼に、後ろめたさからか乾いた笑いが漏れる。
……嘘ついて、ごめんなさい。
視線が逸れると同時に内心でそんな謝罪をし、小さくため息をつく。
「でも知らなかったな、酔いやすいなんて。孝之の運転で慣れてると思ってたよ」
「確かに、お兄ちゃんの運転荒いですからね。ホント、びっくりします」
「でも、あれでゴールド免許だからね。人生、わからないと思うよ」
「あ、それはありますね。……んー、肝心なときにお巡りさんが見てないんですよね、きっと」
他愛ない話ながらもお互いに笑いながら過ごせるのは、特別だと思うし、正直嬉しい。
ああ、こんなふうに話せるのも、ある意味ではお兄ちゃんのおかげなのかな。
よく喧嘩をすることもあるし、あえてちょっかいを出すかのようにツッコミも入れてくるから、あんまり『いてくれてよかった』と思うことは少ないんだけど、今回は感謝する。
瀬尋先生が友達にいてくれて、よかった。
そのおかげで、こんなふうに話すことができてるんだもんね。
「よかった。やっぱり、羽織ちゃんは笑ってるほうがいいよ」
「っえ……」
ふいに言われた言葉にどきりとして彼を見ると、いつもよりずっと優しい笑みがあった。
う……こんな近い距離でそんなに優しく笑われたら、顔赤くなるんですけど。
そしてそして、バレちゃうんじゃ……っ。
そうは思うものの逸らすに逸らせず、目を丸くしたまま見つめるしかできなかった。
「最近、元気がなかったからちょっと心配だったんだ。何か悪いことしたかな、と思って」
「っ……とんでもない! そんなんじゃないんです。……すみません、そんなつもりじゃなかったんですけれど……」
「いや。なんでもないなら、それでいいんだ。ごめんね、余計な気を遣わせて」
「こちらこそ、申し訳ないです」
彼に気を遣わせていたことがわかり、眉を寄せて軽く頭を下げると、首を振ってから微笑んだ。
優しいんだよね、本当に。
“よかった”なんて言われて、少しだけ胸が痛む。
「せっかくの旅行なんだし、楽しんで」
「……はいっ」
――それから暫くは、絵里もまじえて京都についての話で会話が弾んだ。
あの場所がどうだとか、あそこであんなことがあった、などなど。
東名から名阪へ乗り換えたあとの休憩を挟んでもなお続き、窓の外の景色の移り変わりを楽しんでいると、ほどなくして日永先生が立ち上がってマイクを手にした。
「そろそろインターを降ります。まずは旅館に行くから、部屋に戻って着替えたらロビーに集合してね」
ざわつきながらも、みんながちゃんと返事をしたのを確認すると、ふいに瀬尋先生が私を見た。
「着替えるの?」
「今日は自由行動だから、私服に着替えての行動なんですよ」
「へぇ」
制服だと目立って問題になる場合があるから、と苦笑とともに付け加える。
それに対して、彼は納得したようにうなずいた。
「そっか。俺たちのころは私服なんてもっての外だったからな。どこにいくにも制服だったけど……」
「昔はうちの学校もそうだったみたいですよ。でも、何年か前から、制服じゃないほうが紛れるから、って」
「なるほどね。まあグループ行動だし、教員の目は届きにくくなるからな……」
「先生も回るんですか?」
「チェックポイントがあるでしょ? そこに立ってはいるけど、時間見計らって各グループを見る予定。たしか、羽織ちゃんたちは、買い物からスタートだっけ」
「はい。まずは、できたばかりのショッピングモールに行くみたいですよ」
「……みたい?」
「あ。えっと……みんながそう言ってたので」
耳ざとく聞き返され、思わず苦笑が漏れる。
やっぱりそうだよね。
今回の自由時間は、“班行動”が原則。
日永先生には言えないが、思わず彼にだけ本音が漏れ、小さな声で続ける。
「どういうこと?」
「内緒にしてくださいね? 実は、私だけ別行動なんです。ショッピングモールの隣にある、お寺に行くので」
「寺?」
へぇ、と意外そうにつぶやかれ、苦笑しか出ない。
言われるとは思った。
だけど、今さら予定を変えるつもりはない。
「どうしても行きたいお寺なんです。……おばあちゃんみたい、って言われたんですけれど」
「いや、いいんじゃない? 俺も寺院巡りとかやったし」
「え、ホントですか?」
「うん。孝之を引っ張って、修学旅行のときにやったよ」
意外な言葉に目が丸くなったけれど、同時にお兄ちゃんの迷惑そうな顔が浮かんで、思わず笑ってしまった。
それにしても、まさか彼が私と同じようなことを考えていただけでなく、実行までしていただなんて。
思わぬ共通点に、ちょっぴり嬉しくなる。
「それじゃあ、忘れ物しないように降りなさいねー」
日永先生の声にみんなが返事をし、話しながら楽しげにバスを降りて旅館へと向かい始めた。
当然だけど、私たちも例に漏れることなくあとへ続く。
「羽織、行くわよー」
「あ、うん」
「じゃ、またね。センセ」
「ありがとうございました」
「またあとで」
にっと笑った絵里に手を引かれ、バスから降りる。
……隣に座れたのは、やっぱり嬉しかった。
いろんな話ができたし、みんなの知らないことを知れたのはすごく大きい。
ただ、『無理なんだから諦めなきゃ』って思っていた気持ちが、また違う方向へシフトしている。
それが幸か不幸かはわからないけれど、今は、この幸せな気持ちをもう少しだけ味わっていたかった。
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