「それじゃ、出かけようか」
朝食後、お洗濯を済ませてベランダから戻ってきたところで、ソファに座ったままの彼がにっこり微笑んだ。
「えっと……どこにですか?」
「買い物」
きっぱりと言い切ったその顔は、なんだかとても嬉しそうで。
先生、こんなに無邪気に笑うんだ……なんてふと思ってしまった。
「ほら、羽織ちゃんも制服に着替える」
「えぇ!? わ、私は別に……」
「ダメ。俺が着たんだから、着なさい」
「……うぅ。わかりました」
普段制服を着ているせいか、休みの日には必ず私服を着るようにしていた。
だからこそ、なんとなく学校がない今着るのは、恥ずかしくなる。
……しかも、目の前にいるのは冬瀬高校の制服を着た先生で……うぅ、なんだかややこしいけれど、そんな状況が今実際に起きているんだから、仕方がない。
「…………」
寝室で着替え終えてからそっとリビングを覗くと、ちょうど彼がスマフォとお財布、そして車の鍵を持ったところだった。
「えっ! 車で行くんですか?」
「当たり前だろ? あんなところまで歩いて行ったら、途中で熱中症」
平然とした顔で肩をすくめた彼は、私を一瞥してからさっさと玄関に向った。
……車。
ということは当然、運転するのは彼。
「ま、待ってください! 制服なんかで運転してたら――」
「いいんだよ、別に。バレたら免許見せて24だって言い張る」
「でも、制服は!?」
「こういう趣味があるんです、って」
「っ……もぅ! 本気ですか……?」
「じゃあ、アレだ。映画の試写会があって、制服じゃないと観れないってことにしておこう」
どうしてこうもあれこれと楽しそうに話すんだろう。
しかも、ぽんぽんと次から次へ私じゃ考えつかないようなことを口にしながら。
笑って靴を履いた彼が、私を振り返ってから玄関に手をかける。
「っ、待ってください!」
「ほら。おいで」
慌てて靴を履き、くすっと笑った彼に手を伸ばすと、指を絡めるようにしてから握ってくれた。
「行くよ」
「……はいっ」
優しい笑み。
眼鏡越しの瞳ではない、ダイレクトな眼差し。
いつもと同じはずなのに、いつもと違う。
彼の面影は当然あるんだけれど、やっぱり違う人のように見えるときもあって。
……同い年の、彼。
そう思うと、一層どきりとする。
「……あー。なんか楽しくなってきた」
「そうですか?」
「うん。朝起きたときは、かなりヘコんだけど」
手を繋いだままエレベーターに乗り、エントランスから車へ向かう。
愛車の、赤いRX−8。
いつもと同じ場所に停められているその車は、間違いなく彼の物。
「これで足届かなかったら、ちょっと切ないな」
「あはは」
いつもと同じ手つきで鍵を開け、運転席に乗り込むのを見届けてから自分も助手席へ回る。
すると、ミラーを調節してからシートの位置をずらした。
「…………」
「し、しょうがないですよ。ほら、今は18なんだし」
「まぁね」
一瞬、目が合ったときに妙な沈黙が訪れ、慌てて手を振ってから言葉を探すと苦笑を浮かべながらもうなずいてくれた。
本気で切ないと思っているわけじゃない。
彼が、こういうときに私をからかうかのような素振りを見せるのは、一種のコミュニケーションなんだとわかるから。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
慣れた手つきでキーを差し込み、セルを回す。
一連の動作を見ながらも、やっぱりどきどきは収まらなかった。
手つきも、全部彼そのもの。
なんだか、変な感じだ。
口調も仕草も変わらないんだけど、やっぱり、24歳の彼とは違う。
こんな夢のような話、ほかの誰に言っても信じてもらえるとは思わない。
だからこそ、まさに“ふたりだけの秘密”という色が強くて、すごく嬉しかった。
ショッピングモールへ着き、いつものようにハンドルを片手で操りながらバックで車を停めたあとで、ドアを開けてくれた彼。
仕草こそ、いつもと一緒……なんだけど。
「……? 何?」
「え、と……なんでもないです」
手と一緒にかぶりを振るものの、まだまだ顔は緩んだまま。
そんな私を不思議そうに見ながらも、すぐに手を取ってから店内入口へと足を向けた。
いつもは、こんなふうに手を繋ぐことはできない。
こんなふうに、人の目を気にせずに歩くこともできない。
……だから。
だから、本当に嬉しかった。
この人が私の彼なんだ、って。
私たち、付き合ってるんだ、って。
たくさんの人に言う代わりに、態度で示す。
それができている今、幸せと呼ぶ以外になんと言えばいいだろう。
「……えへへ」
「嬉しそうだな」
「うんっ。嬉しいです」
ぎゅっと手に力を込めて寄り添うようにすると、彼も少し微笑んでから握り返してくれた。
……幸せ。
制服姿で、大勢の人たちの中にいる今。
