「……っ……」
背中にわずかな痛みを感じて、不意に目が覚めた。
先ほどまでの明るかった部屋とは違い、今は夕闇が部屋の中に満ちている。
「……あれ」
俺、枕なんて使ったっけ。
……それに、タオルケットまで。
「え?」
上半身を起こしてから隣を見ると、そこにはもう彼女の姿がなかった。
一緒にいたはず。
それは覚えている。
だが――……。
「………………」
ゆっくり立ち上がって伸びをし、ドアを開けて廊下へ。
……と、うまそうな匂いが漂っていた。
「…………」
階段を下りてキッチンに向かうと、そこには家で見ている普段の彼女の姿があった。
料理を作っているときは楽しそうで、見ているこっちも嬉しくなる。
――……が。
今日はそれを倍増してくれる、いいアイテムを身に着けていた。
「……あ、起きました?」
「うん。……ごめん、寝ちゃったよ」
「いいんですよ、別に。……背中、痛くならなかったですか?」
「……若干」
「やっぱり。フローリングにじかだと、痛いですよね」
菜箸を動かしながら苦笑を浮かべた彼女が、鍋に目をやってから再び俺を見た。
手馴れた箸遣いを見ていると、正直ほっとする。
……ああ、本当によかった。
今日の夕食が、大変な思い出にならなくて。
「何か飲みます?」
「あー、いいよ。自分でやるから」
「でも……」
「ほら、君の仕事はこっち」
ぽん、と肩を叩いてからうしろを通り、冷蔵庫から『涼』と書かれた緑茶のペットボトルを取り出す。
そのまま、冷蔵庫へもたれるようにして口づけ、目の前の彼女観察開始。
エプロンをつけている、彼女のうしろ姿。
……うん。いい眺めだ。
「あの……やりにくいんですけれど」
「気にしないで」
「でもっ……」
首だけでこちらを振り返った彼女だったが、俺のあっさりしすぎた答えで、身体ごとこちらを向いた。
んー……
眉を寄せた彼女を見ていたら……つい、そのまま見入る。
まじまじと正面から見るとわかるが、ものすごくヤらしいぞ。この格好。
「……下、着てるよね」
「……? はい」
白いフリルの施されたエプロンを身に着けているのだが、今日の彼女はキャミソールとミニスカートという格好。
だからこそ、こう……まるで何もつけていないかのように見える。
「あ、次揚げなくちゃ」
慌ててガスレンジを振り返ったうしろ姿は、フツーにキャミソールとミニスカート姿といういたって普通の姿なんだが……。
……やらしいな。
しげしげとその姿を見つめていたら、なんていうかこう……男のロマンとでもいうか。
いろいろなモノが、ふつふつと浮かぶ。
「エプロン、もらって帰れば?」
「え? でも、これはお母さんにお借りしたもので……」
「いいよ、俺が言っておくから。ほら、ウチにないし」
「……でも……」
困ったようにエプロンのすそをつまむ姿は、まるで幼な妻。
うわ、ヤバい。
かわいすぎるだろ、コレは。
「じゃ、待ってるよ」
「……あ。はぁい」
よからぬセリフを吐きそうになる口を慌てて塞ぎ、彼女から視線を逸らしてリビングへ向かう。
とてもじゃないが、あんな姿をいつまでも見せられていたら、衝動に駆られる。
……それこそ、いろいろ口に出せないようなモノの。
「あら。起きたの?」
「ああ」
L字型のソファの端へ腰かけると、両親が揃って旅番組を見ていた。
相変わらず、仲がいいというか……どっか出かけるのが好きだな。
「お袋。あのエプロン、もらって帰ってもいい?」
「え? いいわよ、別に」
「じゃあ、もらってく」
「うん。羽織ちゃん似合うものねぇ」
「そうだなぁ。昔の母さんみたいだ。……料理ができるところは違うけど」
「やだもー。でも、確かに似てるかもしれないわねー。純粋な感じとか!」
「はっはっは」
……ったく、この両親は……。
まぁ、仲が悪いよりはいいんだが、それでも……どうかとたまに思うことがある。
ああ、そういえば孝之も同じようなことを言ってたっけな。
お互い、そういうところは似てるのかもしれない。
「……え?」
父が不意にいたずらっぽい笑みを向けてきた。
……あー、これは遺伝か。
多分、無意識に俺もやってるんだよな。
その顔を見て、ふと実感する。
「しかし、本当にかわいい子を連れてきたな。祐恭のことだから、年上を連れてくるんじゃないかと思っていたんだが……」
「そうそう! 私も思ったわー。まさか、紗那よりも年下の子を連れてくるなんてねー」
「……いいだろ、別に」
どいつもこいつも、泰兄みたいなことを。
仕方ないだろ、惚れたモンは。
ぐいっとお茶を飲み、あえて視線をテレビに逸らす。
――……と、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
「あら、始まったみたいね」
「そうだな。今日は天気もいいし、盛り上がるんじゃないか?」
そう。
今日は近所の神社で夜祭が行われるのだ。
昔からお盆に必ずやっているため、今回も彼女に浴衣を持ってくるように伝えていた。
夕食後は、もちろん出かけるつもりだ。
祭りなんて、向こうじゃ知らないし。
「ん?」
などと考えていると、不意に声がかかった。
「お皿、取ってもらってもいいですか?」
「あ、いいよ」
顔を覗かせた彼女にうなずき、キッチンへ向かってから、食器棚の1番上にある大皿に手を伸ばす。
なんでまたこんな場所にしまいこんだんだ。
……って、こんな大皿で料理をふるまうことなんて、そうなかったっけな。我が家では。
「ありがとうございます」
「いいえ。さすがにここは届かないよね」
「……です」
苦笑を浮かべた彼女が、皿にキッチンペーパーを敷き、揚げ終わった料理を丁寧に盛りつけ始めた。
相変わらず、仕事が丁寧だ。
彼女の手によって、がらりとできばえが変化する。
「よし、っと……」
「終わった?」
「うん。あとは、ご飯をお茶碗によそうだけです」
「……ふぅん」
「っ……! せ、んせっ……」
こちらに身体ごと振り返った彼女を、そのまま抱きしめる。
慌てたように小声で抗議されるが、当然構いやしない。
ふわりと鼻先に香るのは、今目の前で作られていたうまそうな料理の匂いとは違う、彼女自身の甘い香り。
「……ご苦労様」
「あ……りがとう、ございます」
耳元へ唇を寄せ、静かに呟く。
少しだけ顔を離してから見ると、困ったように小さく笑った彼女と目が合い、自分も笑みが浮かんだ。
「……っ、もぅ。ダメですってば……」
「……静かに」
困ったように眉を寄せる彼女の唇へ、しぃ、と人差し指を立てたまま付けてやる。
こうして小声で話していると、なんとなくヤらしさがこみあげてくる気がするのはなぜか。
眉を寄せ、頬を赤らめている彼女。
しかも、こうして正面から見ていると、やっぱり裸エプロンっぽいワケで。
「っ……!」
たまらず唇を塞いでいた。
ゆっくりと味わうように、舌を絡める。
今日、家を出てから2度目のキス。
だからなのか、なんとなく離すのを躊躇する。
「……ふ……」
小さく息をつくと、目が合った途端上目遣いで睨まれた。
睨まれた、に入らないよな。この顔は。
まるで、『もぅ。こんなところで』などと思っているかのような表情。
……だから、そんな顔されるとダメだってことを、そろそろ知ってくれたほうがいいと思う。
もう1度……と思ったのだが、さすがにやめる。
このままだと、本当に抑えられなくなりそうだし。
「…………」
「……ふぅ」
仕方なく彼女を離すと、少しほっとしたように息をついた。
だが、目が合った瞬間、慌てたように首と手を横に振る。
相変わらず、素直な子だ。
「エプロン、持って帰っていいって」
「……え? 本当ですか?」
「うん。似合ってるし、どうぞ、って」
「わぁ……! 嬉しい!」
にっこり微笑んだ彼女が、くるりと半分ほど回って背中を見た。
その姿は、まるで小さな子が新しい服に初めて袖を通したときのようで、微笑ましくなる。
「それじゃ、ごはんにしましょうか」
「ん。わかった」
彼女にうなずき、廊下を進んで階段の吹き抜けまで行ってから、2階に声をかける。
すると、ものの数秒でふたりがそれぞれ降りてきた。
同じころ、すでにダイニングテーブルには色とりどりの夕食が並べられていて、両親の姿も揃っていた。
「うわぁ! これ、羽織ちゃんひとりで作ったの?」
「はい」
「へぇー! すっげ! めちゃめちゃ、うまそー!」
「あらあらっ、こんなにたくさん……! 大変だったでしょう?」
「ほぉー、こりゃすごいな。早速いただこうか」
それぞれが席に着いて感想を漏らしたところで、一斉に彼女を見つめる。
その顔は、どれもこれも嬉しそうで、かつどこか尊敬の眼差しにも見えて。
……まぁ、俺の彼女だからな。
内心、ものすごく優越感が芽生えていた。
「それじゃ」
父が最初に箸を手にしたのを見て、一同が彼女を見てから『いただきます』を口にする。
「……お口に合うといいんですけれど」
当の本人は心配そうに見つめていたが、しばらくして家族が嬉しそうに感謝を述べるにつれて、その表情も和らいでいった。
いつもと同じ味。
だが、これは当たり前なんかでは決してなくて、ありがたい特別なこと。
彼女が、俺のそばにいてくれるようになったから、『当然』だと思えるようになった事実。
やっぱりコレは、幸せの証だろう。
「うん、おいしいー! いいなぁ、お兄ちゃん。毎日食べれるんでしょ?」
「まぁ、特権てヤツだろ」
「ちぇー。俺も彼女に作ってもらおうかなぁ」
「あら、そうしたらいいじゃない。そうそう、今度は涼も彼女連れてきなさいね」
「うぇっ。わ、わかったよ……」
いつも抜けているようなお袋だが、こういうときはしっかりしているというか、なんというか。
ぴしり、とさりげにつっこまれた涼が肩をすくめたのを見て、少しおかしくなった。
――……そんな話をしながら食事をしていると、あっという間に皿が空になっていった。
母の料理とは正反対の、大盛況。
皿を片付けながらキッチンに向かう彼女に近づき、微笑みながら頭を撫でる。
「……ありがと。ホント、助かったよ」
「喜んで貰えて良かったです」
彼女がにっこり笑って、小さくうなずく。
すると、そこに母が満面の笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
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