どこからどう見ても、きっと私たちは“付き合ってる”んだとわかるだろう。
…………本当は、ね。
本当はいつも、こんなふうにしている高校生同士のカップルを見て、羨ましくないわけじゃなかった。
楽しそうで、本当に幸せそうで。
大勢の人に見えるように手を繋いで一緒に歩いている姿は、主張しているようでやっぱり心の中では『いいなぁ』って思っていたんだと思う。
私にはできないことだから。
でも、今――……同じことをしている。
堂々と、胸を張って。
見てほしい。
この人が、私の1番大切な人。
大好きで大好きでたまらない、特別な人なの。
すれ違うたくさんの人を眺めながら、どうしたって顔には自然と笑顔が浮かんでいた。
「え?」
手を繋いで彼に導かれるままで居たら、すぐ目の前にゲームセンターが広がっていた。
いったい、どこへ行くのかと思っていただけに、正直驚く。
……珍しい。
というか、先生とこんなところに来るのは初めて。
手を引かれるまま付いて行くと、あるゲームの前でぴたりと止まった。
「……え?」
同じ型の機械が4つほど並んでいる、ここ。
大きな音でテンポの速い音楽が流れている。
「勝負しようか」
彼が嬉しそうに笑ったのは、いわゆる車のシミュレーションゲームの前。
ハンドルとアクセル、ブレーキ、そしてギアがついている、アレだ。
「何? その顔は」
「……だって……」
「車、好きなんだろ?」
「それはそうですけど! でも、こういうゲーム、苦手なんですよ」
……うぅ。
そんな顔されても、困るものは困る。
はっきり言って、私のこのゲーム能力は著しく低い。
お兄ちゃんとやったらもちろん負けるのは言うまでもないけれど、もしかしたら小学生の従弟とやっても私のほうが切ない思いをする羽目になるかも。
「……負けるから、やです」
「やる前からそう言うのは、感心しないね」
「っ……だって」
「何事も、最初からそんなふうに思ったら、為ることも為らないよ」
肩をすくめられ、仰る通りではあるものの素直に『うん』とは言えない。
……だって、本当に苦手なんだもん。
そもそも、ギアの使い方がよくわからないし。
……オートマ対決でもいいのかな。
「あっ」
なんて眉をひそめて見ていたら、私の返事も聞かずに彼が小銭を入れてしまった。
「じゃあ、ハンデをあげよう。20秒後にスタートするから」
「ホントに?」
「うん」
優しい提案に、ぱっと表情が輝く。
……それが、間違いだったんだけど。
20秒貰った程度で、『勝てるかもしれない』なんて思ったのが甘かったんだよね。
運転歴も長くて、どうすれば車が動くかをちゃんと理解してる彼に、1度たりとも車を動かしたことがない私が勝てるはずないのに。
結局、きゃーとか、わーとかいろんな声を出しながら操作していたものの、圧倒的な差をつけられての彼の勝利に終わった。
「まぁ、実力の差ってヤツかな」
「……うぅ。もっと手加減してくれてもいいじゃないですか」
「20秒のハンデあげただろ?十分十分」
「うー……」
ぶちぶちと文句を言いながら彼を見ると、やけに嬉しそうな顔をしていた。
……本当に18歳の男の子みたい。
そう思うと、寄っていた眉から力が抜け、ちょっと笑ってしまった。
やっぱり、先生も子どもっぽいところがあるのかな、なんて再発見した気分。
「さて。それじゃ、次は何しようかな」
立ち上がってからぐるりと見回した彼に続き、自分もあたりを……というか、すぐそこ。
目に入った四角い機械が並んでいるコーナーに視線を止めたまま、すぐここにいる彼の服をつまむ。
「ん?」
「祐恭さん」
「………………」
「……えへへ」
「却下」
「っ……! どうしてですか?」
今の今まで楽しそうな顔をしていたのに、私が指差した方向を見た途端、物凄く嫌そうな顔をされた。
露骨。
その急変さに驚きはするものの、どこかでは『やっぱり』とも思っていたけれど。
「あー。そろそろメシでも行こうかな」
「わっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たない」
「祐恭さんっ!」
方向転換した彼の腕を慌てて掴み、なんとかその場に足止めしてもらうべく必死に説得にかかる。
「どうしてもっ、どうしてもなんです! 1枚だけでいいですから!」
「ヤだ」
「どうしてですか?」
「知ってるだろ? 俺、写真とか好きじゃないんだよ。……いい思い出もないし」
「ぅ。そんな……あれはだって、お兄ちゃんで……」
「とにかく。好きじゃないから、却下」
「そんなぁ!」
どうしても撮りたい。
それこそ、なんとしてでも。
今まではそう思わなかったけれど、今日、ここでプリクラの機械を目にしてしまったら、今まで押さえていた物が溢れ出てきたかのように、そう簡単に『わかりました』とは言えなかった。
これまで、何枚見てきただろう。
友達が私に見せてくれた、プリクラを。
もちろん、友人や絵里なんかとは私も同じように撮っている。
……だけど、違うの。
私が『いいなぁ』と思うのは、それじゃない。
彼氏と撮った、特別なプリクラを見せられたときだ。
先生と撮ることなんてできないし、無理だとわかってもいたから、あえて口に出したことはない。
……だけど、今は違う。
彼は彼だけど、先生じゃない。
見た目は、私と同い年の高校生。
そう。高校生、なんだもん。
どこからどう見ても、一緒にプリクラを撮ったところで誰に変だと思われることのない姿。
こんな機会、今後2度とないと思う。
今、だけ。
神様がくれた、特別な時間だから。
だから――……。
「……祐恭さん……ダメですか?」
ぎゅ、と両手で掴んだ彼のシャツに皺が寄ったのが見えて、眉が寄った。
すごく困らせてる、私。
我侭全開。
それでも、どうしても。
彼が目を見て『ダメだ』と言ってくれない限り、諦めがつかない。
……ずるいと思う。
すべてを、彼に委ねている自分が。
無理強いされたことなんてないんだから、それを私が彼にしていいはずないのに。
……なのに。
「え……?」
「……ワザと?」
「何がですか?」
まじまじと私の顔を見た彼が、瞳を細めて小さくため息を漏らした。
ワザと。
それが何を意味するのかわからなくて、まばたきが出る。
「そんな顔すれば、俺が『しょうがないな』って言うと思ってる?」
「えっ!?」
「……ったく」
「っ……私、そんなつもりじゃ!」
ふい、と私に背を向けてしまった彼を慌てて追い、その手を握る。
でも、彼の言葉を否定することはできなかった。
だって……どうにかこうにかお願いしたら、もしかしたら『いいよ』って言ってくれるんじゃないか、って……ズルイから、私、思ったんだもん。
「……あ」
「撮るんだろ?」
「えっ……ホントですか?」
「……別にいいなら、いいけど」
「ッ……! 撮りたいっ! 撮りたいです!!」
1番手近にあった機械へ彼が歩み寄ったのを見て、目が丸くなった。
……うそ、みたい。
でも、嘘なんかじゃない。
肩をすくめてこちらに背を向けようとした彼を、慌てて止める。
だって、本当にそう思ってくれたんだ、ってわかったから。
「嬉しいです。……すごく!」
「……ったく。1回だけね」
「はいっ!」
彼の手を取り、引くようにしてビニールカーテンの中に入ると、白い床が光を反射してちょっと眩しかった。
でも、それ以上に彼が隣にいてくれることが嬉しくて、握った手は離せなかった。
「えっと……それじゃあ、どんなふうに撮ります?」
「どれでもいいよ」
「……もぅ。んー……あ、じゃあこれで」
チャンスは1度きり。
あとにも先にも、巡ってくることはそう簡単にない。
だから、慎重に考えてちゃんと撮りたい。
……美白、はしなくてもいいよね。
うー……あとは……。
「それじゃあ、4回ですね」
「全部同じ顔でいい?」
「……それでもいいです」
「いいんだ」
「で、でもっ、せめて少しは変えてもらえると嬉しいですよ?」
さらりと呟いた彼に渋々うなずくと、おかしそうに笑われたので慌てて一応付け足しておく。
……もぅ。
先生に言われると、本気なのか冗談なのか悩んじゃうから、困る。
「あっ。え、え、どんな顔します?」
「いいんじゃない? 普通で」
「えぇ! でも、それじゃ面白くな……っあ!」
ぐいっと肩を引き寄せた彼が、カメラを覗き込むようにして睨んだ途端、パシャリ、と音が聞こえた。
『ステキー』なんて気持ちのこもっていないアナウンスが流れて、余計焦る。
「もぅ! せっかくだから、笑ってください!」
「別にいいでしょ?」
「よくないです!」
きゃーきゃー騒いでいると、次の撮影の秒読みが開始された。
慌ててカメラを向くも、液晶に映っているのはなんとも言えない顔をして腕を組んでいる……彼。
「笑顔で撮りましょうよー!」
「……それじゃ、にーってして」
「……に。……にー……」
「うん。イイ顔」
「……本当ですか?」
苦笑を浮べて彼を見ると、カメラに向き直ってから優しく微笑んでくれていた。
液晶に映ったその表情に、どきりとする。
……なんだかんだ言って、優しいんだよね。先生は。
先ほどとは違い、2回目を普通の笑顔で撮り終えてから、彼が肩を抱いてカメラに寄る。
「何?」
「え、っと……なんだか楽しそうだなぁ、って」
「相手が羽織ちゃんだからね」
「っ……」
にやっと笑ってカメラを指さされ、慌ててそちらに目を向ける。
途端にフラッシュが光って、いよいよ4回目。
「んー……何がいいかなぁ」
なんてことを考えてるうちに、どんどんカウントは減っていく。
うぅ。コレで最後なのに……!
もっと、撮る前にちゃんとあれこれ考えておけばよかった。
でも、それはもうあとの祭りそのもの。
「それじゃあ、最後は1番いい笑顔で撮りましょうよ!」
「……まぁ、考えてあげてもいいけど」
「お願いします」
くす、と笑った彼にうなずき、カメラへ向き直る。
すぐ隣にいる、彼。
普段どころか、きっとこの先もう2度と着てくれないであろう冬瀬の制服を着た、18歳当時が再現れている特別な時間。
抱き寄せてくれている彼の背に回した手へ、力を込める。
……特別な人。
大好きな人。
今、こうして過ごせているのは見えない力が働いてくれたからに違いない。
「……え?」
ちょうど、カウントが“1”を表示したとき。
同じようにカメラを見つめていたはずの彼が、ふと動いた。
一瞬、顔に落ちた影。
頬に感じた柔らかさに驚いた瞬間、パシャ、という音が響いた。
「それじゃ、先に出てるから」
「あ……はい」
撮影終了の声が聞こえるものの、どくどくと脈が速まって少しだけ苦しさを覚えた。
私を一瞥するなり外に出た彼の背を見送ったところで、ようやく頭が動き始める。
はっ、としてからあとを追うようにして機械から出て、らくがきコーナーへ。
そこに映し出されている、画像。
当然それは今、彼と一緒に撮った4枚の写真なんだけど……。
「…………」
絵里と一緒に撮るときは、あれこれ競うように書き入れるんだけど、今回ばかりは手がそこまで動かなかった。
……このままでもいいかな、って思ったの。
特別な文字も何もない、シンプルなただのプリクラ。
でも、“ただの”なんかじゃない。
特別で、もう二度と撮ることはできないショットなんだから。
「……いっか」
小さく独り言を呟いてから、終了を選んで握っていたペンを置く。
手はつけない。
だって、どんなにかわいく仕上げることができたとしても、それらはすべて余計なものに違いないから。
せっかくの画像が、落書きやデコレーションで見えなくなってしまうのは、嫌だ。
バッグを持って外に出ると、すぐそこにあるベンチの縁へ、両腕を乗せて足を組んでいる彼がいた。
「……もぅ。なんだか、とっても偉そうですよ?」
「でも、最近の高校生ってこんなじゃない?」
「偏見ですよー? それ」
半ば、ふんぞり返っているようにも見えるこの格好。
苦笑を浮かべて首を横に振ると、彼もおかしそうに笑ってから立ち上がった。
シールの取り出し口に回り、落ちてきたシールを受け取ってから――……眺めては、にやける。
……とと。
ふにゃんとした顔になる前に、彼に聞かなきゃいけない。
「……何?」
見あげても、何食わぬ顔で返事をする彼。
……何、じゃないもんっ。
思わぬ言葉に、つい笑ってしまいそうになる。
「もぅ……いじわる」
「意地悪? 俺は何もしてないよ?」
「したじゃないですか! ……ほらぁ」
指差してプリクラを見せてやると、ふいっと視線をそらしてしまった。
肩をすくめ、こちらに背を向けてしまったものの、その頬が若干赤くなっているように見えなくもない。
「…………」
「別に」
何も言えずに、にまにましながら彼を見ていたら、軽く手を振って小さくそんな言葉が聞こえた。
最後の、4ショット目。
普通に笑顔で撮ろうとしていたものの、最後の最後に頬へキスをされた。
ばっちりなタイミングで撮られた、驚いた自分と、瞳を閉じて唇を寄せている彼。
……恥ずかしい……。
でも、嬉しくもある。
こんなプリクラ、絶対に撮れないと思ってたから。
ううん、きっと彼のサービス、かな。
普段とは違う、18の今だからできるというか……そんな感じの。
もし、24歳の彼とプリクラを撮る機会があっても、きっとこんなふうにしてくれることはないと思う。
絶対。
「さ。行くかな」
「……えへへ」
「何」
「なんでもないです」
手を引いてくれた彼は、前を向いたまま私を決して振り返らなかった。
だけど、そんな姿を見れば見るほどついつい頬が緩んでしまって。
にまにまにま、と頬が戻らなくなる。
……先生、かわいいなぁ。もう。
撮ったプリクラを大事に握りながら、たまらずそんなことを思った。
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